上 下
115 / 149
第三章 アッシュフォード男爵夫人

33:宴

しおりを挟む
 
 マリアンヌの手紙を読んだダニエルは、顔面蒼白で馬に飛び乗ると、近衛を引き連れて広場から立ち去った。
 おそらくはそのままアッシュフォードを出て、彼女の元へと向かうのだろう。
 焦るあまり、手紙の最後の言葉を勘違いしてしまったようだが……。

 
 
 マリアンヌに土下座したところで何も変わらない。彼女はすでにそう言っている。
 彼はいっそこのまま、国を出た方が良いだろう。
 
「女は怒らせると怖いな」

 コルベール伯爵は最近妻にプレゼントを送っていなかったことを思い出した。
 


 *


 
「返しそびれちゃった」

 アイシャの手元にはダニエルのピストルだけが残った。

「それはこちらではあまり手に入りませんし、慰謝料として頂いておけば良いのでは?」
「それもそうね。テオの言う通りだわ」

 近々、イアンに内緒で護身術を習おうと思っていたところなので丁度いい。
 射撃の腕に自信はないが、コルベール伯爵に指南を仰げばいいし、何より剣を扱えないアイシャにとってこの武器はありがたい。
 思わぬプレゼントだとアイシャは笑った。

「ついでに奥様、僕からもこちらをプレゼントです」

 テオドールが渡したのは二通の手紙だった。
 それはアイシャが彼に託したマリアンヌへの手紙。
 アイシャはそれを受け取ると小首を傾げた。

「手紙、渡さなかったの?」
「すみません、どちらを選んでも角が立つ気がしたので」

 あれだけ想っていたのだから、他人から見切りをつけろと言われても納得できないだろう。 
 だから、テオドールは彼女の方から見切りをつけてもらうことにしたらしい。
 
「なるほどね。確かにそう言われてみればそうなのかも。でもまさか直接マリアンヌ様に会っていたなんて思わなかったわ。そう簡単にお会いできる方ではないのだけれど、どうやったの?」
「大したことはしてませんよ」

 裏技を使って首都へと降り立ったテオドールはジェラルドと合流し、彼が教会へ近づけないことを知った。
 だからジェラルドにはアイシャの友人に接触してもらうことにした。
 そして彼女たちを通じてマリアンヌに噂を流してもらった。
  
「皇室の影は良くも悪くも命令に忠実なのでしょうね。近づかぬよう見張れと命令されていたのだと思います。だから、教会へ近づかなければ警戒されませんでした」
「それはまあ、何というか。間抜けね」
「はい。で、後はマリアンヌ様が現れそうな場所を兄君とぶらついて、噂の真偽が気になった彼女が僕らに声をかければこちらの勝ちというわけです」

 接触してきたマリアンヌには敢えて曖昧な態度を取り、悩ませる。そして彼女にダニエルのことを考えさせた。
 こんなことをしでかす奴だ。きっとマリアンヌとの付き合いの中で小さな失態を積み重ねているはずだと、テオドールは踏んでいたのだ。
 恋心で曇っていた目も冷静さを取り戻すと視界がクリアになる。クリアになった視界でダニエル・ローレンスを見てみると彼女はすぐに気づくはず。

 好いた男が、実は大した男ではないということを。

「そうして彼女が自分から皇子殿下に見切りをつけるのを待ってから、事前に用意してもらっていたエレノア子爵の手紙を渡した……、とまあそれだけです」
「そ、そう」

 テオドールはそんなに難しいことはしていないと説明した。
 彼があまりにも簡単にそう言うものだからアイシャは苦笑して問う。
 これはただの優秀な執事というレベルじゃない。

「……もしかして、他の家からスカウト来てるんじゃない?」
「旦那様がヤキモチ妬くので秘密ですよ」
「ふふっ。そうね。ちなみに他には何をしてきたの?」
「奥様の駒……じゃなくて人脈を少しばかりお借りして、適当にタネを撒いてきました。あとはそれが芽吹くのを待つだけです。もちろんうまくいけばの話ですけど」

