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第一章 お姉様の婚約者
2:お姉様の婚約者(2)
しおりを挟むオーレンドルフのお城は王城の次くらいには大きくて立派だ。私はこの広大で美しいお城を散策するのが大好き。
「ふふっ。可愛い」
庭園横の廊下を歩いていると、見頃を迎えた黄色いミモザの花がそよ風に揺られて楽しそうに踊っているのが見えた。確か黄色のミモザの花言葉は秘密の恋、だったか。私は昔からこの花が好きだ。
つい楽しくなってしまった私は、朝食を乗せたワゴンを押しながら鼻歌を歌った。
ああ、なんて幸せなのだろう。
社交界では皆、私を“姉の尻拭いをさせられた不幸な子ども”だと決めつけているが、そんなことはない。むしろ、逆だ。
本物のお姫様が住むような美しいお城に住めて、毎日出来立ての美味しいご飯を食べられて、色とりどりの可愛いドレスが着られて。何より大好きな人と一緒にいられる。
こんなに恵まれた生活のどこが不幸だというのか。
そりゃあ確かに上流階級の生活はマナーとか規則とか噂話とか派閥争いとか、色々と面倒なことも多いけど。それを差し引いても余りあるほどに私の毎日は幸せに溢れている。
「ねえ、ジェフリー兄様?」
温室の扉を開けた私は、中で土いじりをするジェフリー兄様に問いかけた。
兄様は面倒くさそうに振り返ると、これまた面倒くさそうに口を開く。
「『ねえ?』だけ言われても何を聞かれているのかわからないぞ、ミュリエル」
当たり前の反応だ。
私は温室のテーブルに朝食を用意しながら、答える。
「私が今、この国の誰よりも幸せだという話です」
「それは嘘だな。君はこのベリトリア王国で一番不幸な娘だ。5年前からずっと。国中を探しても君より不幸な子はいない」
「そんなことありませんよぅ」
「あるだろう。敬愛していた姉が急に失踪し、俺みたいな血筋と金以外に何の取り柄もない根暗男と結婚する羽目になり、心の準備をする時間もなく親元を離れることになったのに、新しい家では毎日のように姑に小言を言われて、最近では望んでもいない子作りをせかされ」
「当の夫は姑から守ってくれないどころか、可愛い幼妻に小指の先ほどの興味もなく、毎日毎日花や薬草のお世話で忙しそうにしているし?」
「…………君が本当に困っているのなら助けるさ。でも別に困っていないだろう?」
「まあ、困ってはいませんけれど」
お義母さまは小言を言うだけでいびってはこない。ヘレナ姉様のしたことを考えれば、食事抜きや使用人を使っての嫌がらせなどがあっても良いくらいなのにそんなこともなく……。それどころか毎日美味しい食事やおやつを食べさせてもらい、高度な教育とたくさんの装身具やドレスを与えられている。
正直言って、普通なら考えられないほどの好待遇だ。
「お義母さまはお優しいわ」
私はいつもツンツンとした態度で接してくるお義母さまの顔を思い出し、思わず笑みをこぼした。兄様はそんな私を半眼で見る。
「君は変わっているな。あの母上が優しいなど」
「お優しいわ。少なくとも兄様よりは」
「何だと?俺は君に優しくしているだろう?」
「どこがですか。いつもそっけない態度のくせに」
「確かに愛想はないかもしれないが、優しくはしているだろう。ほら、プレゼントとか送ってるし」
「モノを与えるだけが優しさではないのですよ、兄様。女心がまるでわからないのね」
「……うるさい」
「私はプレゼントより、兄様にもっと構っていただきたいのです」
「……俺は忙しい」
