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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精
27:黒に近いグレー
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あれから5日後のこと、テオドールは約束通り司祭を調べてきた。彼は警戒心が強く、中々尻尾を出さなかったが、薬屋の店主が気になることを吐いたらしい。
『彼は帝国で数年前に使用が禁止された薬草を欲しがっていた』と。
「薬草?」
「はい」
テオドールは薬屋の仕入れの記録をイアンの机の上に並べた。仕入れ記録の中には数カ所、赤で下線が引かれている。
「この薬草、鎮痛薬とか麻酔薬に使われる物か?確か依存度が高く危険だからと禁止されたような……?」
「ええ、そうです。薬屋の店主は司祭様に頼み込まれてこの薬草を安価で売っていたそうです。しかし違法薬物への取り締まりが強化された時期に、流石にこれ以上は危険だと、もう仕入れをやめたいと申し出たのです。すると司祭は激昂したそうです」
「もしやその数日後、マリーナフカが街に現れた……とか?」
「はい。まあ尤も、店主はそれとマリーナフカに関連があるなど想像もしていないようでしたが」
「そうか……」
「薬屋はこの件について司祭様が怒るのも無理はないと言っていました。件(くだん)の薬草は確かに依存度が高く危険ですが、同時に麻酔薬としての効果は絶大です。国境警備を担う砦の負傷者は重傷の者も多い。司祭様は彼らの治療をより負担なく行うために仕入れていたのではないでしょうか。薬屋もそれをわかっているから隠れて仕入れていたのだと語っていました」
「……」
「また、定食屋の方は経営難を理由に孤児院への食べ物の支援を打ち切ろうとした矢先、マリーナフカの被害を受けたそうです。司祭様が頭を下げてまで頼み込んできたことを、一度引き受けておきながらアッサリと反故にしたのがいけなかった。これは天罰なのだと大将も息子さんも自分を責めていました」
「……わかった。報告ありがとう」
テオドールから報告を受けたイアンは小さくため息をこぼした。全てを知っているつもりでも、やはり知らないことは多いようだ。
だが、司祭に対する領民の評価を聞く限り、やはり彼が悪人だとはどうしても思えない。彼は常に人々のために努力し、人々のために生きている。
そもそも、年齢を考えるならこんな僻地の教会ではなく、本部で役職についていてもおかしくはない。出世を捨ててまでこの地に留まった彼の自己犠牲の精神は信じていいはずだ。イアンはそう思いたかった。
しかし、
「もう一つ、こちらもご覧ください」
テオドールはそう言って、とある記録を見せた。それは関所の門の向こう側にいる協力者の伝手で手に入れた、マリー・ドラフィールという女の銀行口座の入出金記録だった。
その記録によれば彼女は冬の間を除き、月に一度のペースでエレノア子爵領の銀行にお金を預けている。銀行員には両親への仕送りだと言っているそうだ。
もしこの女が本当に普通の女なら、テオドールも疑問など持たないだろう。出稼ぎに出た娘が両親へ仕送りするというのはよくある話だ。
つまり、テオドールがそのよくある話を敢えてするということは、そういうこと。
「この預けにくる女、シスター・マリンによく似ているそうです」
淡々と語るテオドール。イアンは眉を顰めた。
「彼女はシスターだぞ」
「はい、シスターですね」
シスターに決まった給金はない。彼女たちが持てるお金はせいぜい、司祭や信者からもらうお小遣い程度。それを貯めて仕送りしているとしても、額が多すぎる。
加えて、そもそも銀行口座は個人で作るなら身元がはっきりした貴族や商人しか作れない。
低い身分の者が口座を作るとなると、身元を保障してくれる人が必要となる。通常、仕送りなどで銀行口座が必要となる者には雇い主がその役割を担うのだが……。
