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8:ヨハンの元婚約者
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翌朝のこと。帝都のタウンハウスに帰るだけだというのに、わざわざ見送りに来たヨハネスをリリアンは半眼になって見つめた。
「一旦、家に帰るだけですのに……」
「たまたま君を見かけてね。暇だったから見送りに来たんだ」
「絶対嘘だぁ……」
「2割は本当だよ」
「それはつまりほぼ嘘ということですわね」
ほぼ皇位継承が確定している彼が暇なわけなかろうに。リリアンはハッと乾いた笑みを浮かべた。
どうせ見送りを口実にサボりたかったのだろう。
「しばらくはタウンハウスにおりますので。必要な処理がございましたらお呼びください」
「わかった。陛下にもそう伝えておく」
「あと、部屋から引き上げる準備は既にできていますから、命じてくださればいつでも出て行けます」
「……え? もう荷物をまとめたのか? 早いな」
「ええ。シュナイダー夫人が気合いを入れて荷造りしてくれたおかげで、あとは馬車に積み込むだけで部屋を空けることができますわ」
「あ、そう……。シュナイダー夫人が……」
ヨハネスはリリアンの斜め後ろから無表情でこちらを見つめるふくよかなご婦人に視線を移した。
無表情なのに、その目には激しい怒りが宿っている。
これは何か誤解しているやつだ。ヨハネスはブルっと体を震わせた。
「ハイネ嬢」
「はい、殿下」
「君の侍女が何か変な誤解をしているようだが……」
「彼女は思い込みが激しいので」
「殺されたくないから誤解は解いておいてくれると助かる」
「努力はいたしますわ」
リリアンはあくまでも『努力する』という返事に留めておいた。
ケイトがヨハネス、ひいては皇室に怒りを覚えているのは仕方のない部分もあるからだ。
結局どんな事情があろうとも、対外的に見ればリリアンは第一皇子から一方的に捨てられた哀れな令嬢。きっと今後正式に婚約解消が発表されれば、さまざまな憶測が飛び交う中、根拠のない噂を流されてリリアンの品位が貶められるだろう。そんな主人を思うと、お嬢様命のケイトは気が狂いそうなのだ。
ケイトの気持ちもわからなくはないヨハネスは、彼女の様子を伺いつつ一歩リリアンに近づいた。
鋭い眼光が『お嬢様に指一本触れるな』と言っている気がする。ヨハネスはケイトに聞こえないようにリリアン耳元で囁いた。
「ジェレミーと会ったんじゃないのか?」
「ええ。昨日、会いましたけど……」
「何か言っていなかったか?」
「何かって?」
「マジか」
「マジかって何が?」
顎に手を当て、難しい顔で考え込むヨハネスにリリアンは小首を傾げる。
ジェレミーのことで何かあったのだろうか。そう問いかけようとした時、ヨハネスはいつもの胡散臭い笑みを貼り付けて徐に口を開いた。
「婚約の件はハイネ公爵も大体の話は聞いているはずだ。特に説明は必要ないだろうが、何か聞かれたら適当に答えておいてくれ」
「わかりました。殿下のせいだと伝えておきます」
「間違いではないが、できれば当たり障りのない説明を頼みたい。私はまだ死にたくない」
「冗談ですよ」
「わかりにくい冗談はやめてくれ。あ、それと正式な婚約の解消なんだが、諸事情により少し遅れそうだと伝えて欲しい」
「あら、どうかしたんですか?」
早ければ2、3日で書類が作成し終わると思っていたリリアンは少し驚いた。
その質問に嘘をつかねばならないヨハネスは、一瞬困ったように眉尻を下げた。
「担当の司祭殿がまだ休暇から帰られていないんだ。だから公式の発表ももう少し待ってくれ」
「珍しいですね、あの方はスケジュールにはうるさいのに」
