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第一章 お姉様の婚約者
19:親友の助言(1)
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あの日。月明かりに照らされた庭園で。
あらかじめ作られていた塀の穴から外の世界へ行こうとする姉様を、私は引き留めなかった。
『ごめんなさい。自由になりたい。もう疲れた』
そう言って涙を流し、秘密の仲だった庭師と共にどこかへ行こうとする姉様。
姉様の涙なんて初めて見た。
私の知る姉様はいつも強くて優しくて、ヒーローみたいにカッコよかったから。
私はあの日。初めて、姉様も普通の女の子なのだと気づいた。
これまでたくさん守ってもらった。
たくさん愛情をもらった。
姉様がいなければ、今私はここにいない。
だから私は何も言わずに、静かに姉様を見送った。これで彼女が幸せになれるのならと、見送った。
翌朝、大変なことになるなんて分かり切っていたのに。
兄様がどんな顔をするのかなんて、分かり切っていたのに。
それでも、私は兄様の幸せと姉様の幸せを天秤にかけ、後者を選んだのだ。
後のことは全て背負うつもりだった。全部覚悟の上だった。
なのに。
朝、教会の控え室の片隅で項垂れる兄様を見て、私は許されない選択をしたことを激しく後悔した。
***
あの夜から、私は3日寝込んだ。いわゆる知恵熱というやつだ。普段からろくに頭を使っていないから熱を出したのだろう。
お義母さまは『あなたが風邪をひくなんて、珍しいこともあるものね』と呆れた顔をしつつも、つきっきりで看病してくれた。やっぱりお義母さまは優しい。
でも……。
「ちょっと過保護気味なのよね……」
私はベッドサイドのテーブルの上に用意された水瓶とフルーツと、高々と積み上げられた分厚い本に視線を移した。
まるでベッドから動くなという無言の圧力をかけられているみたいだ。
……ちなみに本のジャンルは詩集。申し訳ないがまるで興味がない。
「はは……。重病人じゃないんだから」
ただの知恵熱だ、なんて絶対に言えない雰囲気に私は思わず笑ってしまった。
私の乾いた笑いが静かな室内に響く。広い部屋に1人でいることを実感して、ほんの少しだけ寂しくなった。
何だかとても空虚な気持ち。
「……………ちょっと死にたいかもしれないわ」
たくさん寝て熱も下がり、頭がスッキリしているせいで記憶が鮮明に蘇ってきて……。
今、私はとてつもなく死にたい気分だ。
「兄様の告白がいっそ夢であってくれたらいいのに」
そんなことを願ってしまう。
けれど、どれだけ現実逃避をしようともあの夜は夢にはならない。
兄様は私が好きだ。
強く憧れたあの一途な愛情が今は姉様ではなく私に向けられている。
それなのに、不思議なことに私は兄様から向けられる愛情に喜びを感じていない。
私の心にあるのは強い罪悪感と、少しの解放感。
『頑張らなくていい』と言ってもらえた瞬間から、私の心は明らかに軽くなっている。妙に頭がスッキリしている。
これは決して熱が下がったせいではない。
きっと自分の心についていた嘘がなくなったから。だからスッキリしているのだろう。
結局、兄様と言う通りだったのだ。
私は兄様のことを好きではなかったのだ。
「なんて自分勝手な姉妹なのかしら」
私は自嘲するように笑った。
姉は結婚式当日に失踪し、妹は毎日毎日好きだと言い続けたくせに、いざ愛情を向けられると好きじゃないと宣うなんて。
「こんなの、だめよ……」
兄様はまたひどい失恋をしてしまうことになる。そんなのだめだ。
「どうしたらいい?どうしたら……」
兄様の望む通り離婚すればいいの?兄様はそれで幸せになれるの?
それとも兄様が私を好きだと言うのなら、私も兄様を好きになればいい?でも好きになろうとすること自体が兄様を傷つけるのではないの?