「まあ、ひどい。嫁いできた頃はいつも一緒にいてくれたのに。最近は本当に冷たいですね」
そう。最近の兄様は冷たい。私の年齢が上がるにつれて段々と距離をとるようになった。
初めは私に姉様の面影を見ているのかとも思ったが、私と姉様はまるで似ていないので多分違う。だって姉様は私とは違い、誰もが振り返る金髪碧眼の絶世の美女だもの。もし兄様に「姉様と私を重ねているの?」なんて聞いたら、きっと鼻で笑われることだろう。
私は兄様に近づくと、しゃがんで目線を合わせ、彼の手に頬に自分の手を添えてこちらを向かせた。
「…………何だよ」
兄様の美しい紫水晶の瞳に私が映る。私はそれだけで、心が躍る。
けれど、この人の心は少しも揺れない。この人の心は今もまだ姉様のものだ。
「兄様」
「だから何だよ」
「好きです。大好き」
「……」
「兄様が今もヘレナ姉様を忘れられないのはわかってます。でも私は……、兄様が世界で一番好き」
私は兄様の目を見て愛を囁いた。するとやっぱり兄様は眉を顰める。
「……君はよく、俺のことを一番に理解しているのは自分だと言うが、本当にそうだろうか」
「理解していますわ」
「嘘だね。君は俺を理解していない」
「そんなことありませんわ」
「そんなことある」
「ないですよ。そうね……、たとえばテーブルの上に並べられたモーニングプレートを見て思うのは、『俺、トマト嫌いなんだよな』でしょう?」
「………………わかっているのなら持ってくるなよ」
「ダメですよ。食わず嫌いは」
「チッ。めんどくせぇ」
兄様は私の手に優しく触れ、そっと下ろすと、心底嫌そうな顔をして立ち上がった。
そしてひと通り片付けたあと、軍手を外すして私の引いた椅子に座ってくれた。
私は彼の向かいに座り、彼が食べやすいようにオムレツを切り分ける。
「そこまでしなくてもいい」
「そう言われましても、お義母さまに言われているのですよ。兄様を誘惑しろって。だから、はい。あーん」
私は切り分けたオムレツをフォークに刺し、兄様の口元に運んだ。
しかし兄様は口を固く閉ざし、それを拒否する。
「ほら、兄様。あーん、ですよ?」
「やめろ、恥ずかしい」
「でも誘惑しないと」
「これは別に誘惑でもなんでもないだろう」
「それはもっと大人な誘惑をして欲しいということですか?」
「ちげーよ!」
「隙あり!」
私は動揺して大きく開けた兄様の口に無理やりオムレツを突っ込んだ。
強制的に「あーん」をさせられた兄様は不服そうに眉を顰めるも、素直にオムレツを咀嚼した。
可愛い。
その不健康そうな色白の肌も、常に不機嫌そうに見える切長な目元も、お義母さまと同じ紫水晶の瞳も。それから、謎に最近伸ばし始めたその艶やかな銀髪も。
兄様は全てが可愛い。食べてしまいたいくらいに。
「……こら、ミュリエル」
「はい、なんでしょうか」
「何を笑っている」
「あら?私、笑ってました?」
「ああ、笑っていた。俺にとって、とても不愉快なことを考えているような顔だった」
「はて、なんのことでしょう?私はただ、兄様を食べたいなぁと思っていただけですよ?」
「ほら、やっぱり不愉快なことじゃないか。年頃の女が男を『食べたい』なんて言うんじゃない。勘違いされるぞ」
「あ、食べたいというのは本当に食するわけではなく、性的な意味での『食べたい』ですよ?私は人喰い狼ではないので」
「わかってるから、わざわざ説明しなくていい!」
兄様はまたはしたなく舌を鳴らした。性的な意味で、という言葉に反応したのだろうか。だとしたら、もう23だというのに初心な男だ。
姉様はどうしてこの人を選ばなかったのだろう?