「働き詰めだからな、あの人。もう少しちゃんと休暇を取るようにと陛下が苦言を呈されていたから、気にしてるんだろう」
スラスラと嘘が口から出てくるヨハネス。彼はそんな自分を軽蔑した。
皇帝にとってそれは必要な素質かもしれないが、屈託のない笑みで微笑むリリアンを前に嘘をつくと、何だか自分が汚い人間に思えてしまう。
(まあ、実際そうなんだけど)
ヨハネスは無意識に自嘲するような笑みをこぼした。
リリアンはヨハネスが何か隠していることに気づいたのか、彼の額に人差し指を当てると軽く押した。
そして、ニッと歯を見せてと笑う。
「何かよくわかりませんけど、私は殿下のそういうところ、好きですよ?」
そう言った彼女はとても柔らかい空気を纏っていた。
いつもそうだ。リリアンは鈍いくせに人のことをよく見ているし、気づいて欲しいことは気づいてくれないのに、気づかなくても良い感情の機微にはよく気づく。
ヨハネスはたまらず、彼女の頬に手を伸ばした。
だが、すぐにその手は引っ込めた。
「……ヨハン?」
「……1週間後には手続きが終えられると思うが、また連絡する」
「あ、はい。かしこまりました」
「じゃあ、気をつけてな」
「殿下も仕事サボらないように」
「サボってない」
「ふふっ。そういうことにしておいてあげます」
リリアンはヨハネスに背を向けると、馬車に乗り込んだ。
ケイトもペコリと頭を下げてリリアンの後に続く。
(はあ…….。本当に……)
御者が鞭を打つと、馬が鈴を鳴らして走り出した。
ヨハネスは走り去る馬車が見えなくなるまで、ジッとその後ろ姿を眺めると、ふぅ、と小さく息を吐く。
「ダニエル」
「はい、殿下」
「ジェレミーのところに行くぞ」
「.……仕事が残っておりますが」
「後回しだ」
「行政官から叱られるのは自分なのですが……」
「がんばれ」
「がんばれって……」
何故、主人のサボりを自分が怒られなければならないのか。
ダニエルはがっくりと肩を落とすも、自分の意見など通るはずもないので、何も言わずにヨハネスの後を追いかけた。
「一旦、家に帰るだけですのに……」
「たまたま君を見かけてね。暇だったから見送りに来たんだ」
「絶対嘘だぁ……」
「2割は本当だよ」
「それはつまりほぼ嘘ということですわね」
ほぼ皇位継承が確定している彼が暇なわけなかろうに。リリアンはハッと乾いた笑みを浮かべた。
どうせ見送りを口実にサボりたかったのだろう。
「しばらくはタウンハウスにおりますので。必要な処理がございましたらお呼びください」
「わかった。陛下にもそう伝えておく」
「あと、部屋から引き上げる準備は既にできていますから、命じてくださればいつでも出て行けます」
「……え? もう荷物をまとめたのか? 早いな」
「ええ。シュナイダー夫人が気合いを入れて荷造りしてくれたおかげで、あとは馬車に積み込むだけで部屋を空けることができますわ」
「あ、そう……。シュナイダー夫人が……」
ヨハネスはリリアンの斜め後ろから無表情でこちらを見つめるふくよかなご婦人に視線を移した。
無表情なのに、その目には激しい怒りが宿っている。
これは何か誤解しているやつだ。ヨハネスはブルっと体を震わせた。
「ハイネ嬢」
「はい、殿下」
「君の侍女が何か変な誤解をしているようだが……」
「彼女は思い込みが激しいので」
「殺されたくないから誤解は解いておいてくれると助かる」
「努力はいたしますわ」
リリアンはあくまでも『努力する』という返事に留めておいた。
ケイトがヨハネス、ひいては皇室に怒りを覚えているのは仕方のない部分もあるからだ。
