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第三章 アッシュフォード男爵夫人
24:唯一絶対の方法(1)
しおりを挟むそれは無事にダニエルとの晩餐を終えた夜のこと。
そう。予想に反し、当たり前のようにイチャイチャラブラブしながら夕食を取るイアンとアイシャに、ダニエルが終始顔を引き攣らせていた晩餐の後のことだ。
テオドールが不在なの良いことに、『たった一つだけ、皇子が諦めるしかなくなる方法があります』、なんて言ってきたランの言葉に乗せられてしまったのが良くなかった。
*
ほとんど満月に近い月の灯だけが頼りの夜。
シーツから香るお日様の匂いに包まれて。
アイシャは何故か、イアンの部屋のベッドの上にいた。
眼前には、はだけたバスローブの胸元から覗く分厚い胸板と、濡れ髪の彼。
いつもより艶っぽく見えるのは風呂上がりだからだろうか。それともその、強請るような甘えたような潤んだ瞳のせいだろうか。
獰猛な獣はすっかり鳴りを潜めてしまい、もはや愛情と温もりを求める子犬のようで、拒めない。
「アイシャ……、これはどういう事?」
「あ、あの……」
「こんな時間にそんな薄着で現れて、誘ってるの?」
「えっと……その、これには止むに止まれぬ事情があったと言いますか……」
「うん」
「ちょっと冷静な判断ができていなかったと言いますか……、大変反省はしているので……」
「ので?」
「ご勘弁いただきたく……」
「無理」
「ひぁ!?」
イアンはアイシャの首元に顔を埋めた。そして子犬のように頬擦りすると、すうっと彼女の匂いを嗅いだ。
その耳にかかる吐息のせいで、アイシャからは甘い声が漏れる。意図せず出た自分の声が静かな室内に響いて、アイシャは顔を真っ赤にした。
「アイシャ……」
「……あの、くすぐったいです」
「うん」
「いや……。『うん』ではなく……」
「うん」
「髪を……乾かした方がいいですよ。風邪をひきますし」
「うん」
「私も冷たいですし」
「うん」
「あの、聞いてます?」
「聞いてない」
「聞いてるじゃん……」
「ちょっと黙って」
イアンはアイシャの首元に顔を埋めたまま、彼女の鎖骨あたりに口付けた。
そしてその柔肌を吸った。
「なっ!?何をして……!?」
「吸った」
「何ゆえ!?」
「マーキング?」
「獣か!」
「熊だからな」
ニッと口角を上げるイアン。この顔はこちらの反応を楽しんでいる顔だ。
アイシャはプクッと頬を膨らませた。解せない。
「それ以上吸うなら、明日から蚊って呼びますよ」
「君から誘ったのに、それは酷くないか?」
「誘ってないので」
「どう見ても誘ってるだろ」
イアンは不服そうにしつつも、仕方なく蚊の真似をやめた。
しかしまだ全てを諦めてはいないようで、アイシャの少し湿った髪を撫で、頬を撫で、その手を唇まで滑らせる。
そして指先で唇の形をなぞると、はぁ、と艶っぽくため息をこぼした。
我慢しているような、けれどもう堪えきれないとでもいうような。そんな姿を見せられては、こちらまで熱くなってしまうではないか。
アイシャは堪らず目を逸らせた。
けれど逸らせた先には彼の逞しい腕があり、アイシャはもうどうして良いかわからない。
(どうしてこうなったんだっけ!?)
確か、入浴後のことだ。
ランに『やることやっちゃえば誰も何も言えなくないですか?』と言われたのがことの発端だった。
表現の仕方にかなり難ありだが、彼女の言うことは一理あって。未婚の男女が一夜を共にすれば、もう結婚するしかなくなる。
平民の間では結婚しない場合もあるのだそうだが、貴族となるとそうもいかない。
精神的にも肉体的にもほとほと疲れ果てていたアイシャは、それで奴が諦めてくれるならと回らない頭でイアンの部屋を訪れた。
だが、訪れたタイミングが良くなかった。彼もちょうど風呂上がりだったのだ。
別に裸でそこにいるわけでもないのだから慌てる必要なんて何もないのに、アイシャは若干パニック状態に陥ってしまい……。
ランに助けを求めようとするも彼女にはごゆっくりと言われて扉を閉められ、どうしようかとあたふたと室内を動き回るも足が絡まり、転けそうになったところをイアンに支えられるが、彼も彼で体勢を崩してしまい、あっという間に押し倒される形でベッドの上に倒れ込むという、何ともお約束すぎる展開があり……。
今に至る。
(…………私のバカッ!)