私は足りない頭で必死に考える。けれど、やっぱり私はバカだから、どれだけ考えても正解がわからない。また熱を出しそうだ。
私は気分を変えるため、久しぶりに部屋の外へ出ることにした。
ベッドを降りてガウンを羽織り、辺りを警戒しながらそっと扉を開ける。
すると、
「こら。せめて着替えてから出てきなさい」
今、最も会いたくない人物がそこにいた。
「えっと、その……、ご機嫌よう?」
「ご機嫌はよくない」
「あ……、そうですか……」
兄様はいつもと変わらない不機嫌な顔で私を見下ろす。
それは間違っても好きな相手に見せる顔ではなかった。
「あれぇ?」
夢だったかな。
急激にその可能性が浮上してきた。
「シルヴィアが来ているぞ。体調が大丈夫そうなら顔を見せてやるといい」
「えっ!?シルヴィアが!?」
「ああ、君が熱を出したと聞いて飛んできたそうだ。相変わらず仲がいいな」
「はいっ!大親友ですからっ!」
なんだかんだと言いつつ、優しいのがシルヴィアだ。
春になるまで会えないと思っていた彼女に会えるということで、私はつい、悩んでいたことなんて忘れてはしゃいでしまった。
早く身支度を整えないと。どのドレスを着ようか。
「……嬉しそうだな」
「そりゃあ、もちろん。シルヴィアのことが大好きなので」
「そうか。シルヴィアが羨ましいな」
「………….………………ん?」
「人を呼んでくる。君は部屋に戻っていなさい」
「あ、はい。……ありがとう、ございます……」
兄様はなんだか複雑そうな顔をして、私を部屋の中に押し込んだ。
そして扉をゆっくりと閉めた。
だが何故かすぐに、半分だけ扉を開けてそこから顔を出した。
兄様が半眼でこちらをジッと見つめている。レディの部屋を覗く変態のようだ。
「…………ミュリエル」
「は、はい。なんでしょうか……」
「夢じゃないからな」
「……………え?」
「この間のこと、夢じゃないぞ」
釘を刺すように、兄様は言った。私は気まずくなり、彼から目を逸らす。
すると、兄様は追い討ちをかけるように続けた。
「好きだよ、ミュリエル」
その言葉に心臓がドクンと跳ねる。額に汗が滲む。
やはり夢ではなかったらしい。
ちょっとだけ、そうであることを期待していたのに。
「………………あー、えっと……」
「顔、青いぞ」
「……ちょっと、寒くて」
「嘘つき」
「……き、着替えるので。すみません」
「……シルヴィアは応接間にいる。母上が相手をしているからゆっくり支度するといい」
「はい……」
兄様は相変わらずの不機嫌顔のまま、パタンと扉を閉めた。
私は力が抜けたようにその場に座り込む。
私の5年の結婚生活が、大きな音を立てて足元から崩れ落ちていく。
「ど、どうしよう……」
正解がわからない。
あらかじめ作られていた塀の穴から外の世界へ行こうとする姉様を、私は引き留めなかった。
『ごめんなさい。自由になりたい。もう疲れた』
そう言って涙を流し、秘密の仲だった庭師と共にどこかへ行こうとする姉様。
姉様の涙なんて初めて見た。
私の知る姉様はいつも強くて優しくて、ヒーローみたいにカッコよかったから。
私はあの日。初めて、姉様も普通の女の子なのだと気づいた。
これまでたくさん守ってもらった。
たくさん愛情をもらった。
姉様がいなければ、今私はここにいない。
だから私は何も言わずに、静かに姉様を見送った。これで彼女が幸せになれるのならと、見送った。
翌朝、大変なことになるなんて分かり切っていたのに。
兄様がどんな顔をするのかなんて、分かり切っていたのに。
それでも、私は兄様の幸せと姉様の幸せを天秤にかけ、後者を選んだのだ。
後のことは全て背負うつもりだった。全部覚悟の上だった。
なのに。
朝、教会の控え室の片隅で項垂れる兄様を見て、私は許されない選択をしたことを激しく後悔した。
***
あの夜から、私は3日寝込んだ。いわゆる知恵熱というやつだ。普段からろくに頭を使っていないから熱を出したのだろう。
お義母さまは『あなたが風邪をひくなんて、珍しいこともあるものね』と呆れた顔をしつつも、つきっきりで看病してくれた。やっぱりお義母さまは優しい。
でも……。
「ちょっと過保護気味なのよね……」
私はベッドサイドのテーブルの上に用意された水瓶とフルーツと、高々と積み上げられた分厚い本に視線を移した。
まるでベッドから動くなという無言の圧力をかけられているみたいだ。
……ちなみに本のジャンルは詩集。申し訳ないがまるで興味がない。
「はは……。重病人じゃないんだから」
ただの知恵熱だ、なんて絶対に言えない雰囲気に私は思わず笑ってしまった。