結局どんな事情があろうとも、対外的に見ればリリアンは第一皇子から一方的に捨てられた哀れな令嬢。きっと今後正式に婚約解消が発表されれば、さまざまな憶測が飛び交う中、根拠のない噂を流されてリリアンの品位が貶められるだろう。そんな主人を思うと、お嬢様命のケイトは気が狂いそうなのだ。
ケイトの気持ちもわからなくはないヨハネスは、彼女の様子を伺いつつ一歩リリアンに近づいた。
鋭い眼光が『お嬢様に指一本触れるな』と言っている気がする。ヨハネスはケイトに聞こえないようにリリアン耳元で囁いた。
「ジェレミーと会ったんじゃないのか?」
「ええ。昨日、会いましたけど……」
「何か言っていなかったか?」
「何かって?」
「マジか」
「マジかって何が?」
顎に手を当て、難しい顔で考え込むヨハネスにリリアンは小首を傾げる。
ジェレミーのことで何かあったのだろうか。そう問いかけようとした時、ヨハネスはいつもの胡散臭い笑みを貼り付けて徐に口を開いた。
「婚約の件はハイネ公爵も大体の話は聞いているはずだ。特に説明は必要ないだろうが、何か聞かれたら適当に答えておいてくれ」
「わかりました。殿下のせいだと伝えておきます」
「間違いではないが、できれば当たり障りのない説明を頼みたい。私はまだ死にたくない」
「冗談ですよ」
「わかりにくい冗談はやめてくれ。あ、それと正式な婚約の解消なんだが、諸事情により少し遅れそうだと伝えて欲しい」
「あら、どうかしたんですか?」
早ければ2、3日で書類が作成し終わると思っていたリリアンは少し驚いた。
その質問に嘘をつかねばならないヨハネスは、一瞬困ったように眉尻を下げた。
「担当の司祭殿がまだ休暇から帰られていないんだ。だから公式の発表ももう少し待ってくれ」
「珍しいですね、あの方はスケジュールにはうるさいのに」
「働き詰めだからな、あの人。もう少しちゃんと休暇を取るようにと陛下が苦言を呈されていたから、気にしてるんだろう」
スラスラと嘘が口から出てくるヨハネス。彼はそんな自分を軽蔑した。
皇帝にとってそれは必要な素質かもしれないが、屈託のない笑みで微笑むリリアンを前に嘘をつくと、何だか自分が汚い人間に思えてしまう。
(まあ、実際そうなんだけど)
ヨハネスは無意識に自嘲するような笑みをこぼした。
リリアンはヨハネスが何か隠していることに気づいたのか、彼の額に人差し指を当てると軽く押した。
そして、ニッと歯を見せてと笑う。
「何かよくわかりませんけど、私は殿下のそういうところ、好きですよ?」
そう言った彼女はとても柔らかい空気を纏っていた。
いつもそうだ。リリアンは鈍いくせに人のことをよく見ているし、気づいて欲しいことは気づいてくれないのに、気づかなくても良い感情の機微にはよく気づく。
ヨハネスはたまらず、彼女の頬に手を伸ばした。
だが、すぐにその手は引っ込めた。
「……ヨハン?」
「……1週間後には手続きが終えられると思うが、また連絡する」
「あ、はい。かしこまりました」
「じゃあ、気をつけてな」
「殿下も仕事サボらないように」
「サボってない」
「ふふっ。そういうことにしておいてあげます」
リリアンはヨハネスに背を向けると、馬車に乗り込んだ。
ケイトもペコリと頭を下げてリリアンの後に続く。
(はあ…….。本当に……)
御者が鞭を打つと、馬が鈴を鳴らして走り出した。
ヨハネスは走り去る馬車が見えなくなるまで、ジッとその後ろ姿を眺めると、ふぅ、と小さく息を吐く。
「ダニエル」
「はい、殿下」
「ジェレミーのところに行くぞ」
「.……仕事が残っておりますが」
「後回しだ」
「行政官から叱られるのは自分なのですが……」
「がんばれ」
「がんばれって……」
何故、主人のサボりを自分が怒られなければならないのか。
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