 花が咲き、小鳥たちの囀りが北部まで聞こえてくる頃。きっと皇室は傀儡の王となっていることだろうとテオドールは語る。  
 アイシャはかの戦争で彼を魔族軍から寝返らせたイアンを心の底から尊敬した。
 そうでなければ、戦争はもっと長引いていただろう。この男、絶対に敵に回したくないタイプだ。  

「はは……。さすがね」
「ありがとうございます」

 良くやったと褒めて欲しいのか、テオドールはふふんと胸を逸らす。
 その姿が珍しく、アイシャはちょっとした悪戯心で彼の頭を撫でてやった。

「……やめてもらえます?」

 テオドールはその優しい手に、不意に母の顔を思い出した。
 過酷すぎる人生の中で、生き残るために削ぎ落として削ぎ落として、いつの間にか忘れてしまっていた母の優しい微笑みを。

「…………テオ、顔が赤いわ。珍しい」

 いい年して母の顔を思い出し、少し泣きそうになった自分が恥ずかしいのか、テオドールは耳まで顔を赤くした。
 その彼の姿にリズベットはぷくーっと頬を膨らませている。わかりやすいヤキモチほど可愛いものはない。
 しかしながら、そんなに怒るなら、いっそのこと告白の一つでもしてしまえばいいのに。

「子ども扱いはやめてください。不愉快です」
「そうね、やめておくわ。これ以上はリズが怖いし、ランに嫌われたくもないし」
「いや、ラン違うでしょう」
「あら、リズの方は気づいていたの?」
「……今、嵌めましたね?」
「何の話?」

 アイシャはわからないフリをした。
 けれど、わからないフリをしている奴に同じような態度をとったところで、責められないはずだ。
 そう言うと、テオドールは不愉快そうに眉を顰めた。

「………….…普通に考えて、あれで気づかない方がおかしいでしょう」
「あら、いいの?認めても。気づいてることはイアン様にも内緒なのでしょ?」
「奥様の目は誤魔化せませんので。でも余計なことは言わないでくださいね」
「別に言わないわよ」
「僕らはずっとこのままでいいんですから」
「現状維持が1番楽だものね。あなたの立場では特に」
「でしょう?」
「でもね、きっとすぐに、そうも言っていられなくなるわ。だって赤毛のうさぎは可愛いもの。ねえ、そうは思わない?」
「…………それはノーコメントで」

 テオドールが少し目線を下に下ろすと、いつのまにか2人の間に割り込んだランが、少し背伸びをしてアイシャの腕を押し上げていた。
 どこか不機嫌そうにその胡桃色の瞳を細めて。
 一体どこから聞いていたのだろう。

「あら、ラン。ヤキモチ?」
「私も頭撫でて欲しいです」
「はいはい」

 わかりやすい誤魔化し方をするランにアイシャは可愛いと呟いた。
 そしてご希望通りに頭を撫でてやった。
 すると、今度はランの頭を撫でていたその手を上から引き剥がされる。
 
「俺も頑張ったんだけど?」
「あら、イアン様」

 拗ねたようにこちらを見下ろす彼に、アイシャは仕方がないとその柔らかな黒髪を両手で撫でてやった。
 しかし、まだ不服そうだ。

「これではご満足いただけませんか?」
「俺のこと忘れていただろ、アイシャ。皇子殿下が帰ってからさっきまで、絞め落とされるんじゃないかと思うくらいに閣下に抱きしめられてたの、見てた?」
「見てないですね。ごめんなさい。そんなことになっていたんですか?」

 アイシャがくるりと後ろを振り返ると、騎士も農夫も母ちゃんも屋台の大将も皆んなが酒を飲み交わし、音楽を奏でて踊り狂っている。
 そしてその輪の中心には子どもを2人ほど担いでクルクルと回るラホズ侯爵がいた。

「わお。本当にお祭り騒ぎですね」
「侯爵閣下はあんなお方だったかしら」
「酒が入るといつもあんな感じだ。このあと面倒だぞ?どうする?」
「どうすると言われましても、困りましたわね」

