上 下
106 / 149
第三章 アッシュフォード男爵夫人

24:唯一絶対の方法(1)

しおりを挟む

 それは無事にダニエルとの晩餐を終えた夜のこと。
 そう。予想に反し、当たり前のようにイチャイチャラブラブしながら夕食を取るイアンとアイシャに、ダニエルが終始顔を引き攣らせていた晩餐の後のことだ。
 テオドールが不在なの良いことに、『たった一つだけ、皇子が諦めるしかなくなる方法があります』、なんて言ってきたランの言葉に乗せられてしまったのが良くなかった。

   *
 
 ほとんど満月に近い月の灯だけが頼りの夜。
 シーツから香るお日様の匂いに包まれて。

 アイシャは何故か、イアンの部屋のベッドの上にいた。

 眼前には、はだけたバスローブの胸元から覗く分厚い胸板と、濡れ髪の彼。
 いつもより艶っぽく見えるのは風呂上がりだからだろうか。それともその、強請るような甘えたような潤んだ瞳のせいだろうか。
 獰猛な獣はすっかり鳴りを潜めてしまい、もはや愛情と温もりを求める子犬のようで、拒めない。

「アイシャ……、これはどういう事?」
「あ、あの……」
「こんな時間にそんな薄着で現れて、誘ってるの?」
「えっと……その、これには止むに止まれぬ事情があったと言いますか……」
「うん」
「ちょっと冷静な判断ができていなかったと言いますか……、大変反省はしているので……」
「ので?」
「ご勘弁いただきたく……」
「無理」
「ひぁ!?」

 イアンはアイシャの首元に顔を埋めた。そして子犬のように頬擦りすると、すうっと彼女の匂いを嗅いだ。
 その耳にかかる吐息のせいで、アイシャからは甘い声が漏れる。意図せず出た自分の声が静かな室内に響いて、アイシャは顔を真っ赤にした。

「アイシャ……」
「……あの、くすぐったいです」
「うん」
「いや……。『うん』ではなく……」
「うん」
「髪を……乾かした方がいいですよ。風邪をひきますし」
「うん」
「私も冷たいですし」
「うん」
「あの、聞いてます?」
「聞いてない」
「聞いてるじゃん……」
「ちょっと黙って」

 イアンはアイシャの首元に顔を埋めたまま、彼女の鎖骨あたりに口付けた。
 そしてその柔肌を吸った。

「なっ!?何をして……!?」
「吸った」
「何ゆえ!?」
「マーキング?」
「獣か!」
「熊だからな」

 ニッと口角を上げるイアン。この顔はこちらの反応を楽しんでいる顔だ。
 アイシャはプクッと頬を膨らませた。解せない。

「それ以上吸うなら、明日から蚊って呼びますよ」
「君から誘ったのに、それは酷くないか?」
「誘ってないので」
「どう見ても誘ってるだろ」

 イアンは不服そうにしつつも、仕方なく蚊の真似をやめた。
 しかしまだ全てを諦めてはいないようで、アイシャの少し湿った髪を撫で、頬を撫で、その手を唇まで滑らせる。
 そして指先で唇の形をなぞると、はぁ、と艶っぽくため息をこぼした。
 我慢しているような、けれどもう堪えきれないとでもいうような。そんな姿を見せられては、こちらまで熱くなってしまうではないか。
 アイシャは堪らず目を逸らせた。
 けれど逸らせた先には彼の逞しい腕があり、アイシャはもうどうして良いかわからない。

(どうしてこうなったんだっけ!?)

 確か、入浴後のことだ。
 ランに『やることやっちゃえば誰も何も言えなくないですか?』と言われたのがことの発端だった。
 表現の仕方にかなり難ありだが、彼女の言うことは一理あって。未婚の男女が一夜を共にすれば、もう結婚するしかなくなる。 
 平民の間では結婚しない場合もあるのだそうだが、貴族となるとそうもいかない。
 精神的にも肉体的にもほとほと疲れ果てていたアイシャは、それで奴が諦めてくれるならと回らない頭でイアンの部屋を訪れた。
 だが、訪れたタイミングが良くなかった。彼もちょうど風呂上がりだったのだ。
 別に裸でそこにいるわけでもないのだから慌てる必要なんて何もないのに、アイシャは若干パニック状態に陥ってしまい……。
 ランに助けを求めようとするも彼女にはごゆっくりと言われて扉を閉められ、どうしようかとあたふたと室内を動き回るも足が絡まり、転けそうになったところをイアンに支えられるが、彼も彼で体勢を崩してしまい、あっという間に押し倒される形でベッドの上に倒れ込むという、何ともお約束すぎる展開があり……。

 今に至る。

 
(…………私のバカッ!)

