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第二章 悪魔退治
54:歪み(2)
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むせ返るような香水の匂いと、柔らかなお日様の匂いが入り混じったふしぎな空間で私は目を覚ました。
……血の味がする。
馬車に乗ってからの記憶が曖昧だが、多分私は殴られてたのだろう。
「ここ、どこ?」
私はゆっくりと体を起こした。
ふかふかのベッドと香水の匂い。遠くから聞こえる優美な音楽に、落ち着きのない豪華すぎる装飾品の数々。
それらは過去に読んだレディ・ローズの作品の中に出てくる娼館を彷彿とさせた。
「そういえば、新聞のインタビューでサロン・ド・ヴァレリアがモデルだって言ってたな……」
と、いうことはこのは高級娼館ヴァレリアの一室。
私はペッと床に血を吐き出した。そして小さくため息をこぼし、髪をかき上げた。
「…………え?」
髪が、ない。肩から下の髪がない。
私は部屋を見渡した。
すると、床やベッドの上には切り落とされた私の髪が散らばっていた。
動揺する私を見て、扉の前に立っていた女が堪えきれないとでもいうように吹き出した。
「いい気味ねぇ?ミュリエル」
奥様ーー-ブラッドレイ侯爵夫人は、はしたなく大口を開けて狂ったように笑った。
ああ、また始まった。また罵詈雑言の嵐が降ってくる。
私は目を閉じて、心にそっと蓋をする。今更この人の言葉で傷ついたりなんてしないけど、念のためだ。
最近の私はオーレンドルフ家という温かくて平和すぎる場所にいたから、もしかするとうっかり傷ついてしまうかもしれないから。
「……聞いているの?」
「……はい。聞いております」
「いいえ。聞いていなかったわ。お前は私のことを無視していたわ。ねえ、そうでしょう?そうよね?」
「はい。申し訳ございません」
「無視したの!?お前ごときが?この私を!?」
奥様は激昂し、近くに置いてあったガラスの燭台を私に向かって投げた。
私は無意識的に避けてしまい、壁に当たった燭台は砕け散った。
私が避けたことが気に食わない奥様はドカドカと足音を立ててベッドに近づき、私の腹の上に馬乗りになって……、私の首を絞めた。
「……っぐ」
「お前が悪い。お前が男だからエルザは死んだ。お前が生まれたから、エルザは死んだ。お前がお前が全部全部悪いんだ!」
憎悪を隠そうともしない恐ろしい形相で私を見下ろす奥様。彼女の金の瞳はひどく濁っていて、多分私のことすら見えていないのだろう。だからこんなに理不尽なことが言えるのだ。
だって私、何もしていない。ただここにいるだけ。存在しているだけ。
「お前が幸せになるなんて許さない!絶対に許さない!地獄に堕ちろ!!」
もうとうに地獄を味わっているのに、これより堕ちるって無理があるだろう。どこに堕ちろと言うのか。
「全部全部お前のせいだ!お前なんか生まれなければよかったのに!」
そんなこと言われても困る。私は産んでくれなんて頼んでない。
私だってこんな人生を送るなら、産まれたくなかった。
「死ね。死んでしまえ!!」
嘘つき。死ねと言いながら、殺してはくれないくせに。
奥様は私の意識が飛びそうになった寸前で、首から手を離した。
私は喉を抑え、咳き込む。
ああ、あと少しで死ねたのに。
「……なぜ泣かない?」
「……え?」
「お前はいつも泣かないな?」
奥様は私が泣かないことが不服なようで、私の頬を平手打ちした。
泣かねばならないのか。それは少し難しいな。この人のすることで今更泣くのは、とても難しい。
「お前はもうこの程度では泣かないのか。まあいい。……入っておいで!」
奥様の合図で、屈強な体つきの2人の男が入ってきた。
