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 半分の月が登る夜。床に散らばる真っ赤な薔薇の花びらは、男物の革靴に踏まれて無惨な姿と成り果てた。
 美しかった薔薇の花束はもう、見る影もない。
 この花束が数分後の自分を暗示しているかのように思えて、リリアンは冷や汗が止まらなかった。

   ------何がどうなってるの!?

 見上げれば、そこにあるのは男か女かなんてどうでも良いと思わせるほどの美貌と夜を彷彿とさせる艶のある黒髪。そして、怪しく光る黄金の瞳。

 羨望、愛憎、崇拝、劣情。

 さまざまな感情が複雑に混ざり合い少し濁ってしまったその瞳は彼の中性的な顔に似合わず、飢えた獣のような威圧感を放ち、じっとリリアンを見下ろしていた。
 リリアン、と名を呼ぶ声は何かに怯えるように震えているのに、瞳はわずかに狂気を宿している。
 ひどくアンバランスで、今にも壊れてしまいそうだ。

 ------ど、どどどどうしたらいいの!?

 ただ自分だけを渇望し、苦悩するその姿にリリアンは困惑した。

 彼女の記憶が正しければ、彼、ジェレミー・フォン・ベイルはこんな風に自分の感情を剥き出しにして怒るような子ではなかった。
   この子は、真夜中に登る月のようにそっと静かに優しく、ただそばで見守っていてくれるような、そんな子だった。
 
    しかし、今は違う。

 優しい手つきで触れてきたくせに、リリアンの首元にあるジェレミーの左手は、親指で喉を抑えている。もう少し力を加えれば、多分リリアンからは『ガハッ!』という音が漏れるだろう。

 これはどう捉えれば良いのか。

 確か、彼に求婚されて…。『何の冗談か』と返したら一瞬のうちにソファに押し倒された気がするのだが…。
 
   -----私、殺されるのかしら

 リリアンはとりあえず、この獣をどうにかせねばと、自身の中に眠っているかもしれない調教師の血を呼び覚まし、ジェレミーの首元に手を伸ばした。
 そして自分の方へと引き寄せ、髪を優しく撫でる。壊れてしまわないように優しく、優しく…。

『リリアン・ハイネ……』

 すると、リリアンの首元に顔を埋めたジェレミーは、今にも消え入りそうな声で彼女の名を呼んだ。
 野生の獣のように殺気を放っているのに、声はとてもか細く、少し震えている。
 リリアンはカナリアのように愛らしい声で、聖女のように優しく『なぁに』と答えた。
 
『ずっとだ……。ずっと、好きだった……』
『うん……』
『ずっと、近いのに遠い距離がもどかしくて……。ずっと自分のものにしたかった』
『そ、そう……』
『俺を弟としか思ってない君が憎らしくて、子ども扱いされるたびに悔しくて……。兄上の隣に立って微笑む君を、ずっと殺したかった』
『ころ……!? こ、ころっ!?』
『好きなのに、愛したいのに。憎らしくて、殺したくて……』
『お、おおう……』

   言葉を紡ぐたびに、ジェレミーの体がのしかかる。胸を圧迫されて息苦しい。本当にこのまま圧死させられてしまうのではと思う。
 けれど、息苦しいのはこちらなのに、彼の方がずっと息ができないみたいに苦しそうに見える。
 かつてないほどの重い感情を向けられたリリアンは顔を歪めた。

『本当にごめんなさい。私が悪かったわ……』
『悪かった? 本当にそう思ってる?』
『思ってる思ってる』
『じゃあ態度で示して』
『わ、わかった……。私は何をしたら良いのかしら……』
『……好きになってほしいなんて言わない』
『うん?』
『ただ、俺のそばにいて欲しい。俺のものになってほしい』
『……わかった。貴方のものになるわ、ジェレミー』
『本当に?』
『うん。なる。なるなる……』

 リリアンはジェレミーの背に回した手に少しだけ力を入れた。
 早まった気がしなくもないが、ここで頷かねば圧死は確実だ。
 デッド オア エンゲージメント。

 ----これはある種の生存本能。私の脳は生きるための判断をしたのよ。うん。

   殺したいと言われて、そんな男を受け入れるなんてどうかしていると思う。
 これを愛と呼ぶことが果たして正しいのだろうか。それさえも疑問だ。
 けれど、多分ここで承諾せねばきっとこのまま殺される。死因は圧死で確定。

 -----仕方がない。だって私は生きたいもの。

 リリアン・ローズ・ハイネはこの日、狂愛の騎士と婚約をした。

 

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