 アイシャは心の中で自分の軽率さを叱責した。 
 冷静になればやっぱりこの方法は良くない。誘っているみたいではしたないし、何より順番が違う。
 確かにランの言う通り、ダニエルは諦めるだろう。
 だがその代償は大きく、結婚前に初夜を迎えたことが広まれば、誹りを受けるのはイアンだ。
 これだから平民は、と蔑まれるに決まってる。
 彼は気にしないと言うだろうが、アイシャは気にする。

(殿下が黙っているわけないしね)

 あの男は出し抜かれたことを逆恨みして、有る事無い事吹聴するに決まってる。そういう男だ。今になってわかる。
 なぜ気づけなかったのだろう。アイシャは学生時代にその本質を見抜けなかった自分の愚かさを呪った。
 
(マリアンヌ様……、大丈夫かしら)

 ふと、マリアンヌの顔が浮かんだ。
 アイシャはマリアンヌへの手紙を二通、首都に向かったテオドールに託している。しかし、そのどちらを彼女に渡すかは彼の判断に委ねている。
 もし首都でこの事態が噂になっているのなら、アイシャはマリアンヌに対してことの詳細を報告し、誠実に対応しなければならない。
 けれどまだ噂にすらなっていないのなら、アイシャは友として、ダニエルのことを忠告せねばならない。
 どちらにしても彼女には酷な話だ。だから出来るだけ彼女の心に負担が掛からぬよう言葉を選び、文章を変えて二通用意した。

 別に友情が壊れる心配はしていない。マリアンヌはアイシャがダニエルに興味がないのを知っているし、何より彼女はこういう事態に陥ったとき、巻き込まれただけの友人を理不尽に怒るような女性ではないからだ。
 ダニエルに近づく女性に可愛くやきもちを妬くことはあっても、こういう時にヒステリーを起こし、事実を捻じ曲げて認識するほど愚かな人ではない。
 だからそこは心配していない。

 けれど……。

(あんなに喜んでいたのに……)

 マリアンヌはダニエルの目に留まりたくて必死に努力していた。
 確かにあまり賢い方ではないが、それでも賢い女性が好きだと公言していた彼に気に入られたくて、アカデミーに入るために必死に勉強した。
 本当は人見知りなのに社交だって頑張っていたし、身なりにも気を使っていた。
 真っ直ぐに伸びる綺麗なピンクブロンドの髪を彼が好きそうだからと巻いてみたり、目が悪いわけでもないのに賢そうに見えるからと、自慢の水色の瞳を隠してまで眼鏡をかけてみたり。
 ダニエルと目が合えばそれだけで二日くらいその話ばかりして、話せた日には昇天しそうなほど舞い上がって。
 アイシャはマリアンヌのそんな姿を見てきていたから、婚約したと報告を受けた時はとても嬉しかったのに。
 マリアンヌの想いは見事に踏み躙られてしまった。

(最低だわ……)

 アイシャの目からは自然と悔し涙が流れた。

「アイシャ」
「えっ?」
「……今、あいつのこと考えただろ」
「ふぇ?」

 イアンが不服そうに親指の腹でアイシャの涙を拭う。
 そんな彼の顔を見て、アイシャは思い出した。今の状況を。
 
「ご、ごめんなさい」
「この状況で他の男のことを考えるのはあまり良くないぞ?アイシャ」
「別に、殿下のことを考えていたわけでは…………んっ……」

 イアンは有無を言わさず、アイシャの口を塞いだ。

「俺は嫉妬深いからな。気をつけた方がいい」
「あ、あれぇ?」

 いつの間にか、子犬が獰猛な獣に戻っている。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】聖女になり損なった刺繍令嬢は逃亡先で幸福を知る。

みやこ嬢
恋愛
「ルーナ嬢、神聖なる聖女選定の場で不正を働くとは何事だ!」 魔法国アルケイミアでは魔力の多い貴族令嬢の中から聖女を選出し、王子の妃とするという古くからの習わしがある。 ところが、最終試験まで残ったクレモント侯爵家令嬢ルーナは不正を疑われて聖女候補から外されてしまう。聖女になり損なった失意のルーナは義兄から襲われたり高齢宰相の後妻に差し出されそうになるが、身を守るために侍女ティカと共に逃げ出した。 あてのない旅に出たルーナは、身を寄せた隣国シュベルトの街で運命的な出会いをする。 【2024年3月16日完結、全58話】