 今夜は宴だ、あるだけ酒を持って来いと騒ぐラホズ侯爵と、危険を察知して彼と距離を取ろうとするも、すぐに捕獲されて嘆くコルベール伯爵。
 そして端の方で静かに酒を飲みながら、近くのおじさんに『あの子、私の娘です』とアイシャを指差してひたすらに話しているエレノア子爵。

 もう大概手遅れである。イアンはどうしたものかと頭を掻いた。

「今夜も何も、まだ真昼間なんだよなぁ」

 太陽は1番高い位置からアッシュフォードを照らしている。
 テオドールは手で庇を作り、太陽を見上げて目を細めた。

「まあ今日は暖かいので大丈夫でしょうけど、一応天幕をいくつか用意しておきますか?」
「そうだな。酔っ払ったやつを介抱してやらねばならんし」
「……ねえ、テオ。冬の間にいただいたお酒とか食糧って余ってるわよね?」
「え、残ってはいますけど……、まさか?」
「そう、まさかよ」

 アイシャはニヤリと口角を上げた。

「テオはみんなで騒げるだけのお酒と食べ物を持ってきて!」
「えぇ……」
「ラン!リズと屋敷に戻ってみんなを連れてきて!私は近くの食堂の厨房を借りられないか交渉してみる!」
「了解!急ぐわよ、ラン!」
「言われなくともわかってます!命令しないでください!」.

 リズベットはぷりぷりと怒るランを乱暴に自分の馬に乗せると、すぐに屋敷へと走って行った。
 テオドールは心底嫌そうな顔をしつつも、一足遅れて、騎士の数名を引き連れて一旦広場を離れた。

「俺の愛しの婚約者は、知らぬ間に随分とアッシュフォードに染まってしまったようだ」

 先ほどの蹴りといい、イアンは随分と逞しくなったと苦笑するしかなかった。
 アイシャはそんな彼を下から見上げて、悪戯っぽく笑う。

「アッシュフォードではなく、あなたに染まったつもりでいたのですけれど?」
「……何で今そういうこと言うかな」
「言いたかったので」
「物陰に連れ込むぞ」
「ふふっ。どうぞ?」
「あー、もう!」

 イアンはアイシャを抱き上げると、宣言通りに彼女を物陰に連れ込んだ。


 


しおりを挟む
感想 210

あなたにおすすめの小説

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

もう長くは生きられないので好きに行動したら、大好きな公爵令息に溺愛されました

Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユリアは、8歳の時に両親を亡くして以降、叔父に引き取られたものの、厄介者として虐げられて生きてきた。さらにこの世界では命を削る魔法と言われている、治癒魔法も長年強要され続けてきた。 そのせいで体はボロボロ、髪も真っ白になり、老婆の様な見た目になってしまったユリア。家の外にも出してもらえず、メイド以下の生活を強いられてきた。まさに、この世の地獄を味わっているユリアだが、“どんな時でも笑顔を忘れないで”という亡き母の言葉を胸に、どんなに辛くても笑顔を絶やすことはない。 そんな辛い生活の中、15歳になったユリアは貴族学院に入学する日を心待ちにしていた。なぜなら、昔自分を助けてくれた公爵令息、ブラックに会えるからだ。 「どうせもう私は長くは生きられない。それなら、ブラック様との思い出を作りたい」 そんな思いで、意気揚々と貴族学院の入学式に向かったユリア。そこで久しぶりに、ブラックとの再会を果たした。相変わらず自分に優しくしてくれるブラックに、ユリアはどんどん惹かれていく。 かつての友人達とも再開し、楽しい学院生活をスタートさせたかのように見えたのだが… ※虐げられてきたユリアが、幸せを掴むまでのお話しです。 ザ・王道シンデレラストーリーが書きたくて書いてみました。 よろしくお願いしますm(__)m

