15 / 70
第一章 お姉様の婚約者
14:絶対はない(4)
しおりを挟む
初夜、兄様は確かに言った。
『俺が君を好きになることはない。絶対に』と。
そう、言っていた。
「ミュリエル。君はよく、絶対はないと言うよな。ああ、そうさ。その通りだよ。絶対なんてものはない」
ないから、絶対好きになるものかと思っていた相手にだって恋をしてしまう。
ダメだとわかっているのに、恋をしてしまうんだ。
兄様は苦しそうに声を絞り出す。
「君が、いろんなものを背負ってオーレンドルフに嫁いできたことは知っている。みんなの期待に応えるために俺を好きだと言い続けていることも、そのせいで心を病んでいることも知っている」
「そ、そんなこと……」
「そんなことあるよ。ずっと見てきたんだからわかる。何年一緒にいると思っているんだ」
「兄様、私は……」
「でも!……でも、俺は馬鹿だから、君の言う『好き』が嘘であることを知っていても、期待してしまうんだよ。いつかその言葉が本当になるんじゃないかと期待してしまうんだ」
「嘘じゃないです。好きです。本当に、大好きなんです」
「そう思い込んでいるだけさ。君の本心はそうは思っていないはずだ」
社交界に出ればずっと好奇な視線に晒されて。
オーレンドルフの親族にはずっと嫌味を言われ続けて。
12歳で結婚したせいで、憧れていた学園には通えずじまいで。
幸せな結婚を夢見ていたはずなのに、実際は恋をすることすら叶わない。
「君はよく、自分のことを幸せだと言うが、一体これのどこが幸せなんだ?」
冷静になれ。君は幸せだと思い込もうとしているだけだ。
兄様はそう言った。兄様の表情は後悔と懺悔と、憐れみの感情が入り混じった複雑なものだった。
ーーーー違う。兄様の言うことは全部間違っている。嘘じゃない。私は幸せだ。
そう言いたいのに、どうしてだか声が出ない。確かにそう思っているはずなのに、兄様の言葉を否定することができない。
これでは本当に嘘になってしまう。私の恋が、長年の片思いが嘘になってしまう。
「ミュリエル、もう頑張らなくてもいい」
その言葉に心がフッと軽くなる。
……これは、よくないやつだ。
「自分の心を偽る必要はない。もう、いいんだ」
兄様はそっと私の頬に触れ、袖口で涙を拭った。
その時私は初めて自分が泣いていることに気づいた。
どうりで、世界が歪んで見えるわけだ。
「……なあ。その涙は俺の気持ちに答えられない罪悪感からくる涙か?」
違う。そうじゃない。兄様と想いが通じ合ったことが嬉しくて泣いているのだ。これは嬉し涙よ。
「ミュリエル。好きだよ」
「……」
「でも俺のことを好きじゃない君が、心を削りながら、俺に好きだと言い続けている姿を……、もう見たくないんだ……」
「ち、ちが……」
「自分勝手でごめん。だけどもう俺は自分の気持ちを誤魔化せそうもない」
「兄様……」
「離婚しよう、ミュリエル。今ならまだ間に合う。君はまだ17だ」
もう自由になっていい。離婚しても何不自由なく暮らせるよう環境を整えるから、と兄様は優しく諭すように言う。
兄様の言葉は何一つ理解できない。兄様の言っていることは全部兄様の憶測で私の本当の気持ちじゃない。勝手なことを言わないでほしい。
そう反論してやりたいのに、彼の言葉がストンと胸に落ちてくる。こんなの、おかしい。違うのに。
「……グレンはいい奴だよ。きっと君を幸せにしてくれる」
「わ、わた、しは……、私は、離婚なんて……、したくありません」
「どうして?」
「どうして、って……。兄様のことが好きだから。兄様のそばにいたいから、です」
「嘘つき」
「う、嘘じゃないです!私は本当に……」
「ではそれを証明して見せてくれ」
「しょうめい……?」
兄様はどこか諦めたような遠い目をして私の腰に手を回した。
そして力強く自分の方へと引き寄せる。私は兄様の胸に顔を埋めた。
ーーー速い。
心臓の音が壊れてしまいそうなほどに速くて、私はただただ困惑した。
いつから?
この人はいつから私のことを好きだった?いつからこの人の中で姉様は過去になってしまった?
あの時から?それともあの時?もしかして、あの時にはすでに?
私は嫁いできてから今日までの日々を思い返す。
けれど、私の記憶の中の兄様はいつだって、姉様の婚約者のままで。
一度だって私に気持ちを向けたことなどなかった。
「好きだよ、ミュリエル」
兄様は私を抱きしめる手をさらに強めた。