顔は……、まあ普通だが、金も地位もある。誰にでも優しいわけではないが、好きな相手にはとことん優しくて。愛は重くても束縛はしないし、何より今時あり得ないほどに一途。
あのまま姉様と結婚していたら、兄様はきっと間違いなく姉様を幸せにしてくれたはずだ。
「……何だよ。ジロジロ見るな」
「好きですよ、兄様」
私は嫌そうにこちらを見る兄様に投げキッスを送った。
もちろん、飛ばした唇はさらりと避けられたが、こういうお遊びに乗っかってくれるようになっただけでも進歩だ。
「ふふっ。好き。大好きです」
「……そうやって好き好き言うのはやめてくれ」
「やめません。兄様はいつになったら私のこの気持ちを受け止めてくださるの?」
「受け止めるも何も、君のソレは本気じゃないだろう」
「ひどい。私はいつでも本気なのにぃ」
「嘘つき。どこがだよ」
兄様は苛立った様子で、私からフォークを取り上げて自分でオムレツを食べ始めた。私はムッと頬を膨らませた。
「……もう。兄様ったら、相変わらず酷いんだから」
この5年間。雨の日も風の日も雪の日も、高熱を出した日も頭が痛い日も心が荒む日も、毎日欠かさずに『好き』を伝えているのに、兄様は一向に私の気持ちを信じてくれない。
好きだと言われているのにも関わらず、好意そのものをなかったことにするなんて、きっと普通の女の子ならもう心が折れているだろう。
まあ、私は今さらそんなことでは傷つかないけれど。
でも……
「兄様はもう少し素直になったほうがよろしいわ」
姉様の裏切りのせいで他人が信用できないのはわかるが、ずっと向けられる好意を否定し続けていても良いことはない。これではこの先、誰かと幸せになるなんて不可能だ。
兄様にはもう姉様のことなんて忘れて幸せになってほしいのに。兄様の心には今も姉様が棲みついている。
「兄様を1番に思っているのは私です。ヘレナ姉様じゃないわ」
「……」
「だからもう、姉様を忘れて。どうか私を見てください」
私の切実なお願いに兄様は呆れたように大きなため息をこぼした。ひどい。
「ため息はひどいです」
「ひどいのは君の方だ」
「どういう意味ですか?」
「君は本当に何もわかっていない」
「何がです?」
「俺が素直になると後悔するのは君の方ということだよ」
「意味がわかりません」
「なら、わかるまで考えるんだな。ごちそうさまでした」
兄様は意味深な言葉を吐きながらも誤魔化した。そして席を立ち、食べ終わった皿を片付け始める。
気になる言い方をしておいて続き話さないのはずるい。あと、シレッとミニトマトを残したまま食事を終えようとするのもずるい。
だから私は立ち上がり、兄様の首元へと手を伸ばすと、そのまま強引に彼を自分の方へと引き寄せた。
そしてお皿に残されたトマトを摘み、驚きのあまりに開いてしまった兄様の口にミニトマトを押し込んだ。
兄様はまたまたチッと舌を鳴らしつつも、口に含んだトマトを嫌そうに咀嚼する。
「強引なやつめ」
「だって、食わず嫌いは良くありませんもの。食べてみたら好きになるかもしれないし」
そう、もしかしたら好きになるかもしれない。私はトマトに自分を重ねた。
「…………ねえ、兄様。トマトは美味しいですか?」
なんて事ない、食べた感想を聞いただけだ。それなのに何故だか少し緊張してしまう。
この質問の裏側に隠された私の複雑な乙女心に、鈍い兄様が気づくはずもないのに。それでも私の心臓の鼓動は無駄に早くなる。一人で勝手にドキドキして、バカみたいだ。
私はこの心が悟られぬよう、笑顔の仮面をかぶった。
兄様はそんな私を見てしばらく黙り込み、蚊の鳴くような小さな声でポツリとつぶやいた。
「………………嫌いじゃない」
そっけなく返された返事が思っていたものと違い、私はちょっとだけ動揺した。
美味しいかと聞かれて、嫌いじゃないと答えるのは別におかしなことではない。だから確信はない。トマトのことを言っただけかもしれない。
けれど、もしこの『嫌いじゃない』が私への言葉だったらと思うと、嬉しくてたまらない。
「大好きよ、兄様……」
私は心の声が漏れていることにも気づかず、火照る顔を両手で覆い隠した。
この時、兄様がどんな顔をして私を見ていたのかを、私は知らない。
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