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第三章 アッシュフォード男爵夫人

19:強欲

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「え?異端審問?」

 あと半日ほど馬を走らせればアッシュフォードに着くという距離まできた頃。水辺で休憩をとっていたダニエルは、皇室の影からベアトリーチェが異端審問にかけられそうだとの報告を受けた。
 これは想定外の展開だ。ダニエルは切り株に腰掛けると、腕を組み、考え込んだ。

「異端審問は男爵本人が言い出したのか?」
「はい」
「あの美貌に落ちないのか。手強いな」

 ベアトリーチェの美しさは首都でもなかなか見かけないレベルだ。
 野暮ったい貴婦人の多い北部の社交界で、彼女のような女を連れて歩けば、それだけで羨望の眼差しを独り占めできるだろうに。
 富豪ブランチェット家との縁と、あのレベルの女に飛びつかないとは戦争の英雄は中々に硬派な男らしい。

「あの女に潤んだ瞳で迫られたら、耐性のない田舎の平民など直ぐ落ちると思ったのに」
「そしてまたも妹に居場所を横取りされて傷ついたお嬢さんを優しーく慰めて、彼女の身も心も手に入れるという下衆い作戦立ててたのに。残念でしたねー、皇子様。プランAは失敗!」
「…………急に出てくるな、オリバー」
「おっと失礼」

 急にダニエルの背後から現れたのは隻眼の剣豪オリバー。
 珍しい若草色のざんばら髪を雑に一つに束ね、似合わない騎士服を気崩した彼は、ダニエルの前に臣下らしく膝をつくと、ゆっくりと顔を上げた。
 そして、その光のない真っ黒な瞳でダニエルをジッと見つめてひと言。

「ざまぁー」
「……貴様、殺されたいのか」
「冗談っすよ、じょーだん。もう怖いなぁ、皇子様は」

 オリバーは舌を出し、馬鹿にしたようにケラケラと笑う。
 その飄々とした態度に、ダニエルは苛立ちを隠せない。
 もしもの時を考え、金に物を言わせて連れてきたが、やはり失敗だったかもしれない。
 
「おい、コイツを縛り上げておけ」
「はっ!」

 オリバーは護衛の騎士により、近くの木に縛り付けられた。酷いだの何だのと言っているが無視だ。
 ダニエルは咳払いをすると、再び影に向き直る。

「あの……殿下……」
「まあ、しかし好都合だ。男爵本人がベアトリーチェを拒んだのなら、それは皇帝陛下の褒美を辞退したのと同じ。陛下がそれを広い心で許してやれば、褒美の件はどうとでもなるだろう。むしろ男爵の方が無礼な奴だと誹りを受けるはずだ。こちらに害はない」
「では異端審問の件、そのままにされますか?」
「いや、今は少しタイミングが悪いな」

 別に、ベアトリーチェが魔女であろうがそうでなかろうが、そんなことはどうでもいい。
 だがダニエルはまだ、アイシャを正妃にする話を教皇に通していない。

「アイシャを首都に連れ帰るのが先だからと、後回しにしたのは失敗だったか」

 彼は金と権力欲にまみれた打算的な人だから、自分の娘が側室に落ちようが、皇室とのつながりを維持したがるはずだ。だから心配はしていない。
 しかしそれを異端審問の話の流れで、偶然に伝わるのはあまり良くない。
 仕方がないか、とダニエルは軽い口調で影に命じた。

「ジェラルドは首都に残っているらしいからな。動くなら奴だ。教会に近づかぬよう監視しろ」
「仰せのままに」
 
 命じられた影はすぐにどこかへ消えた。
 
ということは、異端審問自体は別に構わないのですか?」

 水を持ってきたダニエルの従者は影が消えた方向を眺め、心配そうに主人に尋ねる。
 ダニエルは水を受け取ると、それを一気に飲み干した。

「ああ。アイシャが手に入ったあとなら、ジェラルドの好きにさせてやるさ」

 アイシャはおそらく、この一件でエレノア子爵家の養子となるだろう。ならば異端審問で彼女に火の粉が飛ぶことはない。
 同じ血筋のため、彼女を聖女にするのは流石に難しいかもしれないが、そこは諦めても今後に支障は出ないだろう。
 家格の低さもエレノア子爵を昇格させれば解決する話。

「エレノア子爵は野心はないが、人格者だ。北部の貴族は皆、彼を気に入っている。彼の昇格は北部も喜ぶはずだ」
「しかし、ベアトリーチェ様が異端となればブランチェット伯爵は今の地位にはいられないかと」
「そうだろうな」
「ブランチェット伯爵は皇帝陛下の側近です。彼に助け舟を出さなくても良いのですか?」
「側近?本当にそう思うのか?」

 ダニエルは従者の心配を鼻で笑った。

「陛下がアレをそばに置くのは金を引っ張れるからだ。重要な仕事など何一つ任せてはいないよ」

 ダニエルは皇帝からブランチェット家と親しくしろとは言われているが、それが現伯爵である必要性は示されていない。

「ブランチェット家はジェラルドが継ぐ。そしてアイシャが私の妃となれば、彼女に負い目のあるジェラルドは彼女のためにも私に尽くす他ない」

 そうして、欲しいものは全て手の中に。
 ダニエルはアッシュフォードの方の空を眺め、ほくそ笑んだ。
 しかし。

「ははっ!そう簡単に行くと思ってんすかぁ?」

 彼のそんな独善的な独り言を、オリバーは嘲笑う。

「何が言いたいんだ、オリバー」
「だってさぁ、異端審問まで持ち出してくるなんて相当でしょ。英雄はよほどお嬢さんを愛しているようだ」
「……アイシャの方もそうとは限らんだろ。貴族と平民なんてうまくいくはずがない」
「わなりませんよー?なんせ英雄ですからねぇ?お嬢さんが惹かれても不思議じゃあない」
「そんなことはあり得ないが、仮にアイシャが彼に惹かれていたとしても、彼女は私を選ばざるを得なくなる。切り札はまだある」
「プランBっすか?ほんと下衆いお方だぁ」
「何とでも言え」

 何と言われようとも、欲しいものは手に入れる。
 北部の綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込むと、馬に飛び乗った。

「さあ、行くぞ。もう直ぐだ」

 もうすぐ、会えるよ。アイシャ。
 






 
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