男たちは品定めをするみたいに私を上から下まで舐めるように見て、下卑た笑みを浮かべた。
「コレをお前たちの好きにしていいわ」
奥様はそう言って笑いながら、ベッド横に置いてあるソファに腰掛けた。
男たちは、夫人がそう言うのなら遠慮なく、とベッドに近づいてきた。
大きな汚らしい手が、私の方へと伸びてくる。
ああ、そうか。殴っても罵倒しても、泣かないから。傷つかないから。だから今度は男を使って私を犯そうとしているのか。陵辱される私を見て、悦に浸りたいのか。
「ははっ……」
思わず嘲笑が溢れる。
ここまでするならいっそのこと殺してくれればいいのに。
私はもうどうにでもなれと、全てを諦め、ベッドに寝転んで目を閉じた。
だが、その瞬間。不意にジェフリーの顔が浮かんでしまった。
恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら私に愛を囁く彼の、彼のあの可愛らしい横顔が。
「い、いや!!」
自分のことなんてもうどうでもいいと思っているはずなのに、私の本能は私の体を守ろうとした。
「触るなぁ!」
触られたくない。ジェフリー以外の男に触られるなんて、絶対に嫌。
私はベッドに散らばるガラスの破片を手に取り、それを私を組み敷く男の首に刺した。
そして彼が怯んだ隙にベッドから飛び降り、外へ出ようと扉を目指した。
もう一人の男は私を私を捕まえようと襲いかかるが、私はちょこまかと動き回り、彼らの手から逃れる。
そしてドアノブに手をかけ、扉を開けた。
すると、目の前には姉様と……、あの庭師の男がいた。
姉様は悲痛な表情を浮かべ、私を抱きしめた。
「大丈夫だ、ミュリエル。いつもみたいに黙って耐えていれば、すぐに終わるから」
「…………え?」
「ジェフリーならきっとすぐに気づく。きっとすぐに助けがくる。だから大丈夫だ。死ぬようなことにはならない」
「何……言って……?」
「こんなこと言われても困るよな。でも頼む。ここはどうか私を助けると思って耐えてくれないか?ミュリエルが母様の言うことを聞いてくれたら、母様はもう私を追いかけないと言うんだ」
だからどうか、自分たちが逃げるために我慢して欲しい。
姉様はそう言った。私は頭が真っ白になった。
---あれ?姉様って、こんな人だったかな?
姉様は美人で優しくて完璧な淑女で……、女神様みたいな人だと思っていた。
けれど、どうやら違ったらしい。姉様は自分のために私を騙し、そして……
また、ジェフリーを裏切った。
「ねえ?今どんな気分?慕っていた姉に裏切られて、どんな気分?悲しい?悲しいわよね?あはは!いい気味だわ!!」
奥様が嗤う。男のうちの一人が、私の首根っこを掴んで、姉様から引き剥がした。
そして私を床に叩きつける。大きな物音に何ごとかと、近くの部屋から娼婦や客が顔を出した。
「ごめん。ごめんね、ミュリエル」
姉様は泣きながら私に背を向けた。
「待ちなさいよ」
自分でも聞いたことがないくらい、低い声が出た。
私は自分からこんな声が出るなんて思わなかった。
「待ちなさいよ!この裏切り者!!」
「ミュリエル……」
「またその男と出ていくの?また、あの人を裏切るのか!?」
私がそう叫ぶと、姉様は振り返った。
「ち、違うんだよ、ミュリエル。私はジェフリーとは……」
「違う?何が違うのよ!!」
何も違わない。姉様はまたジェフリーを裏切ろうとしている。
私の脳裏には5年前のあの日、白いタキシードを着て項垂れるジェフリーの姿が浮かんだ。
私はもう、彼のあんな姿、見たくないのに。
「どうしてよ!!どうして!?わかったって言ったじゃない!大切にするって約束したじゃない!!」
「ミュリエル、違うんだ!私とジェフリーは別に……」
「兄様のこと好きじゃないなら、どうして戻ってきたのよ!!これ以上あの人を傷つけないでよ!!」
大事にできないなら、いっそのこと、私にちょうだいよ……。
……血の味がする。
馬車に乗ってからの記憶が曖昧だが、多分私は殴られてたのだろう。
「ここ、どこ?」
私はゆっくりと体を起こした。
ふかふかのベッドと香水の匂い。遠くから聞こえる優美な音楽に、落ち着きのない豪華すぎる装飾品の数々。
それらは過去に読んだレディ・ローズの作品の中に出てくる娼館を彷彿とさせた。
「そういえば、新聞のインタビューでサロン・ド・ヴァレリアがモデルだって言ってたな……」
と、いうことはこのは高級娼館ヴァレリアの一室。
私はペッと床に血を吐き出した。そして小さくため息をこぼし、髪をかき上げた。
「…………え?」
髪が、ない。肩から下の髪がない。
私は部屋を見渡した。
すると、床やベッドの上には切り落とされた私の髪が散らばっていた。
動揺する私を見て、扉の前に立っていた女が堪えきれないとでもいうように吹き出した。
「いい気味ねぇ?ミュリエル」
奥様ーー-ブラッドレイ侯爵夫人は、はしたなく大口を開けて狂ったように笑った。
ああ、また始まった。また罵詈雑言の嵐が降ってくる。
私は目を閉じて、心にそっと蓋をする。今更この人の言葉で傷ついたりなんてしないけど、念のためだ。
最近の私はオーレンドルフ家という温かくて平和すぎる場所にいたから、もしかするとうっかり傷ついてしまうかもしれないから。
「……聞いているの?」
「……はい。聞いております」
「いいえ。聞いていなかったわ。お前は私のことを無視していたわ。ねえ、そうでしょう?そうよね?」
「はい。申し訳ございません」
「無視したの!?お前ごときが?この私を!?」
奥様は激昂し、近くに置いてあったガラスの燭台を私に向かって投げた。
私は無意識的に避けてしまい、壁に当たった燭台は砕け散った。
私が避けたことが気に食わない奥様はドカドカと足音を立ててベッドに近づき、私の腹の上に馬乗りになって……、私の首を絞めた。
「……っぐ」
「お前が悪い。お前が男だからエルザは死んだ。お前が生まれたから、エルザは死んだ。お前がお前が全部全部悪いんだ!」
憎悪を隠そうともしない恐ろしい形相で私を見下ろす奥様。彼女の金の瞳はひどく濁っていて、多分私のことすら見えていないのだろう。だからこんなに理不尽なことが言えるのだ。
だって私、何もしていない。ただここにいるだけ。存在しているだけ。
「お前が幸せになるなんて許さない!絶対に許さない!地獄に堕ちろ!!」
もうとうに地獄を味わっているのに、これより堕ちるって無理があるだろう。どこに堕ちろと言うのか。
「全部全部お前のせいだ!お前なんか生まれなければよかったのに!」
そんなこと言われても困る。私は産んでくれなんて頼んでない。
私だってこんな人生を送るなら、産まれたくなかった。
「死ね。死んでしまえ!!」
嘘つき。死ねと言いながら、殺してはくれないくせに。
奥様は私の意識が飛びそうになった寸前で、首から手を離した。
私は喉を抑え、咳き込む。
ああ、あと少しで死ねたのに。
「……なぜ泣かない?」
「……え?」
「お前はいつも泣かないな?」
奥様は私が泣かないことが不服なようで、私の頬を平手打ちした。
泣かねばならないのか。それは少し難しいな。この人のすることで今更泣くのは、とても難しい。
「お前はもうこの程度では泣かないのか。まあいい。……入っておいで!」
奥様の合図で、屈強な体つきの2人の男が入ってきた。
男たちは品定めをするみたいに私を上から下まで舐めるように見て、下卑た笑みを浮かべた。
「コレをお前たちの好きにしていいわ」
奥様はそう言って笑いながら、ベッド横に置いてあるソファに腰掛けた。
