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第三章 アッシュフォード男爵夫人

9:泣き顔も可愛いけれど

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 アイシャの部屋に行くと、彼女は布団に包まり、ベッドの上で泣いていた。
 自分自身を守るように小さくなり、必死に声を押し殺して涙を流す姿に、イアンは幼少期の彼女を見たような気がした。
 きっと今までこうして一人で耐えていたのだろう。
 イアンは心配そうにするアイシャを見つめるランの肩を叩いた。

「ラン、少し二人にしてくれないか?」
「……はい」
「大丈夫、任せてくれていい」
「はい。よろしくお願いします……」

 自分にできることはないと理解しているのか、ランは布団の中にいるアイシャに「ずっと味方です」と告げると静かに部屋を出た。
 静まり返る室内。パタンと扉の閉まる音が響いた。
 イアンはベッドの端に腰掛け、優しく話しかける。

「遅くなってごめん」
「……お帰りなさいませ」
「顔を見せてくれないのか?」
「見せられるような顔をしておりませんので。ごめんなさい」
「泣いたのか?」
「お恥ずかしながら」
「泣き顔が見たいんだけど」
「その発言はまるで変態のようです」
「まあ、変態だからな」
「違います。イアン様は少し変なだけで紳士です」
「ははっ、そうか。それはありがたいな」

 他愛もない会話が、アイシャの心をほぐす。
 少しだけ落ち着きを取り戻したアイシャは顔だけを布団から出した。
 ふかふかの布団に包まれ、顔だけを出した彼女はいつもよりも幼く見えて可愛らしい。
 イアンはアイシャの目尻に溜まった涙を親指の腹で拭った。

「泣き顔も可愛い」
「あまり見ないでください。恥ずかしいので」
「だが、君を泣かせるのは俺だけがいい。だから早く泣き止んで?」
「……その発言はどうかと思います。やっぱり変態ですか?」
「男はみんな変態だよ。それにしても、結構目が腫れているな。後で濡れタオルを用意しよう」
「すみません……」
「謝らなくていい。それと今日の晩餐は俺が一人で対応するから、君は休んでいなさい。その顔で人前に出るのは君も嫌だろう?」
「そ、それはダメです!いけません!あの人たちの対応をあなたに任せるわけにはいきませんわ!」

 あの人たちのことだ。間違いなくイアンに失礼なことを言うだろう。馬鹿にして見下すに決まっている。
 ただでさえ、イアンは社交の経験がないのに、そんなところに彼を一人で行かせたくはない。
 それに……

「ベアトリーチェは……、美しい子ですから……」

 万が一、イアンがベアトリーチェに惹かれたら、アイシャは伯爵の言う通りにこの結婚を彼女に譲らなければならなくなる。
 ベアトリーチェが本当にイアンと結婚したがっているとも思えないが、それでもアイシャは怖かった。

「あの、首都ではベアトリーチェの容姿は天使のようだとよく言われていて……」
「俺にとっては君が天使だよ。いや、女神様かな?」
「でも、容姿は美しい子なんですけど、中身はとても可愛らしい子なのです。甘え上手で病気がちなのに、それにも負けずにいつも明るくてみんなを笑顔にして、純粋で……。本当に、全部が可愛らしい子です」
「俺には君の方が可愛く見える。頑張り屋なところも、誠実なところも全部が可愛い」
「そ、それに!みんな、ベアトリーチェを好きになるから……。私付きだったメイドも、護衛もみんな、ベアトリーチェの方がいいってなるから……、だから……、もしかしたら貴方もベアトリーチェを見たら、ベアトリーチェと会話したら、きっと貴方も……」
「アイシャ。それ以上は言うな。怒るよ」

 不安から、ベアトリーチェを褒めるような言葉を並べるアイシャ。その裏には『自分なんか』という劣等感が垣間見える。
 イアンはもうそれ以上は聞きたくなくて、不安を吐露するアイシャの口を自分の口で塞いだ。そして布団ごと彼女をキツく抱きしめ、何度も何度も深く口付けた。
 徐々に慣れてきたのか合間合間で息継ぎをするアイシャ。イアンはその漏れ出る吐息さえも飲み込もうと、またかぶりつく。
 