「顔を上げてくれ」
優しい声が上から降り注ぐ。
でも……、顔を上げたら?
その先に待っているものは何?
私は怖くて顔を上げることができない。
すると、兄様は私の頬にそっと手を添えた。
そして優しく、ゆっくりと、艶かしく、私の顔を上に向けた。
「……にい、さま?」
兄様が熱を帯びた眼差しで私を見ている。
その紫水晶の瞳に私が映っている。
今まで私のことなんて映していないと思っていたその瞳には確かに、私が映っている。
姉様じゃない。この人が好きなのは姉様じゃない。私だ。
兄様の眼差しは私に確信を与えた。
ーーーー怖い。
兄様の胸を両手で押して、彼から離れた。
多分、恐ろしいものを見るような目をしてしまったのだろう。兄様はフッと悲しげに微笑む。
「ごめん。そりゃ、怖いよな」
兄だと思って信頼していた男に、異性としての感情を向けられるなんて怖いに決まっている。ひどく裏切られたような感覚すら覚えることだろう。
そう言って兄様は泣きそうな顔をして、でも必死に笑って、私から離れた。
「ち、違う。違うの。怖くない」
「もういいよ、ミュリエル」
「私は兄様のこと好きだもん」
「うん」
「びっくりしただけなの。キスするんでしょう?できるもん」
「うん……」
「大好きよ。兄様。大好き」
「うん………」
どうしよう。何を言っても嘘にしか聞こえない。
自分でも、自分の言葉が嘘に聞こえる。
嘘だったの?本当に私の恋は嘘だったの?
私は信じたくなくて、ずっと兄様に「好きだ」と言い続けた。
すると兄様はそっと私の肩に自分のコートをかけてくれた。
兄様の金木犀の香りが、私を包み込む。
「……冷えたな。中に入ろうか」
「…………はい」
兄様は少し躊躇しながらも、そっと私の手を握った。そして優しく私の手を引いて、私を城の中へと誘った。
兄様の大きな手。私はこの手が大好きだった。
この手に引かれて散歩をするのが好きだった。
けれど、どうして?
今の私は私はその手を握り返すことができない。
ずっと好きだった。姉様だけしが映さないあの瞳がずっと、狂おしいほどに好きだった。
私もあんなふうに愛されたかった。あの瞳がこちらを向けばいいのにと、何度も願った。
ーーーーほんとうに?
『俺が君を好きになることはない。絶対に』と。
そう、言っていた。
「ミュリエル。君はよく、絶対はないと言うよな。ああ、そうさ。その通りだよ。絶対なんてものはない」
ないから、絶対好きになるものかと思っていた相手にだって恋をしてしまう。
ダメだとわかっているのに、恋をしてしまうんだ。
兄様は苦しそうに声を絞り出す。
「君が、いろんなものを背負ってオーレンドルフに嫁いできたことは知っている。みんなの期待に応えるために俺を好きだと言い続けていることも、そのせいで心を病んでいることも知っている」
「そ、そんなこと……」
「そんなことあるよ。ずっと見てきたんだからわかる。何年一緒にいると思っているんだ」
「兄様、私は……」
「でも!……でも、俺は馬鹿だから、君の言う『好き』が嘘であることを知っていても、期待してしまうんだよ。いつかその言葉が本当になるんじゃないかと期待してしまうんだ」
「嘘じゃないです。好きです。本当に、大好きなんです」
「そう思い込んでいるだけさ。君の本心はそうは思っていないはずだ」
社交界に出ればずっと好奇な視線に晒されて。
オーレンドルフの親族にはずっと嫌味を言われ続けて。
12歳で結婚したせいで、憧れていた学園には通えずじまいで。
幸せな結婚を夢見ていたはずなのに、実際は恋をすることすら叶わない。
「君はよく、自分のことを幸せだと言うが、一体これのどこが幸せなんだ?」
冷静になれ。君は幸せだと思い込もうとしているだけだ。
兄様はそう言った。兄様の表情は後悔と懺悔と、憐れみの感情が入り混じった複雑なものだった。
ーーーー違う。兄様の言うことは全部間違っている。嘘じゃない。私は幸せだ。
そう言いたいのに、どうしてだか声が出ない。確かにそう思っているはずなのに、兄様の言葉を否定することができない。
これでは本当に嘘になってしまう。私の恋が、長年の片思いが嘘になってしまう。
「ミュリエル、もう頑張らなくてもいい」
その言葉に心がフッと軽くなる。
……これは、よくないやつだ。
「自分の心を偽る必要はない。もう、いいんだ」
兄様はそっと私の頬に触れ、袖口で涙を拭った。
その時私は初めて自分が泣いていることに気づいた。
