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第三章 アッシュフォード男爵夫人

4:不意打ちは反則

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「子どもたちは屋敷に馴染んできたようだな」

 朝食の席で、ご機嫌なアイシャにイアンはそう声をかけた。
 子どもたちを引き取ってから数週間。周りの気遣いもあり、想定よりも早く屋敷に馴染んできた彼らの話を振られ、アイシャは生き生きと言葉を返す。

「ええ、そうですね。とりあえずフットマンを視界の端に入れても怖がらなくなりました。騎士はまだ怖いようですが、そこは仕方ありませんね。彼らは体格が良いですから。あ、でも昨日、線の細い見習い料理人が一人、イリーナと挨拶を交わすことに成功したようです!」
「そうか、それは良いことだ。これから先、男を避けて生きていくなんて出来ないからな」
「はい。ですからカウンセラーの先生も手配しました。時間はかかるでしょうが、少しずつ彼らの心を癒してあげられたらと思います」
「そうだな」

 本人たちは過去のトラウマから無意識下で男を避けている。そして意識しているわけではないからこそ、厄介なのだ。
 簡単な問題ではないため、慎重にいきたいとアイシャは語った。
 
「そういう訳ですから、イアン様に挨拶をするのはまだまだ先になりそうです。すみません」
「謝るなよ。俺がそんなこと気にしないのは知っているだろ?」
「そうですね、知っています。けれどあなたはこの家の主人なのだから、使用人の粗相はちゃんと叱ってやらねばいけませんよ?」
「わかっているさ。言っておくがな、これでも貴族らしく振る舞えるようになってきたと褒められたんだぞ」
「テオにですか?」
「ああ、テオにだ」
「それ、そうやって褒めておけば言うこと聞くから言っているだけではないのですか?ふふっ、扱いやすい人」
「……アイシャ。君は随分と意地悪を言うようになったな」

 揶揄うようにごめんなさいと笑うアイシャにイアンは頬を膨らませた。
 だが小馬鹿にされても嫌な気分になることはない。むしろ軽口を言い合える仲にまでなったことに喜びを感じる。
 イアンは不意に席を立つとアイシャの唇の端を舐めた。
 
「………え?」

 その不意打ちの攻撃に、何が起きたのか理解できないアイシャは口をぽかんと開けたままイアンを見上げる。
 そんな彼女の反応にイアンはとても満足げな笑みを浮かべた。

「ソース、ついてたから」

 なんて、わざとらしい言い訳だ。余裕の笑みが腹立たしい。
 顔に出しては負けたと思いつつも、アイシャの体温は急上昇した。

「………いいいい、言ってくだされば自分でとります!」
「ごめんごめん、美味しそうでさ。つい」
「……なっ!?」

 美味しそう、とは何が?
 なんて聞いてしまうと、多分自分は喰われるのだろう。
 それがわかるから、アイシャは何か言い返したいのに何も言えない。

「~~~~っ!!」
「じゃあ、俺はそろそろ出るよ。今日の隊商キャラバンの対応、任せてしまって悪いな。夕方には戻るから、夕食は一緒に食べよう」

 アイシャの頭をポンポンと叩くと、イアンは鼻歌を歌いながら食堂を後にした。
 ランやリズベットから放たれる軽蔑の視線など気にも止めない浮かれ気分な彼の周りには、鬱陶しいほどに花が飛んでいる。
 テオドールは頭から湯気を出しながら机に突っ伏して悶絶しているアイシャをランたちに任せて、主人の後を追った。
 

 *


「幸せいっぱいですね。胸焼けしそう」
 
 廊下を歩きながら今日の予定を確認し終えたテオドールは抗議するようにパンッと音を立ててノートを閉じると、ため息をこぼした。
 最近のイアンは箍が外れたように気安くアイシャに触れる。それこそ、彼女がこの屋敷に来た時に見せていた挙動不審な態度が嘘のように。
 一応、一線は変えぬよう気を使っているようだから構わないと言えば構わないのだが、常にそばにいる身としてはところ構わずイチャつくのは控えてもらいたいところだ。
 だがテオドールの嫌味を僻みと捉えたのか、イアンは宥めるように彼の頭を撫で回した。

「ああ、幸せだ。悪いなぁ、俺だけ幸せで」
「ちょ、やめてくださいよ!鬱陶しい!」
「いやー、でもさぁ?アイシャから言ってきたんだぞ?俺に触れられたいって。だからこれは俺のせいじゃない。俺は彼女の希望を叶えているだけだ」

 うんうんと、自分の言葉に納得しているように頷くその仕草がとても腹立たしい。
 テオドールはイアンの手を払い除けると、ジトッとした生暖かい視線を彼に送った。

「……そうやってあんまり調子に乗ってると、フラーッと現れた王子様に掻っ攫われますよ?婚姻が成立していない以上、あり得る話です。多分」
「ははっ。どこの世界に結婚式を目前に控えている花嫁を奪う不届者がいるんだ。そんなものは物語の世界だけだ」
「でも、奥様ってアカデミー時代は結構交友関係が広かったみたいですよ?名家のご子息とデートした経験もあるみたいですし?第一皇子殿下とも仲がよかったと聞いていますよ」

 嫌味たっぷりのテオドールに、イアンはむすっとした顔で睨み返した。

「……か、過去の話だろ!?何でそんな話するんだよ。羨ましいからって僻むな」
「別に僻んでません。事実を申し上げただけです」
「過去がどうだろうと、今アイシャが想いを寄せているのは俺で間違いないし、関係ない!俺たちは固い絆で結ばれているからな!」
「はいはい、そうですか」
「お、お前こそ!そんなわかりやすいところに歯形なんて付けてるんじゃねーよ。屋敷内の秩序が乱れる」
「もう歯形は消えてますし、屋敷の秩序はとうの昔に乱れてますよ。旦那様がしっかりしていないせいで。だから安全なはずの屋敷内で痴女に襲われるんです。ああ、僕って可哀想」
「だーかーらー、犯人なら俺が捕まえてやるってこの間から言っているだろう。その痴女はどこの誰なんだ?ん?言ってみ?」

 イアンは揶揄うようにテオドールの顔を覗き込む。これはその痴女がどこの誰だか予想がついている顔だ。ああ、捻り潰してやりたい。
 テオドールは動揺を悟られぬよう真顔で「言わない」と返した。

「なら俺にはどうすることもできないな。そういえばその歯形を知ってリズが発狂していたぞ。その痴女はアイツに殺されるんじゃないか?」
「殺させませんよ」
「ほう、痴女を庇うのか。実は恋人?」
「……違います。そういうのじゃないですし、むしろ嫌われているというか。彼女からしたら、アレは僕に対する嫌がらせでしかないので」

 とはいえ、嫌がらせだとしても年頃の女の子がするようなことではない。ちゃんと言って聞かせないとな、とテオドールはまたため息をついた。
 あの奥様が来てから、色々とありすぎて胃が痛い。腹いせにちょっと八つ当たりしてやろうか。
 ……などと、一瞬だけ悪い考えが頭をよぎったが、テオドールはまだ死にたくないのでその考えはすぐさま抹消した。
 アッシュフォードの女主人は猛獣使いなので、軽い悪戯を仕掛けただけでも喉元を噛みちぎられることだろう。

「お前と痴女の関係は知らんが、なんだかリズが可哀想になってきたな」
「何でリズ……」
「いや、俺も最近気づいたから人のこと言えないけど。なんていうか、お前って結構鈍いよな」
 
 やれやれと肩をすくめるイアン。
 鈍感に鈍感と言われる筋合いなどない。
 テオドールは思い切りイアンの足を踏みつけると、悶絶する彼を置いて無言で去っていった。
 

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