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第一章 お姉様の婚約者
18:出会わなければ良かった *side ジェフリー
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それは秋霖に見舞われ、秋の気配を色濃く感じ始めた頃のこと。
ちょうど、日毎大きくなる君への気持ちを、いっそ全て受け入れて自分の手で君を幸せにしようかなどと、血迷った考えを持ちはじめていた頃の話だ。
俺は初めて、その姿の君を見た。
星が降る夜の庭園で、ぬかるんだ土の上を裸足で歩く君を。
雨上がりの澄んだ空気とは裏腹に、澱んだ空気を纏う君を。
おそるおそる声をかけると、君はゆらりと振り返り、笑う。
『私は幸せにはなれません』
そう言って、虚ろな目をして笑ったのだ。
その言葉の意味を、俺はまだ聞けないでいる。
*
「坊ちゃま。また……」
「わかった。すぐ行く」
週に一度あるかないかくらいの頻度で、深夜、執事のセバスチャンは俺の部屋を訪れる。
少ない会話で全てを察した俺はベッドから降り、上着を羽織って部屋を出た。
そして深い眠りにつく家族を起こさぬよう、足音を立てずに、けれど小走りでセバスチャンの後ろをついていく。
「今日はどこだ?」
「屋根裏部屋に続く階段の辺りです。屋根裏に登ろうとするので、事情を知る者に止めてもらっています」
「屋根裏?珍しいな……。何か言っているか?」
「何も。声をおかけしても反応はありません。いつもと同じです」
「そうか」
ミュリエルの徘徊にはもう慣れているのか、セバスチャンは淡々と説明した。
俺ももう慣れているから、驚きもしない。
「あちらです」
「ああ。ありがとう」
俺が屋根裏に続く階段の前まで行くと、古くからこの家に支えてくれている2人のメイドがミュリエルの行く手を阻んでいた。
彼女らは俺の顔を見ると、安心したようにため息を漏らした。
「ありがとう。助かった。もう下がっていい」
「はい。失礼いたします」
彼女たちは軽く頭を下げ、その場を後にした。
随分と慣れたものだ。一切動じていない。
「ミュリエル」
おそるおそる、声をかける。
すると彼女は糸の切れた操り人形のように、フッと意識を失った。
「……っと。危ない」
俺は倒れそうになったミュリエルを受け止め、横にして抱える。
彼女が起きていたらきっと、『お姫様抱っこだ!』とはしゃいだだろう。
「行こうか」
「……はい」
俺たちはミュリエルを抱き抱えたまま、彼女の部屋まで運んだ。
そしてそのまま、ベッドの上に寝かせてそっと掛け布団をかけた。
枕元にはお気に入りのうさぎのぬいぐるみを並べる。
これは昔、ヘレナに貰ったものらしい。
経年劣化による変色はあるものの、毛並みは新品と変わらぬ美しさを保っており、よく手入れされているのがわかる。とても大事にしているようだ。
「……坊ちゃま。一度奥様にご相談なさった方がよろしいのではないでしょうか」
「……」
セバスチャンは遠慮がちに言った。
俺も、そろそろきちんと報告せねばと思ってはいる。
けれど、母上に相談するのはどうしても躊躇ってしまう。
「奥様は、若奥様が狂疾を患っていると知っても軽蔑するようなお方ではございませんよ」
「それはわかっているさ」
むしろ母上なら、ミュリエルのために大枚を叩いてでも世界中の名医を集めるだろう。あの人はミュリエルをとても気に入っているから。
口では冷たいことを言っているが、本心は彼女を本当の娘のように大事に思っているのを俺は知っている。
けれど、だからこそ躊躇ってしまう。
だって多分、このことを知れば母上は俺とミュリエルを引き離そうとするだろうから。
ーーーダメだな、俺は
離れなければと思っているくせに、離れたくないと願う。
相反する二つの気持ちが混ざり合い、絡みつき、判断を鈍らせる。
「……よくないな」
「坊ちゃま……」
「近々、母上に話をするよ」
どうせそのうち、今日の見合いのことも聞かれるだろう。ちょうど良い機会だ。ついでに母上にも離婚のことを話しておこう。
俺はセバスチャンに、ちゃんと相談するから心配いらないと話した。
「……セバスチャン。君ももう下がっていいぞ」
「坊ちゃまはどうなさるのですか?」
「俺は、もう少しだけここにいる」
「……かしこまりました」
セバスチャンは心配そうな顔をしつつも、それ以上何も言わずに素直に下がった。
そういうところが母上に気に入られているのだろうと、いつも思う。
「ミュリエル……」
ベッドに腰掛け、ミュリエルの髪を撫でる。
ヘレナとも侯爵夫人とも違う虹色の髪。
光の当たり方により色を変えるこの髪をヘレナは羨ましがっていた。
『ジェフリー、知っているか?ミュリエルは天使なんだ』
そんなことを言って、彼女は嬉しそうに妹の髪を結っていた。
「もし君が天使ならば、羽根をもいだのは俺だろうな」
俺はそっと毛先に口付けた。
ミュリエルは安らかな微笑みを浮かべ、寝息を立てる。
どんな夢を見ているのだろうか。
「好きだよ、ミュリエル……」
今度は手の甲で頬に触れた。柔らかな肌は乾燥する季節なのに水分を多く含んでいるようで、手に吸いついてくる。
「ははっ……」
もっと触れたい。衝動が抑えられない。まるで発情期の獣だ。
自分に呆れ果て、乾いた笑いが漏れる。
「寝ているのをいいことに君に触れようとするなんて、気持ち悪い」
俺はこんな自分が心底気持ち悪い。
「ごめん。ミュリエル……、ごめんな……」