アイシャは心の中で自分の軽率さを叱責した。
冷静になればやっぱりこの方法は良くない。誘っているみたいではしたないし、何より順番が違う。
確かにランの言う通り、ダニエルは諦めるだろう。
だがその代償は大きく、結婚前に初夜を迎えたことが広まれば、誹りを受けるのはイアンだ。
これだから平民は、と蔑まれるに決まってる。
彼は気にしないと言うだろうが、アイシャは気にする。
(殿下が黙っているわけないしね)
あの男は出し抜かれたことを逆恨みして、有る事無い事吹聴するに決まってる。そういう男だ。今になってわかる。
なぜ気づけなかったのだろう。アイシャは学生時代にその本質を見抜けなかった自分の愚かさを呪った。
(マリアンヌ様……、大丈夫かしら)
ふと、マリアンヌの顔が浮かんだ。
アイシャはマリアンヌへの手紙を二通、首都に向かったテオドールに託している。しかし、そのどちらを彼女に渡すかは彼の判断に委ねている。
もし首都でこの事態が噂になっているのなら、アイシャはマリアンヌに対してことの詳細を報告し、誠実に対応しなければならない。
けれどまだ噂にすらなっていないのなら、アイシャは友として、ダニエルのことを忠告せねばならない。
どちらにしても彼女には酷な話だ。だから出来るだけ彼女の心に負担が掛からぬよう言葉を選び、文章を変えて二通用意した。
別に友情が壊れる心配はしていない。マリアンヌはアイシャがダニエルに興味がないのを知っているし、何より彼女はこういう事態に陥ったとき、巻き込まれただけの友人を理不尽に怒るような女性ではないからだ。
ダニエルに近づく女性に可愛くやきもちを妬くことはあっても、こういう時にヒステリーを起こし、事実を捻じ曲げて認識するほど愚かな人ではない。
だからそこは心配していない。
けれど……。
(あんなに喜んでいたのに……)
マリアンヌはダニエルの目に留まりたくて必死に努力していた。
確かにあまり賢い方ではないが、それでも賢い女性が好きだと公言していた彼に気に入られたくて、アカデミーに入るために必死に勉強した。
本当は人見知りなのに社交だって頑張っていたし、身なりにも気を使っていた。
真っ直ぐに伸びる綺麗なピンクブロンドの髪を彼が好きそうだからと巻いてみたり、目が悪いわけでもないのに賢そうに見えるからと、自慢の水色の瞳を隠してまで眼鏡をかけてみたり。
ダニエルと目が合えばそれだけで二日くらいその話ばかりして、話せた日には昇天しそうなほど舞い上がって。
アイシャはマリアンヌのそんな姿を見てきていたから、婚約したと報告を受けた時はとても嬉しかったのに。
マリアンヌの想いは見事に踏み躙られてしまった。
(最低だわ……)
アイシャの目からは自然と悔し涙が流れた。
「アイシャ」
「えっ?」
「……今、あいつのこと考えただろ」
「ふぇ?」
イアンが不服そうに親指の腹でアイシャの涙を拭う。
そんな彼の顔を見て、アイシャは思い出した。今の状況を。
「ご、ごめんなさい」
「この状況で他の男のことを考えるのはあまり良くないぞ?アイシャ」
「別に、殿下のことを考えていたわけでは…………んっ……」
イアンは有無を言わさず、アイシャの口を塞いだ。
「俺は嫉妬深いからな。気をつけた方がいい」
「あ、あれぇ?」
いつの間にか、子犬が獰猛な獣に戻っている。
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