私の乾いた笑いが静かな室内に響く。広い部屋に1人でいることを実感して、ほんの少しだけ寂しくなった。
何だかとても空虚な気持ち。
「……………ちょっと死にたいかもしれないわ」
たくさん寝て熱も下がり、頭がスッキリしているせいで記憶が鮮明に蘇ってきて……。
今、私はとてつもなく死にたい気分だ。
「兄様の告白がいっそ夢であってくれたらいいのに」
そんなことを願ってしまう。
けれど、どれだけ現実逃避をしようともあの夜は夢にはならない。
兄様は私が好きだ。
強く憧れたあの一途な愛情が今は姉様ではなく私に向けられている。
それなのに、不思議なことに私は兄様から向けられる愛情に喜びを感じていない。
私の心にあるのは強い罪悪感と、少しの解放感。
『頑張らなくていい』と言ってもらえた瞬間から、私の心は明らかに軽くなっている。妙に頭がスッキリしている。
これは決して熱が下がったせいではない。
きっと自分の心についていた嘘がなくなったから。だからスッキリしているのだろう。
結局、兄様と言う通りだったのだ。
私は兄様のことを好きではなかったのだ。
「なんて自分勝手な姉妹なのかしら」
私は自嘲するように笑った。
姉は結婚式当日に失踪し、妹は毎日毎日好きだと言い続けたくせに、いざ愛情を向けられると好きじゃないと宣うなんて。
「こんなの、だめよ……」
兄様はまたひどい失恋をしてしまうことになる。そんなのだめだ。
「どうしたらいい?どうしたら……」
兄様の望む通り離婚すればいいの?兄様はそれで幸せになれるの?
それとも兄様が私を好きだと言うのなら、私も兄様を好きになればいい?でも好きになろうとすること自体が兄様を傷つけるのではないの?
私は足りない頭で必死に考える。けれど、やっぱり私はバカだから、どれだけ考えても正解がわからない。また熱を出しそうだ。
私は気分を変えるため、久しぶりに部屋の外へ出ることにした。
ベッドを降りてガウンを羽織り、辺りを警戒しながらそっと扉を開ける。
すると、
「こら。せめて着替えてから出てきなさい」
今、最も会いたくない人物がそこにいた。
「えっと、その……、ご機嫌よう?」
「ご機嫌はよくない」
「あ……、そうですか……」
兄様はいつもと変わらない不機嫌な顔で私を見下ろす。
それは間違っても好きな相手に見せる顔ではなかった。
「あれぇ?」
夢だったかな。
急激にその可能性が浮上してきた。
「シルヴィアが来ているぞ。体調が大丈夫そうなら顔を見せてやるといい」
「えっ!?シルヴィアが!?」
「ああ、君が熱を出したと聞いて飛んできたそうだ。相変わらず仲がいいな」
「はいっ!大親友ですからっ!」
なんだかんだと言いつつ、優しいのがシルヴィアだ。
春になるまで会えないと思っていた彼女に会えるということで、私はつい、悩んでいたことなんて忘れてはしゃいでしまった。
早く身支度を整えないと。どのドレスを着ようか。
「……嬉しそうだな」
「そりゃあ、もちろん。シルヴィアのことが大好きなので」
「そうか。シルヴィアが羨ましいな」
「………….………………ん?」
「人を呼んでくる。君は部屋に戻っていなさい」
「あ、はい。……ありがとう、ございます……」
兄様はなんだか複雑そうな顔をして、私を部屋の中に押し込んだ。
そして扉をゆっくりと閉めた。
だが何故かすぐに、半分だけ扉を開けてそこから顔を出した。
兄様が半眼でこちらをジッと見つめている。レディの部屋を覗く変態のようだ。
「…………ミュリエル」
「は、はい。なんでしょうか……」
「夢じゃないからな」
「……………え?」
「この間のこと、夢じゃないぞ」
釘を刺すように、兄様は言った。私は気まずくなり、彼から目を逸らす。
すると、兄様は追い討ちをかけるように続けた。
「好きだよ、ミュリエル」
その言葉に心臓がドクンと跳ねる。額に汗が滲む。
やはり夢ではなかったらしい。
ちょっとだけ、そうであることを期待していたのに。
「………………あー、えっと……」
「顔、青いぞ」
「……ちょっと、寒くて」
「嘘つき」
「……き、着替えるので。すみません」
「……シルヴィアは応接間にいる。母上が相手をしているからゆっくり支度するといい」
「はい……」
兄様は相変わらずの不機嫌顔のまま、パタンと扉を閉めた。
私は力が抜けたようにその場に座り込む。
私の5年の結婚生活が、大きな音を立てて足元から崩れ落ちていく。
「ど、どうしよう……」
正解がわからない。
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