【完結】お姉様の婚約者

七瀬菜々

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第二章 悪魔退治

57:歪み(5)

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 娼館の外に出ると野次馬が集まっていた。
 不躾な視線が私たちに送られる。社交界でまた、噂の的になるのだろうか。また、可哀想にと言われるのだろうか。

「夫人、眩しくないですか?」
「……え?あ、はい。少し……?」

 確かに急に外に出たから太陽の光が眩しく感じるが、目を細めるほどでもない。
 しかしアルベルト卿は私の顔を隠すように上着を広げて庇を作ってくれた。

「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」

 アルベルト卿はニコッと笑った。紳士だ。
 この人、笑顔は胡散臭いけどちゃんと紳士だ。
 

「ミュリエル!」

 馬車に乗り込む手前で、私たちを見つけたオズウェル殿下が駆け寄ってきた。
 殿下はジェフリーの腕に抱かれた私の姿を見て、グッと眉根を寄せる。

「無事……、ではないか。遅くなってすまなかった」

 アルベルト卿と同じこと言ってる。
 この人、こんな人だったかな?
 もっと嫌な人じゃなかったっけ?あれ?

「ありがとうございます。出が……、殿下」

 混乱のあまり、無意識に出てしまった。
 誤魔化してはみたが流石に無理がある。ジェフリーも同じことを思ったのか、彼は「だから気をつけろと言ったのに」とでも言いたげに、半眼でこちらを見下ろした。
 私はやってしまったと口を抑えたが時すでに遅しである。
 そう思った……、のだが、

「あははっ!ミュリエル、今、出涸らしと言おうとしただろう?」

 殿下は豪快に口を大きく開けて笑った。
 私は驚いて目を見開いた。

「ん?どうした、驚いたみたいな顔をして。目玉が転げ落ちそうだ。押し込んでやろうか?」
「押し込まないでください。……あの、怒らないのですか?」
「何を?」
「え?いや、だって……」
「ああ、出涸らしか?呼ばれ慣れてるから気にするな」
「気にするなって……」
「まあ、流石に公の場でそれを言うのは不敬だけど、こういう場では別に構わないさ。私はそれを愛称だと思っているからな。正直あまり気にしていない」
「愛称……」
「シルヴィアにも時々そう呼ばれるしな」
「わお。さすがシルヴィア」

 いや、しかし。出涸らしを愛称とは。ポジティブに捉えるにしても程があるだろうに。

「ふ、懐が深いのですね。尊敬します」
「そうだろう!そうだろう!」
「夫人。違いますよ。この人は懐が深いんじゃなくて、ただお馬鹿さんなだけです」

 誰が味方で誰が敵なのか考えるのも、腹の探り合いをするのも苦手な殿下は、他人の言葉など気にしない生き方を選んだらしい。

「どうせ誰からも期待されていないしね。気にしなくても問題ないのさ」
 
 アルベルト卿はそう言ってウインクをした。この人も大概不敬だな。

「おい、アルベルト。私は馬鹿なのではなく、大らかなのだ」
「はいはい」
「貴様……。あまり私を馬鹿にするとクビにするぞ」
「だから、できるならどうぞって言ってるじゃないっすか」
「お前は本当に!」

 殿下はアルベルト卿に掴み掛かろうとした。だが伸ばした腕は一瞬にして捻りあげられてしまう。
 痛い痛いと叫ぶ殿下。アルベルト卿はその様子を見て笑っている。
 この人、本当に不敬で首を切られそうだな。仕事を辞めるとかそういう意味ではなく、物理的に。

「ふふっ」

 二人のやりとりが滑稽に見えて私は思わず笑みをこぼしてしまった。
 そして、はたと気づく。

 ああ、そうか。これはわざとだ。私を笑かそうとしてくれているのだ。

 私は二人の顔をチラリと見た。二人とも、私が笑っているのを見て安堵したように微笑んだ。

「ありがとうございます、殿下。アルベルト卿」
「うむ」
「どういたしまして、夫人」
「ミュリエル、そろそろ馬車に乗ろう。座れるか?」
「あ、はい」

 ジェフリーは私をそっと馬車の中に下ろした。とても優しく、まるで壊れ物を扱うかのように慎重に。
 私は馬車の中から、殿下とアルベルト卿に会釈した。
 二人は後のことはこちらに任せてしっかり休むんだぞ、と言って手を振ってくれた。

「……優しい」

 アルベルト卿も王子殿下も優しい人だった。
 軟派で軽い男という印象のアルベルト卿は思っていたよりも紳士で、
 殿下は……、確かに頭はあまり良くないかもしれないが、ちゃんと気遣いができる人だった。
 もしかしたら夜会で私に絡んできていたのも、ただ単純に私のことを心配してくれていただけなのかもしれない。


「見ろよ、あれ」
「ブラッドレイ侯爵夫人だ!」
「あれは結婚式当日に逃亡したっていう、ヘレナ嬢か?」

 外の野次馬が騒がしくなった。一部真相を知る者たちからは、正義感から出た毒を孕む言葉が飛び交う。
 私は馬車の中から、凶悪犯のように連行される二人を見た。
 ジェフリーはすぐに見なくていいと、カーテンを閉めた。

