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第一章 お姉様の婚約者
27:巻き込まれる(4)
しおりを挟むーーーあ、これは死んだな。
思えば、後悔ばかりの人生だった。あの時にああしていたら、こうしていたらという後悔が、後から後から浮かんでは消えてゆく。
貴族だろうが平民だろうが人生は平等に一度きりなのだから、こんなことを考えても意味などないのに。
ああ、でもせめて。
せめてもう一度だけ、兄様とちゃんとお話がしたかったな……。
私は覚悟を決めて、静かに目を閉じた。
「こら。今、死を受け入れようとしただろう」
「……ん?」
聞き馴染みのある声がする。私は目を開け、顔だけを後ろに向けた。
すると、何故か目の前に兄様がいた。
目が合う。私は状況を理解するのに3秒ほど要した。
「………にっ!?」
「ちょ、馬鹿っ!」
「んぐ!?」
「大きな声を出すな」
「んむむむむ」
兄様は声を上げそうになった私の口を再び後ろから手で塞ぐ。袖口からは変わらぬ金木犀の香り。
私は口を塞がれたまま「ごめんなさい」と頭を下げた。
兄様は犬を躾けるかのように小さく「よし」と言うと、私の口から手を退けた。
体勢は変わらず後ろから抱きすくめられたままなのに一切のトキメキを感じないのは、状況のせいなのか、はたまた犬扱いのせいなのか。
「無事でよかったよ」
「状況的には全然無事ではないですけどね。怪我なら皆無です。でも……、あの……、なぜここに?」
もしかすると今聞くことではないのかもしれない。だがどうしたって気になってしまう。
ーーーだって、この人は私のこと見送ったよね?ものすごく笑顔で。爽やかに送り出したよね?
私はコテンと首を傾げて、もう一度後ろを向く。兄様は気まずそうに顔を背けた。
けれど目を逸らせたところで逃げれるわけもなく。結局しばらく考えた後、彼はゆっくりと口を開いた。
「……あ、後を……、つけてきた」
「…………………………何故に?」
いや、本当に何故に?
私には兄様の心がよくわからない。ひょっとすると、男心とは小説よりもずっと複雑なのかもしれない。
「何故って……、気になって……」
「気に、なる……?」
「き、君とグレンが、これ以上仲良くなってたりしたらどうしようとか……。君が、グレンのこと好きになってたらどうしようとか思って……」
兄様はバツの悪そうな顔をして、ポツリポツリと語る。
恥ずかしいのか、変わらず顔はそっぽを向いたままだ。
「……そんなことを思うなら、今朝引き止めてくだされば良かったのに」
「……俺もそう思う」
恥ずかしさが限界に達したのか、兄様は私の頸に顔を埋めた。
兄様の息が首筋にかかって何だかくすぐったい。
「あの後、母上に追い出されたんだ。『ウジウジウジウジ鬱陶しい!お前は蛆虫かっ!?』って。そんなに気になるなら自分で連れ戻してこいって。むしろ君に謝って君が許してくれるまで帰って来るなって、蹴り飛ばされたよ」
蛆虫……。さすがはお義母さまだ。シルヴィアと全く同じことを言ってる。
私は思わず、クスッと笑ってしまった。
「笑うなよ。馬鹿にしてるのか?」
「違いますよ。……いや、違くはないのかな?」
「どっちだよ」
兄様は抗議するように、私の頸を額でぐりぐりと押した。
「く、くすぐったいです」
「……ごめん」
「謝るならやめてくださいよ、もう」
「違う」
「何が?」
「ミュリエル。ごめん」
本当にごめんと、兄様は何度も謝罪を繰り返しながら、私を抱きしめる腕に力を込める。
私は彼の腕にそっと自分の手を添えた。
「……何の、謝罪ですか?」
「……勝手に見合いをセッティングしたこととか、離婚の話を進めようとしたこととか……。本当に馬鹿なことをしたと思う」
「うん……」
「傷つけてごめん」
「うん……。傷つきました」
私がそう返すと、兄様はさらにギュッと、強く私を抱きしめる。骨が軋みそうなほどに強く、強く。
「ミュリエル……」
