3 / 80
2:円満な婚約の解消(2)
しおりを挟む
「実は、ジェレミーがこの婚約に乗り気じゃなくてな」
「嘘だぁ!!」
リリアンは驚きのあまり、大きな声を出してしまった。これはいけないと、すぐさま手で口元を覆い、誤魔化すような笑みを浮かべる。
だが、大声を出してしまうのは不可抗力だろう。
何故ならヨハネスの弟である第二皇子ジェレミーは皇族でありながら、自分が皇族であることは認めていないかのように兄や父に対して臣下のごとく振る舞う男だ。故に、今まで彼が皇帝の提案を拒んだことなど一度もない。
そんなジェレミーが、婚約を拒否した事実にリリアンは驚きを隠せなかった。
「コホン」
「声に出して『コホン』と咳払いをする奴を私は初めて見た」
「ジェレミーはどうして婚約を嫌がってるんです?」
「無視かよ、こら。まあいい。その、あれだ」
「どれです?」
「アレは、アレだよ。好きなやつがいるんだとさ」
「あら、まあ」
誰に対しても無愛想なあの男が恋をしているとは。
予想外の返答に、リリアンはそばに控えるヨハネスの近衛騎士ダニエルを見る。ダニエルは何故こちらを見るのかと困りつつも、コホンと咳払いした。
こちらの咳払いは本物だ。
「本当です。ジェレミー殿下には想い人がいらっしゃるらしく……」
「そう。ミュラー卿が言うなら本当ね」
だってこの赤髪の騎士ダニエル・ミュラーは嘘のつけない真面目な性格で有名だから。
リリアンは流石は『ヨハンの犬』だ、とにっこり微笑んだ。
酷いことを言っているのに、大人びた風貌の彼女が幼く微笑むと愛らしさが突き抜けていて、何も言えなくなる。
リリアンの笑顔にダニエルは少し頬を染めた。
そんな2人のやりとりに、ヨハネスはわかりやすくムッとした。
「おい、待て。それは私が言うことが信用できないみたいに聞こえるぞ」
「みたい、ではなくそうだと言っています。ヨハンはいつも冗談しか言わないもの」
ヨハネスはいつも飄々としていて掴みどころがない。
冗談めかして言った一言が重要なことだったり、神妙な面持ちで言ったことがどうでもいいことだったり。そんな風によくリリアンをからかっては面白がっていた。
それが彼にとってのコミュニケーションだと理解してはいたが、こういう場面で信用ならないのもまた事実。
融通の効かない弟とは違い、優秀で柔軟性があり次期皇帝としては頼もしいが、伴侶としては些か軽薄に見える男。それがヨハネスだ。
「そうでしょう?」とリリアンが柔らかく微笑むと、ヨハネスもまた、少しだけ頬を赤らめた。
「……よくご存知で」
「6年……いえ、下手をすればそれよりも長く一緒にいたんだから、そのくらいわかります。でも、意外ですね。まさかあの冷酷無慈悲な帝国の獅子と噂されるジェレミーが恋だなんて」
「私も意外だった」
「陛下は何と?」
「陛下はジェレミーが初めて言うワガママだからと、好きにさせたいらしい。でもこれは命令でどうにかして良い問題でもないから、当事者同士で話し合えと言われたよ」
「なるほど。それで婚約解消ですか」
「ああ……」
ヨハネスは紅茶を一口飲むと、背筋を伸ばしてジッとリリアンを見つめた。
「私としてはジェレミーの願いは聞いてやりたい。だが同時に君の意思を無視したくはないんだ、リリー」
「はあ……」
「もし、君が私とこのまま結婚したいと言うのなら、そうするつもりだ。君は長い間、皇后となるべく教育を受けてきたわけだし、私との婚約解消はそれが無駄になる可能性もあるわけで……」
「まあ、そうですね」
「だから、どうする?」
「どうする、と言われましても……。わたしは……」
第一皇子の婚約者はほぼ確実に皇后になる。
だから、そのために積み重ねてきた努力を思うと、確かに少し悔しい。貴重な10代の6年を返せとも思う。
だが、そこで得た知識は決して無駄にはならないし、軍人家系の公爵家では絶対に習得できなかった淑女らしい振る舞いも学べたので、特に不満はない。むしろ、この婚約がなければ今頃リリアンは軍人として魔獣退治に明け暮れる残念なゴリラ令嬢なっていたことだろう。
そう考えると、長い時間を無駄にしたとも思えない。
(どうしよう……?)
真剣な眼差しで選択を迫るヨハネスのその視線に耐えられずに、リリアンは庭園の薔薇の方へと視線を逸らせた。
(あ……。青い、薔薇……)
リリアンの視界に映るのは皇室が独占的に栽培している色とりどりの薔薇の花。
そういえば昔、この中から美しく咲く青い薔薇だけをまとめた花束を目の前にいる彼からプレゼントされたことがある。
あの時、彼が『リリーの瞳と同じ色だ』と言って渡してくれたことを思い出し、彼女はフッと目を細めた。
そして小さく息を吸い込み、その海に近い澄んだ青い瞳がじっとヨハネスを見つめる。
「ヨハン……」
「リリー……」
妙な緊張感が二人の間を流れた。甘めの声で自分の名を呼ぶリリアンにヨハネスは微かに期待してしまう。
そばで黙って行く末を見守るダニエルはごくっと息を呑んだ。
リリアンはすうっと息を吸い込み、そして小さく吐き出した。
「………本当にどっちでも良いんですけど」
しれっと、軽く、それはもう鳥の羽よりも軽く、リリアンはそう言った。
ハイネ家が不利益を被らないのであれば、婚約を解消しようがどうしようがどうでもいいから選択肢を与えられても困るのだと彼女は言う。
「………お、おおう。そうか」
「はい」
「そ、そうか。そうかそうか……」
さっき少し寂しげに微笑んでいるように見えた彼女はどうやら幻だったらしい。
