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第三章 アッシュフォード男爵夫人
36:来世に期待(3)
しおりを挟むテオドールは滝壺を見下ろしながら、フードを被った女に声をかけた。
『ありがとうございました。ハル』
ハルはフードを取り、髪を整える。
褐色の肌と、テオドールと同じ赤い瞳が月明かりに照らされ、はっきりとわかる。
ハルは彼の横に並び、滝壺を見下ろした。
『昼には解散の予定だったのに、予定外のことにまで付き合わせてしまってすみません』
『別に問題ない。アイシャのためなのだろ?』
『いえ、他はそうなのですけど、あの男に関しては完全に僕の勝手な都合なんですけどね……』
『ふーん。まあどっちでもいいさ。お前も私たちの恩人なのだから』
『ほんと、義理堅いですね』
『魔族とはもともとそういう種族だよ』
素直だから、単純で染まりやすいから、恩を感じさせれば比較的容易く操ることができる。
そういう意味でアイシャのやり方はとても上手かったとハルは語る。
『もちろん、アイシャが私たちを悪用する気がないのは理解しているがな。そういう風に私たちは簡単に操れてしまうんだよ。だから私たちは忠誠を誓う相手を欲しがる。揺るがない自分でいるために、自分の核となる唯一絶対の存在を欲しがる』
真の主人を見つけた魔族は、そのおかげで今はめっきり平和になったとハルは笑った。
『魔族は本能的には誰かに従属することを望んでる。刃に徹するほうが真に能力を発揮できるからだ。お前も覚えがあるのではないか?』
『……ある』
だから、「放っておけ」という主人の命令に背いて、こんなことができてしまうのだ。望まれてもいない復讐の代理なんてことを。
自分の中に半分だけ流れる魔族の血が、この青い血がそうさせる。
テオドールは鞭を打ったせいで血が滲んだ手のひらを見て、苦笑した。
『ははっ。難儀なもんだなぁ。本能って怖い』
『そうか?私は従属する自分を誇らしく思うぞ?本能が選んだ主人のために尽くす自分が好きだ』
『……それは、まあ。僕も思いますけど』
今の自分は嫌いじゃない。お人好しでポンコツで、けれど誰よりも統治者たる素質のある彼に、振り回されながらも楽しく騒がしく過ごす今の日常が、その日常に身を置き続ける自分が、嫌いじゃない。
先代魔王に従属していた頃よりも、今の方がずっと幸せだ。
「でも、してきた過去がなくなるわけじゃないからぁ……」
テオドールはポツリとつぶやいた。
旧魔族軍に属していた、その事実は消えない。
犯した罪は、いくら月日が流れようともかわらない。今も重くのしかかる。
それを背負って生きていく覚悟はとうの昔にできているし、今更それを苦痛だなんて思わない。
けれどたまに、すごく疲れてしまう日がある。
そんな誰かに寄りかかりたくなる日に、テオドールが側に呼んでも許される人間はこの地にはいない。
奪った側のやつが、大切なものを奪われた人に寄りかかるなんて、そんな都合の良いこと。許されるはずがないから。
『テオドール……?』
急に静かになり、暗い顔をするテオドールにハルは心配そうに声をかけた。
声をかけられたテオドールはハッとして、顔を上げる。
そしていつもの胡散臭い笑みを貼り付け、荷物から大きめの巾着を取り出した。
『ハル、これをどうぞ』
『ああ、言っていたルビー豆の苗か。何だか悪いな』
『ほんの気持ちです。何の報酬もなく付き合わせるのは申し訳ないので』
『そうか、ありがとう。正直に言うとすごく助かる。でもこんなにたくさん、本当に良いのか?』
『ええ。まだ試作段階なので、そちらの土地で育つかは未知数ですが、国境付近でも実がなったので期待できるかと。良かったら、また結果を教えてください』
『ああ、必ず』
アッシュフォードよりさらに北の魔族領では、作物が育ちにくい。
だから寒さに強い作物の苗はとても貴重なのだ。
ハルは巾着を受け取ると、それはとても嬉しそうに抱きしめた。
『また、助けられてしまったな』
『今回はこちらの方が助けられてますよ。あなたがテレポートが使えるようになったと教えてくれたおかげで、余裕を持って首都で動き回れました』
テオドールは首都に行く前、もしものことを考えて国境付近に待機させていたハルに接触した。
そして以前から使えるかもしれないと報告を受けていたテレポートを使って、自分たちを首都近郊に運んでもらうよう依頼したのだ。
そのおかげで、テオドールは首都で予定外のことまで成し遂げることができた。
『あのいつも険しい顔をしたアルヴィン団長が半泣きになってるところなんて初めて見ましたよ』
『あの顔は傑作だったな』
『同行者に酷い船酔いみたいな感覚が残るのが課題ですね』
『そうだな。公表するのはもう少し安定して使えるようになってからにする』
『それがいいかもしれませんね。そう思って団長には一応口止めしています』
『ありがとう』
『しかし、不可能だと言われていたはずの魔法をどうやって会得したんです?理論も確立されていない魔法でしょう?』
『なんかこう……、シュッとしてバッとして、シュババッて感じ』
『……なるほど。感覚ということですね』
『うまく説明できないんだ。仕方がないだろう』
『まあ、魔法ってセンスですからね』
擬音を使って必死に説明するハルに、テオドールは苦笑した。
『さて、そろそろ戻るか。送る』
『ありがとうございます。屋敷の近くまでお願いしても良いですか?』
『ああ、任せろ』
ハルはニッと歯を見せて笑うと、テオドールの両手を握り、目を閉じた。
そして大きく息を吸い込むと、神に祈りを捧げるように聞き慣れない言葉を紡いだ。
『さあ、行くよ。目を閉じて』
『はい』
テオドールが目を閉じると、2人は光に包まれ、一瞬のうちに輪廻の滝から居なくなった。
***
テオドールが次に目を開けると、そこは屋敷の裏門だった。
ハルに別れを告げ、彼は裏門の鍵を開ける。
そして服についた返り血や、青い血が滲む自分の手を洗おうとニックの小屋近くの井戸へとやってきた、のだが……。
そこには赤毛のウサギがいた。
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