「帰ろうか」

 ジェフリーの合図で馬車は走り出した。
 民衆の声が遠ざかる。私はカーテンの隙間から遠くなるヴァレリアを眺め、安堵した。
 多分これは、もうあの悪魔に怯えなくても良いという安心感だ。
 だが同時に心に大きな穴が空いたような感覚もある。これは多分、私の心の中の多くを占めていた姉様への感情が全部なくなってしまったせいだろう。
 おかげで私の心は風通しが良くなりすぎて、寒い。胸の奥がスースーする。

「これから、ブラッドレイ家はどうなるのでしょうか」

 不意に言葉が漏れ出た。
 ジェフリーは険しい顔をして、私を見た。

「悪いが、オーレンドルフ家はブラッドレイ家を許しはしないぞ」
「そうでしょうね」

 私はこれでもまだ一応 。その肩書きを持つ女に手を出されて黙っているのは公爵家の面子にも関わる。
 ブラッドレイ家はただでさえ、5年前の結婚式で盛大にやらかしているし、その上で今回の騒ぎ。許せる範囲は遥かに超えている。
 きっとオーレンドルフを敵に回し、醜聞に塗れてしまったブラッドレイ家はこれから先、緩やかに衰退していくことだろう。どれだけあのおじさんが頑張ろうとも、名誉が回復することはない。
 長女は結婚式直前で逃げ、次女は夫人とは血のつながりがなく、嫉妬で気が狂った夫人はすでに嫁いだ次女を誘拐して痛ぶり、父であり夫である侯爵はただ狼狽えるだけの無能で。

 つくづく、とんでもない家庭だな。

 私は思わず鼻で笑ってしまった。

「まあ、もうどうでもいいけど」

 もう彼らがどうなろうが、知ったことではない。
 知ったことでは……。

 ーーーーいや、ダメだ。それはダメだ。

「に、兄様!どうか、どうかご慈悲を!」

 私は隣に座るジェフリーの腕をギュッと掴んだ。

「……ミュリエル?」

 ジェフリーは怪訝そうに眉を顰める。
 だが怯んではいけない。だって、は無関係だもの。

「お、弟がいるのです!まだ12歳にも満たない弟がいるのです!」

 私が唯一、ブラッドレイ家の一員として出席が許された年2回の親族会議。弟とはその会議でしか顔を合わせることがなかった。
 姉として接したことなど一度もないし、ほとんど会話らしい会話もしたことがない。ほぼ他人同然の関係。
 けれど、あの子が産まれてから私は外に出ることが許された。
 あの子が産まれなければ私は外界の空気の美味しさも、屋台の串焼きの塩辛さも知ることはできなかった。

「あの子は、産まれた時から母親がを蔑む姿を見せられているのに、私を使用人扱いしたことがないのです。私と会話をする機会は本当に数えるほどしかなかったけど、私と話をする時はこんな私のことも姉と呼んでくれました」

 今思うと、彼だけは私を対等な人間として見ていた気がする。それは彼がまだ幼い子どもであったせいもあるのだろうが、それでも私は確かに嬉しかった。

「まだ子どもなのです……」
 
 子どもだから、という理由で見逃してくれなんて言うのは甘い考えだ。わかってはいる。けれどどうにか、少しでもいいから弟が今後も要らぬ苦労をせぬよう配慮してほしい。
 私はそう言って頭を下げた。
 すると、頭上から大きなため息が聞こえた。私は怒らせたと思い、びくりと肩をこわばらせた。

「君は本当……、人のことばかりだな」

 呆れたような、悲しいような、そんな口調でジェフリーは言った。
 人のことばかり……?
 私はしばらく考え、そしてハッと気がついた。

「あ、そうですよね。すみません、自分のことも大事ですよね」

 恥ずかしい。何を勘違いしていたのだろう。
 勝手に、まだジェフリーの妻でいられると思っていた。
 ジェフリーが姉様と再婚しないのなら、私はまだこの人の妻でいられると勝手に…….。傲慢な考えだ。
 弟のことをお願いするよりも先に自分の処分についてちゃんと話すべきだった。
 私はドレスのスカートをギュッと握り、顔を上げてジェフリーを見据えた。
 大丈夫。ちゃんと、気丈に振る舞える。泣かないで言える。

「私の処分についてはお任せします。私はオーレンドルフ家の決定に従います」
「………………は?」
「明確に妾腹であると知っていたわけではないのですが、薄々は勘づいていました。卑しい血が流れていることを黙っていたのですから、いかなる処分も受け入れます。申し訳ありませんでした」
「何を言って……」
「兄様の時間を5年も無駄にしたこと、深くお詫びいたします。この身を持って償いま……んむ?」 

 ジェフリーは謝罪の言葉を紡ぐ私の口にそっと手を当てた。
 そして俯き、力無く呟く。

「どうして、そんなことを言うんだ」
「……え?」
「どうでもいいよ、そんなこと」
「そんなことって……」
「そんなことだよ。今回の件で君が処分を受けることはない。もし仮に出生について隠していたことを咎められるとするならば、それは侯爵夫妻の方だ。君じゃない。君は何も悪くない」
「……か、寛大なご配慮、ありがとうございます」
「ああ……」

 私が感謝を伝えると、ジェフリーは苦しそうに小さく返事をした。
 私は何か間違ったことを言ったのだろうか。

 どうか、そんな悲しそうな顔をしないで。
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