ヨハネスはハッと乾いた笑みをこぼし、項垂れた。
「嘘だぁ!!」
リリアンは驚きのあまり、大きな声を出してしまった。これはいけないと、すぐさま手で口元を覆い、誤魔化すような笑みを浮かべる。
だが、大声を出してしまうのは不可抗力だろう。
何故ならヨハネスの弟である第二皇子ジェレミーは皇族でありながら、自分が皇族であることは認めていないかのように兄や父に対して臣下のごとく振る舞う男だ。故に、今まで彼が皇帝の提案を拒んだことなど一度もない。
そんなジェレミーが、婚約を拒否した事実にリリアンは驚きを隠せなかった。
「コホン」
「声に出して『コホン』と咳払いをする奴を私は初めて見た」
「ジェレミーはどうして婚約を嫌がってるんです?」
「無視かよ、こら。まあいい。その、あれだ」
「どれです?」
「アレは、アレだよ。好きなやつがいるんだとさ」
「あら、まあ」
誰に対しても無愛想なあの男が恋をしているとは。
予想外の返答に、リリアンはそばに控えるヨハネスの近衛騎士ダニエルを見る。ダニエルは何故こちらを見るのかと困りつつも、コホンと咳払いした。
こちらの咳払いは本物だ。
「本当です。ジェレミー殿下には想い人がいらっしゃるらしく……」
「そう。ミュラー卿が言うなら本当ね」
だってこの赤髪の騎士ダニエル・ミュラーは嘘のつけない真面目な性格で有名だから。
リリアンは流石は『ヨハンの犬』だ、とにっこり微笑んだ。
酷いことを言っているのに、大人びた風貌の彼女が幼く微笑むと愛らしさが突き抜けていて、何も言えなくなる。
リリアンの笑顔にダニエルは少し頬を染めた。
そんな2人のやりとりに、ヨハネスはわかりやすくムッとした。
「おい、待て。それは私が言うことが信用できないみたいに聞こえるぞ」
「みたい、ではなくそうだと言っています。ヨハンはいつも冗談しか言わないもの」
ヨハネスはいつも飄々としていて掴みどころがない。
冗談めかして言った一言が重要なことだったり、神妙な面持ちで言ったことがどうでもいいことだったり。そんな風によくリリアンをからかっては面白がっていた。
それが彼にとってのコミュニケーションだと理解してはいたが、こういう場面で信用ならないのもまた事実。
融通の効かない弟とは違い、優秀で柔軟性があり次期皇帝としては頼もしいが、伴侶としては些か軽薄に見える男。それがヨハネスだ。
「そうでしょう?」とリリアンが柔らかく微笑むと、ヨハネスもまた、少しだけ頬を赤らめた。
「……よくご存知で」
「6年……いえ、下手をすればそれよりも長く一緒にいたんだから、そのくらいわかります。でも、意外ですね。まさかあの冷酷無慈悲な帝国の獅子と噂されるジェレミーが恋だなんて」
「私も意外だった」
「陛下は何と?」
「陛下はジェレミーが初めて言うワガママだからと、好きにさせたいらしい。でもこれは命令でどうにかして良い問題でもないから、当事者同士で話し合えと言われたよ」
「なるほど。それで婚約解消ですか」
「ああ……」
ヨハネスは紅茶を一口飲むと、背筋を伸ばしてジッとリリアンを見つめた。
「私としてはジェレミーの願いは聞いてやりたい。だが同時に君の意思を無視したくはないんだ、リリー」
「はあ……」
「もし、君が私とこのまま結婚したいと言うのなら、そうするつもりだ。君は長い間、皇后となるべく教育を受けてきたわけだし、私との婚約解消はそれが無駄になる可能性もあるわけで……」
「まあ、そうですね」
「だから、どうする?」
「どうする、と言われましても……。わたしは……」
第一皇子の婚約者はほぼ確実に皇后になる。
だから、そのために積み重ねてきた努力を思うと、確かに少し悔しい。貴重な10代の6年を返せとも思う。
だが、そこで得た知識は決して無駄にはならないし、軍人家系の公爵家では絶対に習得できなかった淑女らしい振る舞いも学べたので、特に不満はない。むしろ、この婚約がなければ今頃リリアンは軍人として魔獣退治に明け暮れる残念なゴリラ令嬢なっていたことだろう。
そう考えると、長い時間を無駄にしたとも思えない。
(どうしよう……?)
真剣な眼差しで選択を迫るヨハネスのその視線に耐えられずに、リリアンは庭園の薔薇の方へと視線を逸らせた。
(あ……。青い、薔薇……)
リリアンの視界に映るのは皇室が独占的に栽培している色とりどりの薔薇の花。
そういえば昔、この中から美しく咲く青い薔薇だけをまとめた花束を目の前にいる彼からプレゼントされたことがある。
あの時、彼が『リリーの瞳と同じ色だ』と言って渡してくれたことを思い出し、彼女はフッと目を細めた。
そして小さく息を吸い込み、その海に近い澄んだ青い瞳がじっとヨハネスを見つめる。
「ヨハン……」
「リリー……」
妙な緊張感が二人の間を流れた。甘めの声で自分の名を呼ぶリリアンにヨハネスは微かに期待してしまう。
そばで黙って行く末を見守るダニエルはごくっと息を呑んだ。
リリアンはすうっと息を吸い込み、そして小さく吐き出した。
「………本当にどっちでも良いんですけど」
しれっと、軽く、それはもう鳥の羽よりも軽く、リリアンはそう言った。
ハイネ家が不利益を被らないのであれば、婚約を解消しようがどうしようがどうでもいいから選択肢を与えられても困るのだと彼女は言う。
「………お、おおう。そうか」
「はい」
「そ、そうか。そうかそうか……」
さっき少し寂しげに微笑んでいるように見えた彼女はどうやら幻だったらしい。
ヨハネスはハッと乾いた笑みをこぼし、項垂れた。
21
お気に入りに追加
367
あなたにおすすめの小説

