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第一章 お姉様の婚約者
1:お姉様の婚約者(1)
しおりを挟む今でも鮮明に覚えている。
サイズの合わない純白のドレスに袖を通した時のあの喜びも、嬉しそうにヴェールを下ろす母の顔も、私を見上げる弟の不安そうな顔も。
それから、後悔と懺悔に揺れる、ジェフリー兄様の瞳も。
すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩いたあの日から早5年。
17歳になった私は今日も変わらず、公爵夫人に小言を言われる日々を送っている。
「あの日、我がオーレンドルフ公爵家の名は深く傷つけられたわ」
「はい。申し訳ございません、お義母さま」
「ジェフリーだって、結婚目前で婚約者に逃げられて心に深い傷を負ったの」
「はい。申し訳ございません、お義母さま」
「おかげでジェフリーは今も部屋に引きこもりがちで……」
「ジェフリー兄様が引きこもっているのは、お部屋ではなく温室ですわ。お義母さま」
「だまらっしゃい!どちらでもよいわ!」
「それは失礼いたしました、お義母さま」
「まったく、あなたって子は。……いいですか、ミュリエル」
「はい、お義母さま」
「あなたはブラッドレイ侯爵家の者として、責任を取るために嫁いできたのです」
「はい。その通りです、お義母さま」
「では当然、あなたがオーレンドルフの後継を産まねばならないことも理解しているわね?」
「はい。十分に理解しておりますわ、お義母さま」
「ならば、いつまでもグズグズしていないで早くジェフリーをその気にさせなさい」
「申し訳ございません、お義母さま。私の魅力が足りないせいで孫の顔をお見せできず……」
「魅力が足りないなどということはないわ!卑屈にならないで、鬱陶しい!もっと自信を持ちなさいな!」
「ありがとうございます、お義母さま。では自信を持って、本日も全身全霊で兄様を誘惑し、今夜こそ子作りに励みたいと思います」
「当たり前よ!大体、ミュリエルはいつもいつも……」
こんな風に毎朝浴びせられるお義母さまのお小言をBGMに、私は今日も美味しいモーニングプレートに舌鼓を打つ。
さすがは三代公爵家のひとつ、オーレンドルフ家。この家のシェフが作る料理はどれも絶品だ。一体、どれだけお金を積んで呼び寄せたのか、想像するだけで眩暈がする。
特に今朝のメニューは、私の大好きなふわふわオムレツ。中に入っているチーズの塩加減と卵の火の通り具合が絶妙で……。ああ、朝から幸せすぎる。
私はそっと目を閉じていた。そして意識を卵とチーズだらけの夢の国へと飛ばした。
「…………ミュリエル」
お義母さまの低い声で一気に現実世界に引き戻される。あと一歩でオムレツの船に乗れそうだったのに。残念だわ。
私が目を開けると、お義母さまは半眼でこちらを覗いていた。
ーーー近い。
美しいご尊顔が急に目の前に出てくると焦るのでやめてほしい。本当に紫水晶の瞳が美しすぎる。お義母様は本当に年齢不詳だと思う。
「ミュリエル。今、わたくしの話を聞いていなかったでしょう」
「滅相もございませんわ、お義母さま。私はただ、お義母さまの美しいお顔と美しい白銀のお髪に見惚れていただけでございます」
「嘘おっしゃいな。目を閉じていたでしょう。わかっているのよ!」
「申し訳ございません。嘘をつきました。実はこのオムレツがとても美味しくて。もっと食べたいなぁ、なんて思っていたらついトリップしてしまいました」
「んまあ!?この子ったら、なんて失礼な!?ちょっと、そこの貴女。今すぐにオムレツのおかわりを持ってきなさい!」
相変わらずのきつい口調で近くのメイドを呼びつけるお義母さま。しかしこの口調に慣れているメイドは、表情を変えずに一礼して食堂を出た。
「ありがとうございます、お義母さま。嬉しいです、オムレツ」
「ふんっ。わたくしの話を適当に聞き流されては困るからよ!それよりミュリエル……」
「エリアーナ。もうミュリエルを責めるのはやめないか……」
決壊したダムのように流れ出るお義母さまのお小言を止めたのは公爵閣下だった。
お義父さまは大きなため息をつきながら、自分のお皿から私のお皿に私の大好きな干し葡萄のマフィンを移し入れ、「ごめんな」とつぶやいた。優しい。そして公爵家のマフィンは本当に美味しい。幸せ。
「悪いのは逃げたヘレナであって、ミュリエルではないだろう」
「ミュリエルもブラッドレイ家の一員なのだから、あの女の罪はミュリエルの罪でもあるのです!」
「だから、ミュリエルはこうして責任を取ってこの家に嫁いできてくれたのだろう」
「まだ責任は取れていませんわ。後継を産んでいないのだから!」
「はあ……。最近の君はそればっかりだな」
「大事なことですわ」
「確かに大事なことだが、ミュリエルはまだ17だ」
「私は16歳でコレットを生みました」
「時代が違うだろう。こういうのは流れに任せるのが最近の主流だ。いい加減、嫁に息子を誘惑させるのはやめなさい。みっともない」
「なっ!?みっともないですって!?わたくしはミュリエルのためを思って!!」
「え、私のため?」
マフィンを頬張っていた私はお義母さまの思わぬ言葉に、驚いてしまった。
ふと横を見ると、お義母さまは澄ました顔でサラダを食べている。なんだ。やはり聞き間違いか。
「エリアーナ。君が心配しているのは母上のことだろう?だが心配いらない。母上はもう歳だし、最近は体力も衰えて来たのか、首都の屋敷に篭りきりだ。昔のように小言を言う元気もないよ」
「んまあ!嫁には随分とお優しいのですね、閣下。わたくしの時は我慢しろとしか言わなかったくせに」
「あ、いや……、それは……」
「長女のコレットを産んだあと、なかなか子宝に恵まれずに悩んでいたわたくしに寄り添うこともしなかったくせに!」
「それは申し訳なかったと……」
「わたくしがお義母様に『男児を産めない役立たず』だと罵られていても、ずーっとずーっと見て見ぬ振りをしてきたくせに!」
「…………それは、その……、すまな」
「謝れば許されるとでも!?大体、閣下はご自分の母親のことを何もご存知ないわ!わたくしは今もなお、会うたびに嫌味を言われているのですよ!そんなお方がミュリエルに何もしないとでもお思いで!?」
「い、いや……」
「ひとりでも子どもを産んでおけば、それだけで数年はおとなしくなるのです!これは経験に基づく事実です。あなたは妻だけでなく嫁も自分の母親の餌食になさるおつもりで!?」
「うう……」
お義母さまの恨み節にタジタジになるお義父さま。
この話題になると、お義父さまは途端に弱くなる。
私はこれはチャンスだと、ご馳走様の挨拶をして席を立った。
「待ちなさい、ミュリエル。どこへ行くの?」
「ジェフリー兄様のところです。オムレツのおかわりが来たので、どうせなら兄様と一緒に食べようかと」
「ふんっ。それは良い考えね。いいわ、行きなさい。あの子は放っておくと草しか食べないから」
「はい、お義母さま。では、失礼いたします」
お許しも出たので、私はこの5年で見違えるほどに上達したカーテシーを披露して食堂を出た。
ちなみに、お義父さまも「では私も」と席を立とうとしたが、お義母さまはそれを許さなかった。やはりお義母さまは強い。強くてかっこいい。
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