【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~

塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます! 2.23完結しました! ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。 相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。 ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。 幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。 好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。 そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。 それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……? 妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話 切なめ恋愛ファンタジー

俺の婚約者は地味で陰気臭い女なはずだが、どうも違うらしい。

ミミリン
恋愛
ある世界の貴族である俺。婚約者のアリスはいつもボサボサの髪の毛とぶかぶかの制服を着ていて陰気な女だ。幼馴染のアンジェリカからは良くない話も聞いている。 俺と婚約していても話は続かないし、婚約者としての役目も担う気はないようだ。 そんな婚約者のアリスがある日、俺のメイドがふるまった紅茶を俺の目の前でわざとこぼし続けた。 こんな女とは婚約解消だ。 この日から俺とアリスの関係が少しずつ変わっていく。

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

女嫌いな辺境伯と歴史狂いの子爵令嬢の、どうしようもなくマイペースな婚姻

野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
恋愛
「友好と借金の形に、辺境伯家に嫁いでくれ」  行き遅れの私・マリーリーフに、突然婚約話が持ち上がった。  相手は女嫌いに社交嫌いな若き辺境伯。子爵令嬢の私にはまたとない好条件ではあるけど、相手の人柄が心配……と普通は思うでしょう。  でも私はそんな事より、嫁げば他に時間を取られて大好きな歴史研究に没頭できない事の方が問題!  それでも互いの領地の友好と借金の形として仕方がなく嫁いだ先で、「家の事には何も手出し・口出しするな」と言われて……。  え、「何もしなくていい」?!  じゃあ私、今まで通り、歴史研究してていいの?!    こうして始まる結婚(ただの同居)生活が、普通なわけはなく……?  どうやらプライベートな時間はずっと剣を振っていたい旦那様と、ずっと歴史に浸っていたい私。  二人が歩み寄る日は、来るのか。  得意分野が文と武でかけ離れている二人だけど、マイペース過ぎるところは、どこか似ている?  意外とお似合いなのかもしれません。笑

転生おばさんは有能な侍女

吉田ルネ
恋愛
五十四才の人生あきらめモードのおばさんが転生した先は、可憐なお嬢さまの侍女でした え? 婚約者が浮気? え? 国家転覆の陰謀? 転生おばさんは忙しい そして、新しい恋の予感…… てへ 豊富な(?)人生経験をもとに、お嬢さまをおたすけするぞ!

【完結】見ず知らずの騎士様と結婚したけど、多分人違い。愛する令嬢とやっと結婚できたのに信じてもらえなくて距離感微妙

buchi
恋愛
男性恐怖症をこじらせ、社交界とも無縁のシャーロットは、そろそろ行き遅れのお年頃。そこへ、あの時の天使と結婚したいと現れた騎士様。あの時って、いつ? お心当たりがないまま、娘を片付けたい家族の大賛成で、無理矢理、めでたく結婚成立。毎晩口説かれ心の底から恐怖する日々。旦那様の騎士様は、それとなくドレスを贈り、観劇に誘い、ふんわりシャーロットをとろかそうと努力中。なのに旦那様が親戚から伯爵位を相続することになった途端に、自称旦那様の元恋人やら自称シャーロットの愛人やらが出現。頑張れシャーロット! 全体的に、ふんわりのほほん主義。

【完結】転生白豚令嬢☆前世を思い出したので、ブラコンではいられません!

白雨 音
恋愛
エリザ=デュランド伯爵令嬢は、学院入学時に転倒し、頭を打った事で前世を思い出し、 《ここ》が嘗て好きだった小説の世界と似ている事に気付いた。 しかも自分は、義兄への恋を拗らせ、ヒロインを貶める為に悪役令嬢に加担した挙句、 義兄と無理心中バッドエンドを迎えるモブ令嬢だった! バッドエンドを回避する為、義兄への恋心は捨て去る事にし、 前世の推しである悪役令嬢の弟エミリアンに狙いを定めるも、義兄は気に入らない様で…??  異世界転生:恋愛 ※魔法無し  《完結しました》 お読み下さり、お気に入り、エール、ありがとうございます☆

処理中です...