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第三章 アッシュフォード男爵夫人

40:幸せ(2)

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「ところでイリーナ。テオドールは何故入ってこないの?」

 しばらく子どもたちと話した後、開いたままのアイシャは扉の向こうに目を向けた。
 そこにはオリーブブラウンの後ろ髪が見える。
 
「なんか入りづらいんですって」
「ふむ。なるほど。相変わらず逃げてばかりね」

 先ほどの会話はしっかりと聞いていたようだ。だから入ってこないのだ。
 リズベットは小さくため息をこぼすと、「テオー!」と叫びながら部屋を出た。
 廊下からはバタバタという足音と共にテオドールの叫び声が聞こえたが、あれは後でメイド長に怒られるやつだ。
 ランは何をやっているのだか、と肩をすくめた。

「何やってんだ?あれ」

 リズベットと入れ替わりでイアンが来た。
 イアンは開いた部屋の扉の前で、廊下で追いかけっこを始めた部下を怪訝な顔で見つめる。
 子どもたちはまだ彼が怖いのか、軽く会釈をしてすぐに部屋を出た。

「まだダメか……」

 イアンのことを悪い人ではないと認識しているようだが、それでもまだ少し怖いらしい。
 パタパタと足音を立てて走り去る姿を眺めながら、イアンはため息をこぼした。
 
「大丈夫ですわ、イアン様。きっとすぐに慣れます」
「だと良いんだけど」
「それよりイアン様?」
「ん?何だ?」
「何故先程から廊下の方ばかり見ておられるのですか?」

 アイシャの言葉に、イアンはぎくりと肩を跳ねさせた。
 そう、イアンはいっこうにこちらを見ない。扉は開いているのだから、入ればいいのにそれもしない。
 ただ、廊下の先を見つめている。
 アイシャはせっかく着飾っているのに、と頬を膨らませた。

「下でエレノア子爵様が待っていたぞ。兄君……、ブランチェット伯爵様もお待ちだ」
「イアン様ー?」
「君の友人はヴィルヘルムの屋敷に泊まることになってたっけ?」
「そうですけど?お義父さまが手配してくださいました」
「しかし本当に良かったのか?アッシュフォードの教会で結婚式なんて。陛下は北の城を使う許可もくれたんだぞ?」
「私はこの地が好きなので。それに対外的な貴族向けの披露宴は北の城で行いますし、今日のところは大好きな人たちに囲まれてささやかなパーティーをしたいです」
「ははっ。君らしいな」

 見栄のために行われる派手な結婚式より、アットホームで、でもお祭りみたいな結婚式の方がアッシュフォードらしい。
 アイシャはそう言って、当初の予定のまま結婚式を準備した。
 そういうところが彼女らしくて好きだと、イアンは嬉しそうに笑う。

「いや、イアン様。何を笑っているのですか。話を逸らさないでくださいよ!」

 話を逸らせ、いい感じに終わらせようとしている。
 アイシャは大きなため息をついて立ち上がると、扉の前まで来た。
 扉の枠が境界線のように二人を隔てる。

「何故こちらを見ないのですか!」

 彼の視界に入ろうと、アイシャは背伸びしたり屈んだりジャンプしたりするも、全て避けられ、見事に目線が合わない。
 この反応を懐かしいと感じるランたち使用人は、そんな二人の攻防を見ながら吹き出してしまった。

「もうっ!婚礼衣装を着た花嫁には、その姿がどれだけ似合っていなかろうと『美しいよ』と声をかけるのが紳士のマナーですよ!」
「……いいのか?」
「何がですか?」
「見たら泣くぞ?」
「は?」
「今の君の姿を見たら泣く自信がある。絶対泣く」
「何言って……」
「見て欲しいって言うなら、ちゃんと責任取れよ?」

 そこまで言うのなら、とイアンはアイシャを見た。

 ほら、やっぱり。
 涙が止まらない。

 突然のことにアイシャはあたふたしているし、使用人たちは苦笑するしかないし、ランに至ってはものすごく引いている。失礼なやつだ。
 けれど、仕方がない。どうしたって泣けてしまうのだ。

 だって今、アイシャが着ているのはここに来た時と同じ、ブルースターの金糸の刺繍があしらわれた純白のシルクのドレス。
 マダム・キャロルによって少し今風にアレンジされたそれは、義母であるエレノア子爵夫人のお下がりだ。

『前にこのドレスを着た時、私は心から笑えていなかったから』

 大事な義母のドレスに袖を通すのに、ちゃんと笑えていなかった。それが悔しいからと、アイシャはあえて新しくドレスを仕立てなかった。

(今はそのドレスを着て、心から笑ってくれている)

 そのことが嬉しい。 
 自分の隣にいることを自分で選んでくれたことが嬉しい。

「好きだよ、アイシャ」
 
 イアンは扉の境界を踏み越えた。
 そういえばいつか、『君のことをどうこうしたいとか思っているわけじゃない』なんて言ったけど、あれは嘘だ。
 本当はずっと望んでた。夢見てた。願ってた。

 戦場の、静かで、息が詰まりそうなほどに張り詰めた夜に、何度も夢を見た。
 隣にアイシャがいる夢を。生きる理由をくれた彼女が隣で笑っている夢を。
 
「大好き。愛してる」

 イアンはさらに距離を詰めた。アイシャは彼を見上げながら、困惑したように後退る。
 
「イアン様……?」
「本当はずっと、一人だともう耐えられそうになかったんだ」

   イアンには責任があった。
 多くの同志を率いて戦う以上、その命を背負う責任があった。
 押し付けられたとはいえ、受け取った以上、守る責任があった。
 
 命は重い。

 だから本当はずっと、その重圧に押しつぶされそうになっていた。
 そんな時、もう一度会えただけで良かったのに、アイシャはその重みを一緒に背負ってくれると言った。
 それがどれだけ嬉しかったか、きっと彼女は知らない。
 
「そばにいると、覚悟を決めてくれてありがとう」

 イアンは泣きながら笑った。
 幸せだ。幸せすぎて、夢ではないのかと不安になるくらい。

 だからイアンは、背伸びをして手を伸ばしてハンカチで涙を拭いてくれるアイシャの腰に手を回し、抱き寄せた。
 そしてそのまま、彼女に顔を近づける。どうしても、今すぐにキスしたくて。

 けれど、

「ダメですよ」

 アイシャはイアンの口を手のひらで抑えて、それを回避した。
 イアンはムスッとした顔をする。涙も引っ込んだ。

「せっかく綺麗にお化粧したのに。崩れちゃう」
「一回だけでいいから」
「いつもそう言って、一回だけじゃ済まないじゃないですか」
「今日は絶対一回で終わらせるから」
「ダメです!」
「ケチ」
「いいんですか?そんなことを言って」
「何がだ?」
「せっかく三日三晩、相手してあげようと思っていたのに」

 アイシャは舌を出して、悪戯っぽく笑う。
 その笑みにイアンは顔を歪めた。

「それ、言質とったと思っていいのか?」
「ええ、どうぞ?」
「……覚えてろよ。知らないからな」

 そこまで言うのなら、言った責任は取ってもらおう。
 イアンは仕方がないと、額にキスを落とすだけで許してやった。


 *


「……………私たちはいつまで待てば良いのかね、ラン君」

 アイシャを呼びに行ったはずのイアンがなかなか降りてこないから、エレノア子爵は様子を見に来たのだが。
 まさかイチャついているとは思わなかった。
 ランは深々と頭を下げ、もう少々お待ちくださいと謝罪した。

 多分、もうすぐで周りが見えてくるはずだから、と。





 


 

 
 
 
 
 

 
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