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。

皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。

王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
【本編完結・番外編不定期更新】
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます

キャンプに行ったら異世界転移しましたが、最速で保護されました。
新条 カイ
恋愛
週末の休みを利用してキャンプ場に来た。一歩振り返ったら、周りの環境がガラッと変わって山の中に。車もキャンプ場の施設もないってなに!?クマ出現するし!?と、どうなることかと思いきや、最速でイケメンに保護されました、

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました
Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。
順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。
特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。
そんなアメリアに対し、オスカーは…
とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。
廃妃の再婚
束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの
父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。
ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。
それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。
身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。
あの時助けた青年は、国王になっていたのである。
「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは
結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。
帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。
カトルはイルサナを寵愛しはじめる。
王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。
ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。
引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。
ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。
だがユリシアスは何かを隠しているようだ。
それはカトルの抱える、真実だった──。

オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。

記憶を失くした代わりに攻略対象の婚約者だったことを思い出しました
冬野月子
恋愛
ある日目覚めると記憶をなくしていた伯爵令嬢のアレクシア。
家族の事も思い出せず、けれどアレクシアではない別の人物らしき記憶がうっすらと残っている。
過保護な弟と仲が悪かったはずの婚約者に大事にされながら、やがて戻った学園である少女と出会い、ここが前世で遊んでいた「乙女ゲーム」の世界だと思い出し、自分は攻略対象の婚約者でありながらゲームにはほとんど出てこないモブだと知る。
関係のないはずのゲームとの関わり、そして自身への疑問。
記憶と共に隠された真実とは———
※小説家になろうでも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる