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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精

39:ハル(4)

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『……謀反を起こせと、言うのか?』

 アイシャの話はあまりにも非現実的で、ハルは大きく目を見開いた。
 魔王の強さも彼を守る側近の強さも桁外れだ。そのことは誰もが知っている公然たる事実。現にイアンも戦争の際、前線の指揮官であった将軍の首を狩ることはできても、魔王には手が届かなかった。アッシュフォードの奪還に成功はしたものの、側近二人に先を阻まれて魔族領に足を踏み入れることは叶わなかった。
 そんな彼ら相手に反旗を翻せなど、アイシャの提案はほぼ死ねと言っているも同然だ。
 しかしアイシャもそれは理解しているが、ここで引くわけにもいかない。

『ハル。あなたの反応は当然。けれどここで行動しなければ、あなたは何も守れぬまま死ぬ』
『……だが』
『こちらには穏健派の貴族の情報がある。城の内部も詳しくわかる。貴女の主君がいる場所もおそらくは。貴族を口説き落とす術を与えられるし、貴女の持つ情報と擦り合わせれば戦略を立てることもできる』
『……』
『ハルの国だ。ハルの主人だ。ハルが託された子どもたちだ。ハルが守れ』
『そう、だな……』

 アイシャにはっきり言われ、ハルは小さく頷いた。
 魔族の国は貧しい。にも関わらず軍備に予算を割いているため、民は疲弊している。中央の一部の者だけが富める国だ。
 魔王をどうにかせねば、生活は変わらない。もはや崩壊しかけているこの国を立て直すためにはあの王のままではいけない。
 失敗すれば死ぬのは確実だが、失敗せずとも何もしなければどのみち国は滅びるだろう。
 ハルは覚悟を決めたように、アイシャの手をもう一度握った。

『……私の主君はとても穏やかな人だ。無駄な争いを好まず、帝国への南下作戦も反対していた。誰よりも民のことを考え、民に尽くそうとなさる方……』

 今、真の主人がどのような生活を送っているかはわからない。話ができる状態かも不明だが、新たに王を立てるなら彼であるべきだとハルは語る。
 アイシャはそんな彼女の手を取り、ぎゅっと握り返した。

『しばらくは手紙でやり取りをしましょう。ハルはハルの持てる国の情報をまとめて来て。私も私が持てる情報を持ってくる』
『わかった』
『手紙は読んだら火にくべること』
『ああ』
『ではまた明日。同じ時間にこの場所で』

 そう約束を交わし、ハルは立ち上がるとこちらに背を向けて森の奥へと走り去った。
 アイシャはそんな彼女の姿が見えなくなるまで、穴から壁の向こう側を覗き込んでいた。
 
「用意していた言葉に関して言えばすごく流暢に話せていましたね。付け焼き刃にしては上等ですよ。通訳なんてほとんど必要なかった」
「そう?ありがとう」
「しかしながら……、薬草で恩を売り、不幸な身の上話で警戒心を解き。言葉を巧みに操りマリーナフカの件についてのあたかも仕方がなかったかのように脚色し、主人の言葉で揺さぶりをかけて。怖い人です」
「その言い方はどうなのよ。王弟の言葉を教えてくれたのは貴方でしょう」
「いやだな、褒めているのですよ。惚れてしまいそうです」
「ダウト。貴方が惚れているのは貴方のご主人様よ」
「……ちょ、気持ち悪いこと言わないでくださいよ」
「人としてって意味よ、勝手に勘違いしてげんなりしないで」
「僕は奥様のことも尊敬してますよ」
「誤魔化さないの。貴方が一番大事なのはイアン様で、私は貴方にとって道具でしかない。違う?」
「……もしや、ランから何か聞きました?」
「その返しは図星ね」
「……今日のところはこれで帰りましょうか」
「あ、逃げた」

 ドレスについた泥混じりの雪を払い、立ち上がるアイシャにテオドールは気まずそうに手を差し出した。

 *
 
「お待たせしました」
「おつかれさま、アイシャ」

 待機していた騎士達の前に戻ったアイシャの頬はほのかに赤いのに、体を酷く冷え切っていた。
 イアンは寒そうに震えながら肩で息をする彼女に無理をするなと言ってやりたかった。
 だが、やりきったと満面の笑みを見せられてしまい何も言えない。
 仕方なく、イアンは手袋を取り、彼女の頬に手を伸ばした。
 白磁のようなその肌は氷のように冷たかった。

「冷えすぎたな」
「ふふっ、イアン様の手は暖かいですね。凍っていた頬が溶けていくみたいで気持ちがいいです」

 アイシャは無意識にイアンの手に自分の手を重ね、頬ずりした。
 暖を取るためとわかってはいても、その仕草は可愛らしくてイアンは困ったように笑った。
 そんなことをされては、どうしたって欲しくなる。ただでさえ、もう限界なのに。

「……抱きしめても、良いだろうか」
「……え?」
「体がひどく冷えているから」
「あ、はい……。お願いします……」

 体を温める、なんて名目でイアンはアイシャを抱きしめた。
 彼のコートに包み込まれるように動きを封じられたアイシャはどうしたものかと、つい体をこわばらせた。
 寒いはずなのに、体は自然と内側から温かくなる。
 どんどん早くなるこの鼓動はどちらのものだろうか。自分とものと彼のもの。二つの鼓動が合わさり、さらに大きく聞こえる。
 多分、いま顔を見られたら恥ずかしさでどうにかなってしまうだろう。

「あ、あの……そろそろ帰りませんか?」
「そうだな……。でも……」

 もう少しだけ。そう言って、イアンはさらにアイシャを強く抱きしめた。とても愛おしそうに。堪えきれない思いをぶつけるみたいに。


     ***


『申し訳ないのだけれど、明日もまた、同じ時間にお付き合い頂けますか?』

 帰り際、苦労をかけるがもう少し付き合ってほしいとアイシャは言った。
 雪と泥に塗れたドレスも、穴を覗き込んだ時についた頬の傷も気に止めることなく、真剣な眼差しでこちらを見つめる主君の大事な婚約者。
 これは好機だからと、真の意味で戦争を終わらせ、平和を取り戻すため力を貸して欲しいと語る彼女の群青の瞳は、聖なる石ラピスラズリのようで。月明かりに照らされた燻んだ銀髪がとても神々しく光り輝いて見えて……。

 騎士達は何故か心が震えた。

「どうやら俺たちは認識を改めねばならないようだ」

 帰り道、騎士達はそう話した。
 多くの傲慢な貴族令嬢たちとは違い、聡明で優しいお嬢様だとは思っていたが、まさかこんな風に領地のために全力を尽くす人だとは、正直なところ誰も思っていなかった。
 むしろ魔族との交易などという夢物語を語る姿を見た時は、所詮は世間知らずなお嬢様だったと失望したほどだ。
 けれど、どうやらその認識は間違っていたのかもしれない。

「ドレスが汚れても、顔に傷がついても気にしないご令嬢なんて初めて見ました」
「俺もだ」
「こんな寒い中、自ら出向くなんて……。ありえないですよね」
「ああ」
「……魔族との交易なんて、本当にできるのでしょうか?」
「わからん。だが……」
「信じてみてもよいのではないか?」
「そう、ですね」
「きっと、悪いようにはなさらない」
「だって、団長の女神様だぞ」
「……ははっ。そういえばそうでしたね」

 あの英雄が心から尊敬する女性だ。想像よりもだいぶ逞しい女性だったが、彼女が自分たちに幸福をもたらしてくれるのは間違いないだろう。
 騎士達はこの日、本当の意味でアイシャを主人と認めた。
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