男たちは、夫人がそう言うのなら遠慮なく、とベッドに近づいてきた。
大きな汚らしい手が、私の方へと伸びてくる。
ああ、そうか。殴っても罵倒しても、泣かないから。傷つかないから。だから今度は男を使って私を犯そうとしているのか。陵辱される私を見て、悦に浸りたいのか。
「ははっ……」
思わず嘲笑が溢れる。
ここまでするならいっそのこと殺してくれればいいのに。
私はもうどうにでもなれと、全てを諦め、ベッドに寝転んで目を閉じた。
だが、その瞬間。不意にジェフリーの顔が浮かんでしまった。
恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら私に愛を囁く彼の、彼のあの可愛らしい横顔が。
「い、いや!!」
自分のことなんてもうどうでもいいと思っているはずなのに、私の本能は私の体を守ろうとした。
「触るなぁ!」
触られたくない。ジェフリー以外の男に触られるなんて、絶対に嫌。
私はベッドに散らばるガラスの破片を手に取り、それを私を組み敷く男の首に刺した。
そして彼が怯んだ隙にベッドから飛び降り、外へ出ようと扉を目指した。
もう一人の男は私を私を捕まえようと襲いかかるが、私はちょこまかと動き回り、彼らの手から逃れる。
そしてドアノブに手をかけ、扉を開けた。
すると、目の前には姉様と……、あの庭師の男がいた。
姉様は悲痛な表情を浮かべ、私を抱きしめた。
「大丈夫だ、ミュリエル。いつもみたいに黙って耐えていれば、すぐに終わるから」
「…………え?」
「ジェフリーならきっとすぐに気づく。きっとすぐに助けがくる。だから大丈夫だ。死ぬようなことにはならない」
「何……言って……?」
「こんなこと言われても困るよな。でも頼む。ここはどうか私を助けると思って耐えてくれないか?ミュリエルが母様の言うことを聞いてくれたら、母様はもう私を追いかけないと言うんだ」
だからどうか、自分たちが逃げるために我慢して欲しい。
姉様はそう言った。私は頭が真っ白になった。
---あれ?姉様って、こんな人だったかな?
姉様は美人で優しくて完璧な淑女で……、女神様みたいな人だと思っていた。
けれど、どうやら違ったらしい。姉様は自分のために私を騙し、そして……
また、ジェフリーを裏切った。
「ねえ?今どんな気分?慕っていた姉に裏切られて、どんな気分?悲しい?悲しいわよね?あはは!いい気味だわ!!」
奥様が嗤う。男のうちの一人が、私の首根っこを掴んで、姉様から引き剥がした。
そして私を床に叩きつける。大きな物音に何ごとかと、近くの部屋から娼婦や客が顔を出した。
「ごめん。ごめんね、ミュリエル」
姉様は泣きながら私に背を向けた。
「待ちなさいよ」
自分でも聞いたことがないくらい、低い声が出た。
私は自分からこんな声が出るなんて思わなかった。
「待ちなさいよ!この裏切り者!!」
「ミュリエル……」
「またその男と出ていくの?また、あの人を裏切るのか!?」
私がそう叫ぶと、姉様は振り返った。
「ち、違うんだよ、ミュリエル。私はジェフリーとは……」
「違う?何が違うのよ!!」
何も違わない。姉様はまたジェフリーを裏切ろうとしている。
私の脳裏には5年前のあの日、白いタキシードを着て項垂れるジェフリーの姿が浮かんだ。
私はもう、彼のあんな姿、見たくないのに。
「どうしてよ!!どうして!?わかったって言ったじゃない!大切にするって約束したじゃない!!」
「ミュリエル、違うんだ!私とジェフリーは別に……」
「兄様のこと好きじゃないなら、どうして戻ってきたのよ!!これ以上あの人を傷つけないでよ!!」
大事にできないなら、いっそのこと、私にちょうだいよ……。
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