「ま、待って……。お願い……」

 イアンの腕の力が少し和らいだタイミングでようやく彼を押し返すことができたアイシャは、先ほどとは別の理由で泣いていた。
 酸欠で涙を浮かべる彼女はとろんとした瞳で、潤んだ唇を舐めた。
 その仕草はイアンの目には扇情的に映り、彼はまたコリもせず彼女の唇を塞ぐ。

「待って、本当に、だめ……」
「どうして?」
「なんだか、溶けてしまいそうです」
「…………………はあ」

 どうしてこうも的確に煽るようなことが言えるのか。イアンはアイシャを自分から引き剥がすと、彼女に背を向けて顔を覆った。
 いっそ、恥ずかしいからとか、気分じゃないからとかそんな風に断ってくれた方がまだマシだ。

「あの、イアン様?」

 ようやく体の全部を布団から出したアイシャは、イアンの隣に座り、彼の顔を覗き込んだ。
 イアンは指の隙間から彼女の顔を覗き見る。
 先程まで泣いていたのは、傷ついていたのはそちらなのに、イアンの様子がおかしいとすぐに心配してくれるところが、やはり好きだ。
 イアンは顔を隠すのをやめた。
 そして真正面からアイシャを見据え、はっきりと言う。

「好きだよ、アイシャ。愛している。もちろん異性として」
 
 それは理性の箍が外れるからと、頑なに言わなかった言葉。言わせたくて、言いたかった言葉だ。

「……えっ?な、なんで、今?」
「今が言うタイミングだと思ったから」

 今言わないと、アイシャはどんどん卑屈になってしまう。悩まなくても良いことで悩んでしまう。
 だったら、ちゃんと伝えた方がいい。それで彼女が安心するなら、その方がいいに決まっている。 
 イアンはアイシャを抱き寄せると、その錫色の髪を優しく撫でながら何度も耳元で愛を囁いた。
 それこそ、アイシャがもうやめてほしいと懇願してくるくらいに。


 *


「全部大丈夫だから。誰に何を言われても、俺は君を手放す気はないよ。それこそ君自身が離れていきたいと言ってきてもだ」

 イアンからたくさんの愛情を受け取ったアイシャは、熱った体のままベッドに転がされ、目元には濡れタオルを被せられた。
 晩餐の席に出ようとするならば、唇が腫れるまでキスすると言われた彼女はイアンに従うしかない。

「アイシャ、伯爵夫妻がこんな素っ頓狂なことを言うのはやはり第一皇子せいか?」
「そんなはずはないと思いたいです。殿下は確かに打算的なところがありますけれど、結婚間近の友人にこんなことをするような非常識な方ではありませんでしたわ。それに私はご婚約者のマリアンヌ様とも親交がありますし、殿下と話すようになったのもマリアンヌ様を介してです」
「なるほど、これが殿下の差金なら、恋愛小説さながらの地獄の三角関係というわけだな」

 アイシャは友達とそんなドロドロの関係にはなりたくないと口を尖らせた。

「そもそも、お二人は昨年の秋から冬にかけて一緒に聖地巡礼もなさっていましたし……」
「二人で聖地巡礼となると、成婚も秒読みということか」
「ええ。ですから、そんな大事な時期に人の妻となる女を欲しがるなど普通ならあり得ません。これは両親か、もしくはその周辺の方々の思惑が働いているのかも」
「なるほどな。……よし、わかった。後のことは任せて、今日はもう休みなさい。食事は部屋に運ばせよう」
「で、でも……」
「ん?またキスされたいか?」
「そ、それは……」

 されたくないわけでもないアイシャは言葉を詰まらせた。
 彼女のその心情を察したのか、イアンは軽く触れるだけのキスを落とし、ベッドから立ち上がる。
 飛び起きたアイシャの目元からは濡れタオルがぼとっと落ちた。

「じゃ、行ってくる」
「……い、行ってらっしゃいませ……」

 この男はこんなに頼りがいのある人だっただろうか。
 いつもよりもイアンがカッコよく見えたアイシャは、扉が閉まるのを確認して、また布団にくるまった。
 さっきからずっと、体が熱い。燃えているみたいだ。

「私、結婚式の前に死んでしまうのではないかしら。心臓が痛いわ……」
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