どうりで、世界が歪んで見えるわけだ。
「……なあ。その涙は俺の気持ちに答えられない罪悪感からくる涙か?」
違う。そうじゃない。兄様と想いが通じ合ったことが嬉しくて泣いているのだ。これは嬉し涙よ。
「ミュリエル。好きだよ」
「……」
「でも俺のことを好きじゃない君が、心を削りながら、俺に好きだと言い続けている姿を……、もう見たくないんだ……」
「ち、ちが……」
「自分勝手でごめん。だけどもう俺は自分の気持ちを誤魔化せそうもない」
「兄様……」
「離婚しよう、ミュリエル。今ならまだ間に合う。君はまだ17だ」
もう自由になっていい。離婚しても何不自由なく暮らせるよう環境を整えるから、と兄様は優しく諭すように言う。
兄様の言葉は何一つ理解できない。兄様の言っていることは全部兄様の憶測で私の本当の気持ちじゃない。勝手なことを言わないでほしい。
そう反論してやりたいのに、彼の言葉がストンと胸に落ちてくる。こんなの、おかしい。違うのに。
「……グレンはいい奴だよ。きっと君を幸せにしてくれる」
「わ、わた、しは……、私は、離婚なんて……、したくありません」
「どうして?」
「どうして、って……。兄様のことが好きだから。兄様のそばにいたいから、です」
「嘘つき」
「う、嘘じゃないです!私は本当に……」
「ではそれを証明して見せてくれ」
「しょうめい……?」
兄様はどこか諦めたような遠い目をして私の腰に手を回した。
そして力強く自分の方へと引き寄せる。私は兄様の胸に顔を埋めた。
ーーー速い。
心臓の音が壊れてしまいそうなほどに速くて、私はただただ困惑した。
いつから?
この人はいつから私のことを好きだった?いつからこの人の中で姉様は過去になってしまった?
あの時から?それともあの時?もしかして、あの時にはすでに?
私は嫁いできてから今日までの日々を思い返す。
けれど、私の記憶の中の兄様はいつだって、姉様の婚約者のままで。
一度だって私に気持ちを向けたことなどなかった。
「好きだよ、ミュリエル」
兄様は私を抱きしめる手をさらに強めた。
「顔を上げてくれ」
優しい声が上から降り注ぐ。
でも……、顔を上げたら?
その先に待っているものは何?
私は怖くて顔を上げることができない。
すると、兄様は私の頬にそっと手を添えた。
そして優しく、ゆっくりと、艶かしく、私の顔を上に向けた。
「……にい、さま?」
兄様が熱を帯びた眼差しで私を見ている。
その紫水晶の瞳に私が映っている。
今まで私のことなんて映していないと思っていたその瞳には確かに、私が映っている。
姉様じゃない。この人が好きなのは姉様じゃない。私だ。
兄様の眼差しは私に確信を与えた。
ーーーー怖い。
兄様の胸を両手で押して、彼から離れた。
多分、恐ろしいものを見るような目をしてしまったのだろう。兄様はフッと悲しげに微笑む。
「ごめん。そりゃ、怖いよな」
兄だと思って信頼していた男に、異性としての感情を向けられるなんて怖いに決まっている。ひどく裏切られたような感覚すら覚えることだろう。
そう言って兄様は泣きそうな顔をして、でも必死に笑って、私から離れた。
「ち、違う。違うの。怖くない」
「もういいよ、ミュリエル」
「私は兄様のこと好きだもん」
「うん」
「びっくりしただけなの。キスするんでしょう?できるもん」
「うん……」
「大好きよ。兄様。大好き」
「うん………」
どうしよう。何を言っても嘘にしか聞こえない。
自分でも、自分の言葉が嘘に聞こえる。
嘘だったの?本当に私の恋は嘘だったの?
私は信じたくなくて、ずっと兄様に「好きだ」と言い続けた。
すると兄様はそっと私の肩に自分のコートをかけてくれた。
兄様の金木犀の香りが、私を包み込む。
「……冷えたな。中に入ろうか」
「…………はい」
兄様は少し躊躇しながらも、そっと私の手を握った。そして優しく私の手を引いて、私を城の中へと誘った。
兄様の大きな手。私はこの手が大好きだった。
この手に引かれて散歩をするのが好きだった。
けれど、どうして?
今の私は私はその手を握り返すことができない。
ずっと好きだった。姉様だけしが映さないあの瞳がずっと、狂おしいほどに好きだった。
私もあんなふうに愛されたかった。あの瞳がこちらを向けばいいのにと、何度も願った。
ーーーーほんとうに?
105
お気に入りに追加
2,155
あなたにおすすめの小説