【完結】私はいてもいなくても同じなのですね ~三人姉妹の中でハズレの私~

紺青
恋愛
マルティナはスコールズ伯爵家の三姉妹の中でハズレの存在だ。才媛で美人な姉と愛嬌があり可愛い妹に挟まれた地味で不器用な次女として、家族の世話やフォローに振り回される生活を送っている。そんな自分を諦めて受け入れているマルティナの前に、マルティナの思い込みや常識を覆す存在が現れて―――家族にめぐまれなかったマルティナが、強引だけど優しいブラッドリーと出会って、少しずつ成長し、別離を経て、再生していく物語。 ※三章まで上げて落とされる鬱展開続きます。 ※因果応報はありますが、痛快爽快なざまぁはありません。 ※なろうにも掲載しています。

悪役令嬢に仕立て上げたいのならば、悪役令嬢になってあげましょう。ただし。

三谷朱花
恋愛
私、クリスティアーヌは、ゼビア王国の皇太子の婚約者だ。だけど、学院の卒業を祝うべきパーティーで、婚約者であるファビアンに悪事を突き付けられることになった。その横にはおびえた様子でファビアンに縋り付き私を見る男爵令嬢ノエリアがいる。うつむきわなわな震える私は、顔を二人に向けた。悪役令嬢になるために。

愛しているなら何でもできる? どの口が言うのですか

風見ゆうみ
恋愛
「君のことは大好きだけど、そういうことをしたいとは思えないんだ」 初夜の晩、爵位を継いで伯爵になったばかりの夫、ロン様は私を寝室に置いて自分の部屋に戻っていった。 肉体的に結ばれることがないまま、3ヶ月が過ぎた頃、彼は私の妹を連れてきて言った。 「シェリル、落ち着いて聞いてほしい。ミシェルたちも僕たちと同じ状況らしいんだ。だから、夜だけパートナーを交換しないか?」 「お姉様が生んだ子供をわたしが育てて、わたしが生んだ子供をお姉様が育てれば血筋は途切れないわ」 そんな提案をされた私は、その場で離婚を申し出た。 でも、夫は絶対に別れたくないと離婚を拒み、両親や義両親も夫の味方だった。 ※独特の異世界の世界観であり、設定はゆるゆるで、ご都合主義です。 ※誤字脱字など見直して気を付けているつもりですが、やはりございます。申し訳ございません。教えていただけますと有り難いです。

転生先は推しの婚約者のご令嬢でした

真咲
恋愛
馬に蹴られた私エイミー・シュタットフェルトは前世の記憶を取り戻し、大好きな乙女ゲームの最推し第二王子のリチャード様の婚約者に転生したことに気が付いた。 ライバルキャラではあるけれど悪役令嬢ではない。 ざまぁもないし、行きつく先は円満な婚約解消。 推しが尊い。だからこそ幸せになってほしい。 ヒロインと恋をして幸せになるならその時は身を引く覚悟はできている。 けれども婚約解消のその時までは、推しの隣にいる事をどうか許してほしいのです。 ※「小説家になろう」にも掲載中です

死に役はごめんなので好きにさせてもらいます

橋本彩里(Ayari)
恋愛
フェリシアは幼馴染で婚約者のデュークのことが好きで健気に尽くしてきた。 前世の記憶が蘇り、物語冒頭で死ぬ役目の主人公たちのただの盛り上げ要員であると知ったフェリシアは、死んでたまるかと物語のヒーロー枠であるデュークへの恋心を捨てることを決意する。 愛を返されない、いつか違う人とくっつく予定の婚約者なんてごめんだ。しかも自分は死に役。 フェリシアはデューク中心の生活をやめ、なんなら婚約破棄を目指して自分のために好きなことをしようと決める。 どうせ何をしていても気にしないだろうとデュークと距離を置こうとするが…… お付き合いいただけたら幸いです。 たくさんのいいね、エール、感想、誤字報告をありがとうございます!

黒鳥は踊る~あなたの番は私ですけど?~

callas
恋愛
 「君は私の運命の番だ」そう差し伸べた彼の目の前には妹のディアナ。  ちょっと待って!貴方の番は私なんだけど! ※お気に入り登録ありがとうございます

処理中です...