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第三章 アッシュフォード男爵夫人
5:突然の訪問者(1)
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南部に比べればまだまだ肌寒い日は多いものの、すっかり雪も溶けたアッシュフォードは随分と暖かくなった。
関所の門も開き、隊商が行き来するようになった領地は冬の静けさが嘘のように活気付いている。
イアン曰く、やってくる隊商の数はいつもよりも多いらしい。きっと、正式に魔族と和平を結んだことが影響しているのだろう。
今まで危険だからとアッシュフォードを避けていた者たちが新たな商売を求め、視察も兼ねてきているのだ。
噂の奥様も一目見てみたいし、と。
「結婚式もありますし、隊商の人たちも気合が入っていますね」
商売の許可を得に来た隊商との謁見を終え、一息ついたアイシャにランはお茶を差し出した。
アイシャはそれを一口飲むと、はぁ、と艶っぽいため息をこぼす。
結婚式のこと、領地のこと、隊商との商談に子どもたちのこと。魔族のことがひと段落してもアイシャには考えなければならないことが山ほどある。
けれど最近のアイシャはずっと、どこか上の空だ。もちろんその原因は一つしかない。
そう、イアンだ。
あの怒涛の冬を抜けてから、イアンは隙あらばキスをするようになった。
確かに自分から言い出したことかもしれないが、こうも毎回不意をつかれると心臓がもたない。
そして何より、あたふたする自分を見て嬉しそうに笑うイアンが腹立たしくて仕方がない。
あちらの方が大人なのだから余裕があるのはわかるが、何だが弄ばれている気分だ。
「ずっと挙動不審だったのはイアン様の方だったのにぃ!」
形勢逆転。今はアイシャのほうが挙動不審だ。
今朝のキスを思い出し、アイシャはまた顔を赤くした。
「……イアンは戦犯では?」
「激しく同意します」
先ほどから難しい顔をしたと思えば、急に赤面して、かと思えば怒ったように頬を膨らませたりと百面相する挙動不審な主人にランとリズベットは肩をすくめた。
アイシャがこうも使い物にならなくなるとは、やはりイアンは戦犯である。
だがしかし、この場に彼はいないのでランの抗議の矛先は自ずと、彼をコントロールすべき立場であるはずのテオドールへと向かった。
ランの下等生物を見るかのような抗議の視線にテオドールは腕で大きくバツ印を作り、反論する。これは不当な抗議だ。断じて認められない。
と、いうわけで、テオドールは助けを求めるようにリズベットを見た。
けれどリズベットは子どものようにベーッと舌を出して彼を拒否した。どうやらまだ、痴女の歯形事件が尾を引いているらしい。
もしも、となりにその痴女がいると知れたらどうなるのだろう。ふとそんな事を考えてしまったテオドールは、ブルッと肩を震わせた。
世の中には言わなくて良いことなど、山のようにある。
*
「お、奥様!大変です!!と、どうしましょう!?」
テオドールたちが視線で攻防を続けているとメイドが二人、慌ててやってきた。
休憩中の主人の元に、ノックもせずに現れるなど無礼極まりないのだが、顔面蒼白な彼女たちの様子にただならぬ事情を察したアイシャはその無礼を咎めなかった。
「落ち着いて。どうしたの?」
「あ、あの……、ブランチェット伯爵夫妻がお見えです!」
「…………………え?」
「と、とりあえずサロンにお通ししましたが、先触れがなかったものですから……」
「何の準備もできておらず。い、いかがいたしましょう?」
元々来客の少なかったこの屋敷に、まさか大貴族が、それもあろうことか何の知らせもよこさずに訪れるなんて思ってもみなかったのだろう。
メイドは若干涙目になりながらアイシャに指示を乞う。だが、予想していなかった事態にアイシャは固まってしまった。
テオドールは仕方なく、アイシャに代わりメイドに指示を出した。
「とりあえず、君は客室の用意を。泊まっていかれるつもりかもしれない。そこの君は厨房へ。念の為晩餐の用意もしておいてくれと料理長に伝えてくれ。肉があるならそれを出して。出来るだけ豪華に。リズは砦に迎ってほしい。すぐに旦那様を呼び戻して」
「わ、わかった!」
「かしこまりました」
「すぐにご用意します!」
指示を受けたリズとメイドは部屋を飛び出す。
メイドの一人は焦りすぎたのか足が絡まり、転けてしまったようだ。
廊下からはドタバタと慌ただしい音が聞こえた。
「テオ様。私は……」
「ランは奥様の身支度を手伝って差し上げなさい。夫妻を前にするんだ。わかるな?」
「はい!」
「僕は夫妻のところへ行きます。状況を把握したい」
テオドールは手袋をキュッと付け直し、部屋を出た。そしてドアの境を跨いだところで振り返り、珍しく歯を見せて笑った。
「奥様、大丈夫です。この屋敷の人間は皆、貴方様の味方です」
その言葉にアイシャは心が温かくなるのを感じた。
そう、アイシャはもう一人ではない。傷つけられたとしても、その傷に一人で耐える必要はない。
「……そうね、ありがとう。テオ」
アイシャはテオドールを見据え、力強く頷いた。
「ラン、着替えたいのだけれど良いかしら」
「すぐにご用意いたします」
「時間があまりないのは承知の上で言うわ。髪型もメイクもとびきり可愛くしてもらえる?ベアトリーチェに負けないくらいに」
