【完結】お姉様の婚約者

七瀬菜々

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第二章 悪魔退治

53:歪み(1)

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 私の一番古い記憶は、私と同じ髪色をした女が、「何故お前は男ではないのか」と私に向かって物を投げて罵る姿だ。
 アレが母親であると言うのならば、母とは食糧を指す言葉なのだろう。彼女が私にしたのは食事を与えることだけだった。
 不衛生な屋根裏部屋では、たまに来る使用人が部屋を掃除し、そのついでに私の体を水で洗う。言葉すら交わさない彼女らの方が、屋根裏部屋の主人よりも遥かに母親らしかった。

 あの女が死んでから、私は屋根裏部屋の外に出ることができた。

 外の世界は悪魔が統治する地獄だった。
 見せしめのように人を集めて私を痛ぶるのが趣味の奥様と、それを見守ることしかしない聴衆。それから、たまに現れては気まぐれに私に構うおじさん。
 外の世界はその3種類の人間で構成されていた。

 私が一番初めに覚えた言葉は『ごめんなさい』だった。何よりも先にその言葉を覚え、この人生の中で一番多く使った。生きるために必要不可欠な言葉だった。
 次に覚えたのは……、なんだったかな。『生きていてすみません』だったか、『私は汚い血が流れた人間以下の家畜です』だったかな。あまり覚えていない。
 働くことを覚えたのは4つの時で、命を守るために自ら『罰を与えてください』の鞭を差し出すことを覚えたのは5つの時で……、

 はじめて愛される喜びを知ったのは、確か6つの時だった。

 その日はおじさんがまた、気まぐれに私に甘いお菓子をくれたのだけれど、それを奥様が見つけてしまって2時間近く殴られて罵倒された日だった。
 夜、薄汚い屋根裏部屋で痛む傷を自分で消毒して、自分で包帯を巻いていた時、金髪碧眼の少女の姿をした美しい女神様がライ麦パンを持って屋根裏部屋に現れた。
 彼女は自分のことを姉だと言った。普段はその他大勢の聴衆の中に紛れている少女が、実は私の姉だったのだと知った時は驚いた。
  
 姉様は私の傷の手当てをして、私を抱きしめてくれた。
   私の頭を優しく撫でながら、『大好きだよ。愛しているよ』と言ってくれた。
 私はその日、生まれて初めて心が温かくなるのを感じた。それと同時に屋根裏部屋の外に出てから初めて泣いた。

 それからは世界が色付いて見えた。

 どれだけ殴られても、どれだけ罵られても、私には姉様がいる。
 普段はまともに会話もできないけど、夜になれば姉様が私に優しくしてくれる。構ってくれる。世の中のいろんなことを教えてくれて、私を抱きしめてくれる。
 そう思うと気持ちが楽になった。私は完全に姉様に依存していた。

 だから気付けなかった。私に依存されることが姉様にはつらかった、だなんて。

 
「すまない、ミュリエル。本当にすまない……」

 逃げた先の庭園にいた姉様は今まで抱えていた自分の気持ちを話してくれた。そして私を抱きしめて、泣いた。
 私の存在は大好きな姉様を苦しめていたらしい。死にたくなった。

「……姉様。姉様は、私がいない方が良いですか?」
「違う!そんなこと思ってない!」
「でも、姉様は兄様と結婚するのでしょう?」
「……え?」
「もうお二人は愛し合う仲になったと聞いたのですが、違うのですか?」
「それは……」

 私の問いに姉様は俯いて何かを思案した後、困ったように笑った。
 それが答えなのだと思った。

「私、出て行きます」
「ミュリエル……」
「大丈夫です。どうにか一人で生きて行きます。その術は全部あなたが教えてくれたでしょう?」
「ごめん……」
「謝らないで。私は私の意思で出ていくのですから」

 私の存在は二人の今後を考えると邪魔にしかならない。
 二人がもうすでに愛し合う関係ならば、私が出る幕はない。
 きっと兄様が私を好きだと言っていたのも、ただの気の迷いだったのだ。ホンモノを見たら昔の気持ちが戻ってきたのだろう。
 ならば、私のようなニセモノなんて、彼にはもう必要ない。

 私は大丈夫。心は少し痛むけど、大丈夫。平気。
 いっときでも大好きなあの人に愛してもらえたから。
 たとえ気の迷いだったのだとしても、あの花の香りのする大きな手で触れてもらえた。抱きしめられて、キスをして、愛していると言ってもらえた。
 その記憶さえあればきっと、私はどこへ行っても幸せに生きていける。
 大好きな二人が幸せなら、私はそれだけで十分幸せだ。
 
 私は涙を拭い、笑顔を作った。

「荷物をまとめてきます」
「ミュリエル……。わかった。裏口に馬車を手配しておくから、荷物をまとめたら誰にも見つからないようにおいで」
「わかりました」

 姉様はとても申し訳なさそうな顔をしていた。 
 そんな顔、しなくてもいいのに。
 私はもう一度も「大丈夫」と言って笑うと、すぐに荷物を取りに行った。
 ルイーゼに手伝ってもらい、目立たないような服に着替え、必要最低限の物をトランクに詰める。
 そしてルイーゼに周りを見張ってもらいながら、裏口から外に出た。
 そこには家紋のない古びた馬車があった。
 私は姉様に言われるがまま、馬車に乗り込む。

「首都の検問所までは一緒に行ってあげる」
「ありがとうございます」

 姉様は当然のことだと言って笑った。私に対する罪悪感からか、その笑顔はぎこちないものだった。
 
 ……これが、姉妹の最後の会話になるのだろうか。
 
 そう思うと私は後悔だけはしたくないと思った。
 だから最初で最後。一度だけ、神様にお願いをすることにした。

「姉様、ひとつだけ。お願いがあります」
「……何?」
「兄様は姉様のことが本当に好きだったのよ。ずっとずっと、好きだったの。姉様はそんな兄様を一度裏切ったの」
「……」
「だからどうか、どうか次は兄様を大事にしてください。大切にして、ちゃんと愛してあげて。あの人はとても誠実で優しい人よ。私はあんな素敵な人、他にいないと思う。だからもう、あの人を裏切るような事はしないで。私は兄様にはもうあんな悲しい思いはしてほしくないの。どうか、お願いします」
「……ああ、わかった」

 深々と頭を下げる私に、姉様は小さい声だったがちゃんと「わかった」と言ってくれた。

 それだけで、私の心は軽くなった。 

 ーーーそれなのに


 *


「……ごめん。ミュリエル」
「……え?」


 馬車が止まると同時に、姉様は私の口を布で口を抑えた。
 嗅がされた薬品の匂いが鼻腔に充満する。
 私は遠のく意識の中、ふと、気がついた。

 私には、神様なんていなかったのだということに。


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