「……はい」
「本当はずっと、君の『好き』に支えられてきたんだ。ヘレナを失ったことで心に空いた大きな穴は、全部君の『好き』が埋めてくれた」
それが憧れの延長であるとわかっていても、優しさと覚悟から出た言葉であると理解していても救われてしまった、と兄様は自嘲するように笑った。
「少し前までは、可愛く好き好き言ってくれる君に癒されつつも、妹として大事に思っていたはずなんだ。でも、だんだんとそう思えなくなってきて……」
髪が伸びた。丸みを帯びていた顔立ちはシュッとして、けれど細く痩せていた体は逆に丸みを帯びてきた。
普段はまだまだあどけなさが残るのに、ふとした瞬間に詰め込んだ淑女教育の成果が滲み出る。
兄様は、そうしてどんどんと大人に近づく私に気づいてしまったのだと言う。
「ミュリエル。俺はね、そんな自分が気持ち悪くて仕方がないんだよ」
妹だと思っていた相手にこんな感情を向ける自分が気持ち悪い。
あれだけヘレナのことを愛していたはずなのに、こんな風にいとも簡単に絆されてしまう自分が心底気持ち悪い。
そう語る兄様の体は小さく震えていた。
「でも、ダメだと思うのに、そう思えば思うほど気持ちは強くなる一方で止められなくて……。いつの間にか、好きだと言われるたびに期待して、兄様と呼ばれるたびに落胆する日々を過ごすようになった」
「……」
「君に触れたいと思うのに、そう思う自分を許せない。相反する気持ちがぶつかり合って、頭がおかしくなりそうだった。けれど君はそんな俺の気も知らないで、毎日変わらず嘘の愛を囁く……。もう限界だった。だから、突き放そうとした」
いつか理性のタガが外れる。いつか本能のままに君に触れてしまう。飢えた獣が肉を貪るように君を求めてしまう。
そうなった時、君はどんな顔をするだろう。
きっと恐ろしいモノを見るような目を俺に向けるんだ。
「……君に嫌われたくない。だから離婚したかった。嫌われるくらいならいっそ、離れたかった。…………それなのに、いざ君が他の誰かのものになるかもしれない状況になると、嫉妬で気が狂いそうになった」
「何よ、それ……」
「はは……。馬鹿みたいだろう?」
「ええ、本当に」
なんて、面倒くさい人。
私は兄様の絡みつく兄様の腕を解き、彼から離れた。
「ミュリエル……」
私に拒絶されたと思ったのだろうか。兄様は傷ついたような顔をして、こちらを見つめる。
私はそんな彼を可愛いと思ってしまった。
ーーーこれはもう、重症だわ。
今更、この人以外なんて考えられない。
私の恋はこの恋が最初で最後だ。
私は静かに息を吸い込んだ。
「ジェフリー」
「………………え?」
「勝手に決めつけないで。私の気持ちは嘘じゃないわ。思い込みでも勘違いでもない。正真正銘、ホンモノです」
名前を呼ばれただけでそんな風に顔を真っ赤にするあなたを、嫌いになんてなれるわけない。
「好きです。大好き。ジェフリー」
私は正面からジェフリーに抱きついた。彼は驚いたように体を硬直させる。
だがしばらくすると、ゆっくりと私の背中に腕を回した。
壊さぬようにそっと、優しく。
「ミュリエル……」
「はい」
「ミュリエル……、ミュリエル……」
「はい、ミュリエルですよ」
ジェフリーは私の名前を呼ぶたびに徐々に力を込める。私はその度に、好きだと言われているような気がした。
ああ、なんて幸せなのだろう。
……なんて思っていたが、彼の肩越しに見えた光景に私の頭はすぐに冷静さを取り戻した。
「…………」
「…………ジェフリー、あのね」
「待て、ミュリエル。言うな」
ジェフリーはさらにギュッと私を抱きしめる。今度のこれは愛おしさから来るものではない。現実逃避のぎゅー、だ。
でもごめんなさい。さすがにこれは言わなければならない。
「…………こんなことをしている場合じゃないわ」
舞台で即席の悲劇が上演されていた。
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