「もちろんです!お任せください!」
ベアトリーチェに負けないくらいに、なんて。そんなオーダーをされたのは初めてだ。
俄然やる気が出たランは腕まくりをし、急いで支度に取り掛かった。
関所の門も開き、隊商が行き来するようになった領地は冬の静けさが嘘のように活気付いている。
イアン曰く、やってくる隊商の数はいつもよりも多いらしい。きっと、正式に魔族と和平を結んだことが影響しているのだろう。
今まで危険だからとアッシュフォードを避けていた者たちが新たな商売を求め、視察も兼ねてきているのだ。
噂の奥様も一目見てみたいし、と。
「結婚式もありますし、隊商の人たちも気合が入っていますね」
商売の許可を得に来た隊商との謁見を終え、一息ついたアイシャにランはお茶を差し出した。
アイシャはそれを一口飲むと、はぁ、と艶っぽいため息をこぼす。
結婚式のこと、領地のこと、隊商との商談に子どもたちのこと。魔族のことがひと段落してもアイシャには考えなければならないことが山ほどある。
けれど最近のアイシャはずっと、どこか上の空だ。もちろんその原因は一つしかない。
そう、イアンだ。
あの怒涛の冬を抜けてから、イアンは隙あらばキスをするようになった。
確かに自分から言い出したことかもしれないが、こうも毎回不意をつかれると心臓がもたない。
そして何より、あたふたする自分を見て嬉しそうに笑うイアンが腹立たしくて仕方がない。
あちらの方が大人なのだから余裕があるのはわかるが、何だが弄ばれている気分だ。
「ずっと挙動不審だったのはイアン様の方だったのにぃ!」
形勢逆転。今はアイシャのほうが挙動不審だ。
今朝のキスを思い出し、アイシャはまた顔を赤くした。
「……イアンは戦犯では?」
「激しく同意します」
先ほどから難しい顔をしたと思えば、急に赤面して、かと思えば怒ったように頬を膨らませたりと百面相する挙動不審な主人にランとリズベットは肩をすくめた。
アイシャがこうも使い物にならなくなるとは、やはりイアンは戦犯である。
だがしかし、この場に彼はいないのでランの抗議の矛先は自ずと、彼をコントロールすべき立場であるはずのテオドールへと向かった。
ランの下等生物を見るかのような抗議の視線にテオドールは腕で大きくバツ印を作り、反論する。これは不当な抗議だ。断じて認められない。
と、いうわけで、テオドールは助けを求めるようにリズベットを見た。
けれどリズベットは子どものようにベーッと舌を出して彼を拒否した。どうやらまだ、痴女の歯形事件が尾を引いているらしい。
もしも、となりにその痴女がいると知れたらどうなるのだろう。ふとそんな事を考えてしまったテオドールは、ブルッと肩を震わせた。
世の中には言わなくて良いことなど、山のようにある。
*
「お、奥様!大変です!!と、どうしましょう!?」
テオドールたちが視線で攻防を続けているとメイドが二人、慌ててやってきた。
休憩中の主人の元に、ノックもせずに現れるなど無礼極まりないのだが、顔面蒼白な彼女たちの様子にただならぬ事情を察したアイシャはその無礼を咎めなかった。
「落ち着いて。どうしたの?」
「あ、あの……、ブランチェット伯爵夫妻がお見えです!」
「…………………え?」
「と、とりあえずサロンにお通ししましたが、先触れがなかったものですから……」
「何の準備もできておらず。い、いかがいたしましょう?」
元々来客の少なかったこの屋敷に、まさか大貴族が、それもあろうことか何の知らせもよこさずに訪れるなんて思ってもみなかったのだろう。
メイドは若干涙目になりながらアイシャに指示を乞う。だが、予想していなかった事態にアイシャは固まってしまった。
テオドールは仕方なく、アイシャに代わりメイドに指示を出した。
「とりあえず、君は客室の用意を。泊まっていかれるつもりかもしれない。そこの君は厨房へ。念の為晩餐の用意もしておいてくれと料理長に伝えてくれ。肉があるならそれを出して。出来るだけ豪華に。リズは砦に迎ってほしい。すぐに旦那様を呼び戻して」
「わ、わかった!」
「かしこまりました」
「すぐにご用意します!」
指示を受けたリズとメイドは部屋を飛び出す。
メイドの一人は焦りすぎたのか足が絡まり、転けてしまったようだ。
廊下からはドタバタと慌ただしい音が聞こえた。
「テオ様。私は……」
「ランは奥様の身支度を手伝って差し上げなさい。夫妻を前にするんだ。わかるな?」
「はい!」
「僕は夫妻のところへ行きます。状況を把握したい」
テオドールは手袋をキュッと付け直し、部屋を出た。そしてドアの境を跨いだところで振り返り、珍しく歯を見せて笑った。
「奥様、大丈夫です。この屋敷の人間は皆、貴方様の味方です」
その言葉にアイシャは心が温かくなるのを感じた。
そう、アイシャはもう一人ではない。傷つけられたとしても、その傷に一人で耐える必要はない。
「……そうね、ありがとう。テオ」
アイシャはテオドールを見据え、力強く頷いた。
「ラン、着替えたいのだけれど良いかしら」
「すぐにご用意いたします」
「時間があまりないのは承知の上で言うわ。髪型もメイクもとびきり可愛くしてもらえる?ベアトリーチェに負けないくらいに」
「もちろんです!お任せください!」
ベアトリーチェに負けないくらいに、なんて。そんなオーダーをされたのは初めてだ。
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