【完結】お姉様の婚約者

七瀬菜々

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第一章 お姉様の婚約者

8:月が綺麗な夜のこと(4)

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 月は黄色いと思い込んでいたが、よく見ると白い。そのことに気づいたのは最近のことだった。
 私は車窓から夜空を見上げ、静かに目を閉じた。
 死人のように静まり返った夜に、舗装されていない石畳の道をひたすらに駆ける馬車の音と、求愛行動をする虫の音。
 郊外まで来たせいだろうか。それとも世界が空気を読んでいるだけなのだろうか。まるで私たちだけが世界に取り残されたみたい。
 私はゆっくりと目を開け、同じく外を眺めて物思いに耽っている兄様をジッと見つめた。
 
「……何だよ」
「いえ、何も……。ただ物思いに耽る兄様も素敵だなと」
「そういうのはいいから」
「へへっ。……ごめんなさい」

 何だかすごく機嫌が悪いようだ。いつもよりも眉間の皺が三割増ほど深い。こういう時の兄様には話しかけてはいけない。
 私はニコニコとしたまま、馬車の背もたれと同化した。
 しばらくすると、兄様はバツの悪そうな顔をして口を開いた。

「……悪かったな」
「何がですか?」
「王子殿下のことだよ。殿下は昔から俺が気に食わないんだ。だから突っかかってくる」
「学園時代は仲が悪かったのですか?」
「まあな。殿下は……、その……、ヘレナが好きだったから」

 兄様は気まずそうに姉様の名前を出した。
 兄様によれば、王子殿下は学園時代のヘレナ姉様に一目惚れしたらしい。しかし殿下が姉様にアプローチするよりも先に、姉様と兄様の婚約が決まってしまったのだとか。

「なるほど、だからですか」

 馬鹿な男。私は心の中で王子殿下を嘲笑った。
 だってそうだろう。兄様と姉様の婚約が決まったのは、二人が学園に入学して一年ほどが経ってからのこと。身分や状況を考えれば、王子殿下がひと言『ヘレナと結婚したい』と言えば、姉様と結婚できたはずだ。それなのに彼は二人の婚約まで、何も行動しなかった。
 そのくせ、他人のものになってから恋敵を妬んで絡んでくるとか。馬鹿みたい。器の小さい男だ。

「うん。やはり、兄様のせいではありませんわ。全ては小物な王子殿下のせいです」
「小物て」
「小物は小物です。だから出涸らしだと揶揄されるのです」
「おい。それ、外では言うなよ?普通に不敬だから」
「わかってますよ。多分」
「多分って何だよ。本当にやめてくれよ?」
「わかってます。冗談です。じょーだん!」

   多分。私はオホホホホ、と笑いながらも兄様から視線を逸らせた。見なくても兄様が半眼でこちらを見ているのがわかる。
 しかし、多分をつけたくなるのも仕方がないじゃないか、とも思う。だって私はできた人間じゃないから、あんな風に言われたら無意識に口から漏れてしまうことだってあるかもしれないわけで。

「ミュリエル?俺は結構真面目に言ってるぞ」
「……ぜ、善処しますわ」

 とりあえず、努力することを約束した。


  *
 

「……ミュリエル。手を」

 車窓からオーレンドルフのお城が見えた頃、兄様は私に手を差し出すよう言った。
 早くと促された私は、躾けられた犬のように両手を兄様の右の掌の上に乗せた。
 兄様は私の手をジッと見つめながら顔を顰める。

「兄様?」
「やはり気になるからな。どっちだ?」
「何がですか?」
「オズウェル殿下に口付けられた手だ」
「ああ、右手です」
「そうか」

 兄様は舌を鳴らすと私の右手の甲をハンカチで軽く拭いた。
 そして、何故か王子にキスされた場所と同じ所に口付けた。
 兄様の唇が触れたところが熱い。

「な、にを……?」
「消毒」
「……はい?」
「降りるぞ」

 いつの間にか城に到着していたらしい。
 兄様は相変わらず、ブスッとした顔で馬車の扉を開けて外へ出る。そして私に手を差し出して、エスコートしてくれた。私は混乱しつつも素直にその手を取って外に出た。
 少し暖かくなってきたとはいえ、外の空気はまだまだ冷たく、吐いた息は白い。
 だが今の私にはこの寒さが心地よかった。熱った体を冷ましてくれるから。

「あの、兄様……?」
「……少し庭を散歩してから中に入ろう」
「え、あ……、はい……」

 兄様は私の手を握ったまま、庭の方へと歩き出した。後ろから見上げても兄様の顔は見えない。だから彼が今、どんな表情をしているのかわからない。
 どうして、こんなことをするのだろう。いつもなら馬車を降りてすぐに手を離すし、そもそも、いつもの兄様なら消毒なんて言って私の手に口付けることもしないのに。
 こんなの、まるで嫉妬しているみたいだ。
 
 ーーーああ、ダメだ。
  
 これは都合の良い妄想だ。だってあり得ない。
 兄様の心にはまだ姉様がいるのだから、嫉妬なんてするはずがない。これは絶対だ。
 これ以上自分にとって都合の良い勘違いをしたくない私は、そっと手を離そうとした。
 けれど、兄様は私の手をさらにギュッと握りしめて離してくれない。わけがわからない。私は困惑した。
 
「あの、兄様。そろそろ手を……」
「……月が、綺麗だな」
「え?ああ、はい。そうですね?」

 夜空を見上げた兄様は不意にそんなことを呟いた。
 私もつられて空を見上げたが、今夜の月は綺麗な満月でもなければ三日月でもない。満月と半月の間くらいの少し欠けた形をしており、綺麗と言うには惜しい姿をしていた。
 普段、こんなこと言う人じゃないのに。どうしたんだろう。
 私は不思議に思い、兄様の顔を覗き込んだ。
 すると、兄様は何故か顔を真っ赤にしていた。

「……え、顔が赤いですけど」
「うるさい」
「もしかして、酔ってますか?」
「……かもな」
「そんなにお酒をたくさん飲んだのですか?」

 断れきれず、勧められたらその都度飲んでいたのかもしれない。特段お酒に強いわけではないのに、やはり不器用な人だ。
 私は不貞腐れたように口をへの字にする兄様を見て、クスッと笑ってしまった。

「兄様ってば、可愛い。大好き」

 ああ、良かった。いつもの可愛い兄様だ。私はほっと胸を撫で下ろした。
 だって、さっきまでの兄様は何だか男の人みたいで落ち着かなかったから。

「……安心したのか?」
「え?」
「いや、何でも」

 兄様はどこか寂しそうな顔をして私の手を離し、距離をとった。

「兄様?」
「そろそろ中に入ろうか。体が冷えてきた」
「そうですね」

 少し欠けた月が照らす庭園。花の香りとそよぐ夜風。兄様はいつもの兄様に戻ったように、私の手を引くことなく先を歩く。
 私は兄様の半歩後ろを歩いた。
 昔から、後ろから見上げた時の兄様の顔が好き。表情はよく見えないけど、この角度から見る兄様が1番好きだ。
 
「ねえ、兄様」
「何だよ」
「大好きよ。本当に」
「……」

 兄様は私の告白に何も返さない。それもいつものこと。
 けれど、なぜだろう。気分が良いからだろうか。今日の兄様の無言はただの照れ隠しにしか思えなかった。
 本当に都合の良い解釈だと思うけど、今日くらいは許してほしい。
 
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