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

偽りの愛に終止符を
甘糖むい
恋愛
政略結婚をして3年。あらかじめ決められていた3年の間に子供が出来なければ離婚するという取り決めをしていたエリシアは、仕事で忙しいく言葉を殆ど交わすことなく離婚の日を迎えた。屋敷を追い出されてしまえば行くところなどない彼女だったがこれからについて話合うつもりでヴィンセントの元を訪れる。エリシアは何かが変わるかもしれないと一抹の期待を胸に抱いていたが、夫のヴィンセントは「好きにしろ」と一言だけ告げてエリシアを見ることなく彼女を追い出してしまう。

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

【完結】王太子殿下が幼馴染を溺愛するので、あえて応援することにしました。
かとるり
恋愛
王太子のオースティンが愛するのは婚約者のティファニーではなく、幼馴染のリアンだった。
ティファニーは何度も傷つき、一つの結論に達する。
二人が結ばれるよう、あえて応援する、と。

愛を求めることはやめましたので、ご安心いただけますと幸いです!
風見ゆうみ
恋愛
わたしの婚約者はレンジロード・ブロフコス侯爵令息。彼に愛されたくて、自分なりに努力してきたつもりだった。でも、彼には昔から好きな人がいた。
結婚式当日、レンジロード様から「君も知っていると思うが、私には愛する女性がいる。君と結婚しても、彼女のことを忘れたくないから忘れない。そして、私と君の結婚式を彼女に見られたくない」と言われ、結婚式を中止にするためにと階段から突き落とされてしまう。
レンジロード様に突き落とされたと訴えても、信じてくれる人は少数だけ。レンジロード様はわたしが階段を踏み外したと言う上に、わたしには話を合わせろと言う。
こんな人のどこが良かったのかしら???
家族に相談し、離婚に向けて動き出すわたしだったが、わたしの変化に気がついたレンジロード様が、なぜかわたしにかまうようになり――

王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
【本編完結・番外編不定期更新】
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます

【完結】あなたにすべて差し上げます
野村にれ
恋愛
コンクラート王国。王宮には国王と、二人の王女がいた。
王太子の第一王女・アウラージュと、第二王女・シュアリー。
しかし、アウラージュはシュアリーに王配になるはずだった婚約者を奪われることになった。
女王になるべくして育てられた第一王女は、今までの努力をあっさりと手放し、
すべてを清算して、いなくなってしまった。
残されたのは国王と、第二王女と婚約者。これからどうするのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる