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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精

40:熱を帯びて

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「風邪ですね。数日休めば良くなるでしょう」

 穏やかな日差しが差し込む昼下がり。アイシャの寝室で男爵家お抱えの医師がそう告げた。
 ぷっくりと頬を膨らませたランと呆れ顔のリズベットに囲まれながら、気まずそうに処方された薬を飲んだアイシャは大人しくベッドに寝転がり、目を閉じた。

「は、反省はしているから、そんな目で見ないでよ……。二人とも」

 チラリと目を開け、こちらを見下ろすランとリズベットの様子を伺う。 
 だが、二人の視線は変わらず冷たかった。

「そりゃあ、2日に一回は雪の降る夜の森に通ってたら風邪ひきますよねー」
「騎士は交代で付き添ってるってのに、奥様は毎回毎回出向くんだもの。ただ手紙を届けるだけなのに」
「もうある程度の関係は築けているのでしょう?なら誰かに任せるべきです」
「うんうん」
「大体、ただでさえシスター・マリンがいなくなって子どもたちが心配だからと毎日のように孤児院に通っているというのに。明らかに働きすぎです!」
「奥様は人を頼ることも覚えたほうがいいわね。あんたは使う立場であって、自ら動く立場ではないわ」
「奥様はもう少しご自分を大事になさるべきです。皆がどれだけ心配すると思っているのですか」
「うう……ごめんなさいぃ……」

 小言に耐えきれず、アイシャは頭から布団をかぶった。そこまでネチネチ言われるとは思っていなかったのだ。
 この二人、普段は仲が悪いくせして、こういう時には団結するのだから困ったものだ。

(はあ、情けない)

 ハルとの初接触から何度か手紙のやり取りをして数日。ハルとの話し合いに孤児院の子どもたちのケアや、治療院のこと。色々と気を回した結果、多くの仕事を抱えることとなったアイシャは今朝、とうとう熱を出して倒れた。
 元々暖かい南部で育った彼女にこの寒さは慣れなかったのだろうが、それにしてもこんな大事な時に風邪をひくなど情けない。 
 アイシャは布団の中で大きなため息をこぼした。

(ハルは水面下で仲間を集めていると言っていたわ。情報はこちらに渡してくれているし、あとの作戦立案はイアン様にお任せすれば良いわよね。子どもたちには詳しく事情を話していないし、しばらくはリズに通ってもらおうかな。治療院はとりあえずお医者様にお任せしたからいいとして、あとは……)

 やらなければならないことが沢山ある。
 頭の中で今後のことを考えながら、アイシャは気がつくと意識を手放していた。

  *

 子どもたちが元気に走り回る横で、シートを広げて。男爵家のシェフが作った、豪華さはないが温かみのあるお弁当を堪能する春の午後。
 ピンクの花弁が咲き乱れる木の下で、笑い合うイアンとアイシャ。喧嘩するランとリズベットとそれを呆れた様子で眺めるテオドール。
 そこにハルや魔族の子どもたちも合流して……。

 みんなで楽しく過ごす、そんな夢を見た。

 笑い合う人々の中心には自分がいて、皆に必要とされていると、愛されていると実感できたアイシャは嬉し涙を流していた。

「……幸せな夢だったな」

 どのくらい眠っていたのだろう。アイシャがボーッと窓の外を見るともう日は落ちかけていた。道理で室内が暗いはずだ。
 しかし、よく眠れたからだろうか。今朝よりも体は軽い。
 アイシャは体を起こし、背伸びをした。

「……イ、イアン様?」

 ふと、ベッド傍に視線を落とすとベッドに突っ伏すようにしてイアンが眠っていた。
 看病をしてくれたのだろうか。水桶と濡れたタオルに、飲み物や軽食まで用意されている。

「アイシャ……」

 彼が寝言でアイシャの名を呼んだ。とても愛おしそうに呼ぶものだから、アイシャの心臓は大きく跳ねた。
 そんなふうに呼ばないでほしい。そんなの、まるで、

「私のこと、好きみたいじゃない……」

 アイシャは静かに顔を覆った。口に出して恥ずかしくなったのだ。

 これで違っていたら悲しいどころの騒ぎじゃない。おそらく数週間は立ち直れないだろう。
 期待して、その期待を裏切られるのは何度経験しても慣れるものではない。
 それに、もし仮にイアンに好かれていたとしてもきちんと自重せねばならない。そうでなければ、もっともっとと愛を求めてしまいそうだ。今まで両親に返してもらえなかった分まで彼に求めてしまう。
 そうなればいずれ、自分は鬱陶しがられるだろう。夫の愛を求めすぎて、逆に夫は嫌気が差して浮気したという話は社交界でも聞いたことがある。

「求めすぎてはダメ」

 自分に言い聞かせるようにそう呟き、アイシャはイアンの黒髪を優しく撫でた。見た目よりも柔らかい彼の髪は、そのまま彼自身を表しているようで、アイシャは思わずクスッと笑ってしまった。

「……何を笑ってるの?」
 
 不意に声をかけられ、髪を撫でるアイシャの手が止まる。恐る恐る手をのけると、イアンが恥ずかしいのか困っているのか、何とも言えない表情でこちらを見上げていた。
 アイシャはすぐに手を自分の胸元まで引っ込める。

「ご、ごめんなさい!勝手に……」
「いや、別にいいよ。少し恥ずかしいだけだ。……それより、おはよう」
「あ、おはようございます」
「よく眠れたかい?」
「はい、おかげさまで」
「体は?」
「平気です、だいぶ軽くなりました。きっともう熱もありません」

 アイシャはニコッと笑った。本当は少しだけ体が熱い気がするけれど、これを言うとまだ休めと言われそうな気がして咄嗟に誤魔化してしまった。
 イアンはそんな彼女を半眼で見つめる。明らかに疑っているその視線にアイシャはギクッと肩をこわばらせた。

「アイシャ、本当に?」
「ほ、本当です」
「では熱を測っても良いか?」
「え、そ、それは……」

 触られるとまずいかもしれない。アイシャはスッと顔を逸らせた。

「アイシャ?」
「だ、大丈夫ですから」
「……」

 イアンが不服そうにアイシャを見上げるも、アイシャは目を逸らしたまま。
 仕方なく、イアンはアイシャの額に手を伸ばした。

「ひぁ!?」

 しかし、体温を測られたくない彼女は当然の如くその手を避ける。
 何とも言えない気まずい沈黙が二人の間に流れた。

「何故避ける?」
「その、たくさん汗をかいたので……」
「俺は気にしない」
「私は気にします。汗臭いかもしれないし……」
「大丈夫。いつもと同じ、いい匂いだ」

 そう言うと、イアンはアイシャの髪を一房とり、そっと口付けた。もちろんのこと、アイシャの顔はみるみる赤くなる。
 体臭を気にしていたのは本当だし、そもそも髪に口付けなんて恥ずかしいことこの上ない。アイシャはやめてほしいと髪を取り返した。
 するとイアンはムッと顔を顰め、アイシャに近づいた。そしてそのまま彼女の前髪をかき揚げ、自分の額を彼女の額にくっつける。
 額から伝わるのは明らかに平熱よりも高い体温。イアンは呆れたようにため息をこぼした。

「ほら、まだ熱があるじゃないか」
「……あ、あう」
「まだ休んでいた方がいい。ハルとのやり取り、これから先は軍事的なアドバイスがメインだろう?なら作戦立案も俺たちの仕事だ。だからアイシャはしばらく……って、アイシャ?」
「はふぅ……」
「アイシャ!?」

 熱と恥ずかしさで限界を迎えたアイシャはそのまま後ろに倒れた。 
 アイシャと額を合わせていたイアンは、彼女が頭を打たないようにと庇った結果、体勢を崩し、そのまま共に倒れてしまう。

「……あ」
「イ、イアン、様……」

 ぱちくりと澄んだ群青の瞳を大きく見開き、イアンを見上げるアイシャ。彼女の潤んだ瞳は必死に抑え込もうとしていたイアンを激しい感情を刺激する。

「アイシャ……」

 イアンはアイシャの頬に優しく触れた。アイシャは少しだけ体を縮こまらせ、小さく甘い声を漏した。
 熱を帯びた甘く危険な空気が二人を包む。
 事情を知らない人が見れば熊がか弱い乙女を押し倒しているようにしか見えないが、そんな状況になっていることを当の本人は気づいていないのか、それともこの状況がまずいことを理解していないのか。イアンは組み敷いた愛おしい彼女をジッと見下ろした。
 黄金の瞳が僅かな劣情で揺れる。アイシャはそんな彼の唇に手を伸ばした。
 指に触れた、思っていたよりもずっと柔らかい唇の感触にアイシャは頬を赤らめる。

「風邪が移ってしまいます……」
「そう、だな」
「だから、こういうのは……、良くありませんわ」
「ああ」

 なんて言いながらも徐々に近づく二人の距離。アイシャが手を引っ込めようとすると、それに誘われるようにイアンが近づく。
 これはどちらが悪いのだろうか。誘っているアイシャか、誘われたイアンか。いずれにせよ、この状況は大変よろしくない。

「アイシャ……、いや?」
「い、嫌では……」
「じゃあ、いい?」
「き、聞かないで。何だか恥ずかしい……」
「それ、肯定ととるよ?」

 イアンは親指の腹でアイシャの桃色の唇をなぞった。柔らかくて艶がある、少し熱を帯びた唇。
 本音を言うと齧り付いて貪りつくしてやりたいが、そんなことをすればアイシャはきっと、一生イアンの側には近づかないだろう。
 それくらいの理性は持ち合わせていたようで、イアンは啄むように、一度だけキスをした。

 日の落ちかけた静かな部屋に響く、一度きりのリップ音。

 子どもの戯れみたいなキスなのに、アイシャの心はもう限界で。アイシャはパタリと気を失った。

「えぇ!?アイシャ!?」

 いつかの執務室で、『夫婦になるのだから、キス』と言っていたくせに。まさかそのキスくらいで気絶するとは思わなかった。アイシャはイアンが思うよりもずっとウブなのかもしれない。
 イアンはすぐに気絶した彼女を抱き上げ、医者の元に駆け込んだ。
 ちなみに、そのあとで彼がテオドールに説教されたことは言うまでもない。
 
 
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