出会わなければ良かった。そうすれば誰も傷つかずに済んだ。
もし人生をやり直せるのなら、俺は絶対に君たち姉妹には近づかないだろう。
ちょうど、日毎大きくなる君への気持ちを、いっそ全て受け入れて自分の手で君を幸せにしようかなどと、血迷った考えを持ちはじめていた頃の話だ。
俺は初めて、その姿の君を見た。
星が降る夜の庭園で、ぬかるんだ土の上を裸足で歩く君を。
雨上がりの澄んだ空気とは裏腹に、澱んだ空気を纏う君を。
おそるおそる声をかけると、君はゆらりと振り返り、笑う。
『私は幸せにはなれません』
そう言って、虚ろな目をして笑ったのだ。
その言葉の意味を、俺はまだ聞けないでいる。
*
「坊ちゃま。また……」
「わかった。すぐ行く」
週に一度あるかないかくらいの頻度で、深夜、執事のセバスチャンは俺の部屋を訪れる。
少ない会話で全てを察した俺はベッドから降り、上着を羽織って部屋を出た。
そして深い眠りにつく家族を起こさぬよう、足音を立てずに、けれど小走りでセバスチャンの後ろをついていく。
「今日はどこだ?」
「屋根裏部屋に続く階段の辺りです。屋根裏に登ろうとするので、事情を知る者に止めてもらっています」
「屋根裏?珍しいな……。何か言っているか?」
「何も。声をおかけしても反応はありません。いつもと同じです」
「そうか」
ミュリエルの徘徊にはもう慣れているのか、セバスチャンは淡々と説明した。
俺ももう慣れているから、驚きもしない。
「あちらです」
「ああ。ありがとう」
俺が屋根裏に続く階段の前まで行くと、古くからこの家に支えてくれている2人のメイドがミュリエルの行く手を阻んでいた。
彼女らは俺の顔を見ると、安心したようにため息を漏らした。
「ありがとう。助かった。もう下がっていい」
「はい。失礼いたします」
彼女たちは軽く頭を下げ、その場を後にした。
随分と慣れたものだ。一切動じていない。
「ミュリエル」
おそるおそる、声をかける。
すると彼女は糸の切れた操り人形のように、フッと意識を失った。
「……っと。危ない」
俺は倒れそうになったミュリエルを受け止め、横にして抱える。
彼女が起きていたらきっと、『お姫様抱っこだ!』とはしゃいだだろう。
「行こうか」
「……はい」
俺たちはミュリエルを抱き抱えたまま、彼女の部屋まで運んだ。
そしてそのまま、ベッドの上に寝かせてそっと掛け布団をかけた。
枕元にはお気に入りのうさぎのぬいぐるみを並べる。
これは昔、ヘレナに貰ったものらしい。
経年劣化による変色はあるものの、毛並みは新品と変わらぬ美しさを保っており、よく手入れされているのがわかる。とても大事にしているようだ。
「……坊ちゃま。一度奥様にご相談なさった方がよろしいのではないでしょうか」
「……」
セバスチャンは遠慮がちに言った。
俺も、そろそろきちんと報告せねばと思ってはいる。
けれど、母上に相談するのはどうしても躊躇ってしまう。
「奥様は、若奥様が狂疾を患っていると知っても軽蔑するようなお方ではございませんよ」
「それはわかっているさ」
むしろ母上なら、ミュリエルのために大枚を叩いてでも世界中の名医を集めるだろう。あの人はミュリエルをとても気に入っているから。
口では冷たいことを言っているが、本心は彼女を本当の娘のように大事に思っているのを俺は知っている。
けれど、だからこそ躊躇ってしまう。
だって多分、このことを知れば母上は俺とミュリエルを引き離そうとするだろうから。
ーーーダメだな、俺は
離れなければと思っているくせに、離れたくないと願う。
相反する二つの気持ちが混ざり合い、絡みつき、判断を鈍らせる。
「……よくないな」
「坊ちゃま……」
「近々、母上に話をするよ」
どうせそのうち、今日の見合いのことも聞かれるだろう。ちょうど良い機会だ。ついでに母上にも離婚のことを話しておこう。
俺はセバスチャンに、ちゃんと相談するから心配いらないと話した。
「……セバスチャン。君ももう下がっていいぞ」
「坊ちゃまはどうなさるのですか?」
「俺は、もう少しだけここにいる」
「……かしこまりました」
セバスチャンは心配そうな顔をしつつも、それ以上何も言わずに素直に下がった。
そういうところが母上に気に入られているのだろうと、いつも思う。
「ミュリエル……」
ベッドに腰掛け、ミュリエルの髪を撫でる。
ヘレナとも侯爵夫人とも違う虹色の髪。
光の当たり方により色を変えるこの髪をヘレナは羨ましがっていた。
『ジェフリー、知っているか?ミュリエルは天使なんだ』
そんなことを言って、彼女は嬉しそうに妹の髪を結っていた。
「もし君が天使ならば、羽根をもいだのは俺だろうな」
俺はそっと毛先に口付けた。
ミュリエルは安らかな微笑みを浮かべ、寝息を立てる。
どんな夢を見ているのだろうか。
「好きだよ、ミュリエル……」
今度は手の甲で頬に触れた。柔らかな肌は乾燥する季節なのに水分を多く含んでいるようで、手に吸いついてくる。
「ははっ……」
もっと触れたい。衝動が抑えられない。まるで発情期の獣だ。
自分に呆れ果て、乾いた笑いが漏れる。
「寝ているのをいいことに君に触れようとするなんて、気持ち悪い」
俺はこんな自分が心底気持ち悪い。
「ごめん。ミュリエル……、ごめんな……」
出会わなければ良かった。そうすれば誰も傷つかずに済んだ。
もし人生をやり直せるのなら、俺は絶対に君たち姉妹には近づかないだろう。
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