「……マリー・ドラフィールの後見人は司祭様の弟君が会頭を務める商会のNo.2だそうです。この人物が実在するかどうかは確認が取れておりません」
イアンは項垂れた。繋がってしまった、と。
「状況はほぼ黒に近いグレーです。しかし今手元にある証拠では決定打に欠けますね」
「となると、やはり現行犯逮捕か……?」
「もしくは口を割らせるか、ですね」
「そんなこと可能か?難しいと思うが」
「リズ曰く、シスター・マリンは素直で心優しい普通の女性だそうです。司祭は難しくても彼女なら……。そうですよね、奥様?」
テオドールはニコッと微笑み、それまで黙っていたアイシャに尋ねた。
なぜ急にこちらに話をするのかと焦ったが、彼が自分に何をして欲しいのかを察せたアイシャは報告書を置き、ゆっくりと顔を上げた。
「シスター・マリンから情報を聞き出せばいいの?」
「はい。僕よりも奥様の方が適任かと思いますので」
「わかった。任せてくれてありがとう。頑張るわ」
「……」
アイシャはテオドールからの提案を受け入れた。自分にできる事なら何でもしたいのだ。
しかし当然ながら、イアンは険しい顔でテオドールを睨みつけた。テオドールはそんな彼に面倒臭そうに顔を歪めた。
「……現実問題として他に適任がいないことは旦那様もご存知かと?」
シスター・マリンに近づける人は少ない。
男であるテオドールやイアンは孤児たちの世話がメインの仕事であるマリンとほぼ関わりがない。
リズベットは性格上こういう仕事には向かない。ランに任せても良いが、しっかりしているように見えても彼女はまだ幼い。特殊な訓練を受けたわけでもない彼女には荷が重いだろう。そしてそれは他のメイドも同様だ。
アイシャは心配そうに見つめてくるイアンに大丈夫だと言って笑った。
「シスターは私に危害を加えるような人ではありません。リズにも同行してもらいますし、大丈夫です。心配しないで?」
「……リズが強いのも、シスターの人柄もわかってる。だが心配しないのは無理だ」
「どうしてですか?私は信頼できませんか?」
「そういう問題じゃないんだよ。俺は君がどんなに優秀だとしても安心できないし、多分ずっと心配する。だって俺はこの世界中のどんなものよりも君が大事だから。君を失えば俺はきっと正気を保っていられない」
イアンは真剣な眼差しで、しかしサラッと、とつもなく恥ずかしいことを言ってのけた。
まさかの破壊力のある言葉にアイシャは頬を染める。そんな彼女をイアンは不思議そうに首を傾げた。
無自覚とは恐ろしい。
「ん?」
「そ、そそそそれれはどうも、ありがとうございます………」
「どういたしまして?」
「旦那様はたまにサラッとそういうこと言いますよね」
「は?」
「最近は特に自制が効いてないのか色々と箍が外れ気味ですけど、その割には大事なことは何ひとつ言ってないし。ヘタレなんだか、そうじゃないんだか。よくわかりません」
「だから何が……、あ……」
自分の発言がいかに恥ずかしいものかにようやく気づいたイアンは顔を両手で覆った。だが覆えていない耳が真っ赤だ。
イアンは耐えきれず『妻を心配するのは当然だ』と開き直ってみるも、『まだ結婚してませんけどね』とテオドールに突っ込まれ、益々顔を赤らめた。
「結婚式、待ち遠しいですね?」
テオドールは揶揄うような口調でそんな言葉を残して、さっさと部屋を後にした。空気を読んだつもりなのだろう。
残された二人の間には何だか気まずい沈黙が流れる。
息苦しくて、もどかしくて、気恥ずかしい。
沈黙に耐えきれなくなったアイシャは、すうっと息を吸い込んだ。彼女の呼吸音が静かな部屋に響く。
「だ、男爵様って……、その……。わ、私のことをどう思っていらっしゃるのですか?」
時々、彼から感じる、親愛でもなく友愛でもない激しさを宿した視線。アイシャは不意に、その正体を確かめてみたくなったのだ。
多分、お互いがお互いにそれっぽい感情を抱いていると思うから。
「…………どうって」
思わぬ質問にイアンは戸惑いつつも、指の隙間からアイシャを覗き見た。
自分で聞いておいて恥ずかしいのか顔を真っ赤にして、手元をもじもじといじっている姿は愛らしい。
イアンは再び指を閉じ、くぐもった声で小さくつぶやいた。
「だ、大事に思っている」
アイシャが望んでいる答えはこれではないだろう。
わかっているのに逃げてしまった自分に、イアンは少し失望した。
何をどうあがいても春には結婚することが決まっているのだから、さっさとその甘く激しい感情をぶつけてしまえばいい。
わかっているはずなのに。
けれどまだ、彼はそれを口に出すのが怖い。
「…………私も、男爵様のことは大事に思っています。多分、他の何よりも一番に」
アイシャも同じように返した。付け足した一言は今の彼女の精一杯だ。
イアンは頭から湯気が出そうなほどに顔を赤くした彼女が可愛くて、彼女の勇気に少しだけ報いてみることにした。
「じゃあ、名前……」
「え……?」
「な、名前で呼んで」
覆っていた手を下ろし、イアンはジッとアイシャを見つめる。
どこか、イケナイ事を強請っているような甘い視線に今度はアイシャが顔を覆った。
「……」
「……アイシャ。お願い」
もう一度おねだりをしてみた。
先程の自分と同じように指の隙間からこちらを覗く彼女の群青の瞳が微かに潤んでいる。きっと恥ずかしさが限界なのだろう。
求められた言葉は言えないくせに、自分は強請るなんてずるかったかもしれないとイアンは思った。
だが、
「…………イ、イアン、様?」
アイシャはか細い声で名前を呼んだ。イアンは心臓が飛び出しそうなほどに大きく心臓が鳴るのを感じた。
たかが名前で、これほどの威力があるとは思わなかった。油断していた。
「こ、これからはそうお呼び、します……」
「あ、ああ。ありがとう……」
「……あ、あなたを特別に思うので」
「あの……!」
「じゃあ!わ、私はこれで!!」
とうとう耐えきれなくなったアイシャは慌てて部屋を飛び出した。
残されたイアンは机に突っ伏し、未だ言葉にできない気持ちを口を閉じたまま叫んだ。
早く大声で言えるようになりたい。
*
「やっぱりただのヘタレか」
部屋を出たフリをして廊下で聞き耳を立てていたテオドールはやれやれと肩をすくめた。
『彼は帝国で数年前に使用が禁止された薬草を欲しがっていた』と。
「薬草?」
「はい」
テオドールは薬屋の仕入れの記録をイアンの机の上に並べた。仕入れ記録の中には数カ所、赤で下線が引かれている。
「この薬草、鎮痛薬とか麻酔薬に使われる物か?確か依存度が高く危険だからと禁止されたような……?」
「ええ、そうです。薬屋の店主は司祭様に頼み込まれてこの薬草を安価で売っていたそうです。しかし違法薬物への取り締まりが強化された時期に、流石にこれ以上は危険だと、もう仕入れをやめたいと申し出たのです。すると司祭は激昂したそうです」
「もしやその数日後、マリーナフカが街に現れた……とか?」
「はい。まあ尤も、店主はそれとマリーナフカに関連があるなど想像もしていないようでしたが」
「そうか……」
「薬屋はこの件について司祭様が怒るのも無理はないと言っていました。件(くだん)の薬草は確かに依存度が高く危険ですが、同時に麻酔薬としての効果は絶大です。国境警備を担う砦の負傷者は重傷の者も多い。司祭様は彼らの治療をより負担なく行うために仕入れていたのではないでしょうか。薬屋もそれをわかっているから隠れて仕入れていたのだと語っていました」
「……」
「また、定食屋の方は経営難を理由に孤児院への食べ物の支援を打ち切ろうとした矢先、マリーナフカの被害を受けたそうです。司祭様が頭を下げてまで頼み込んできたことを、一度引き受けておきながらアッサリと反故にしたのがいけなかった。これは天罰なのだと大将も息子さんも自分を責めていました」
「……わかった。報告ありがとう」
テオドールから報告を受けたイアンは小さくため息をこぼした。全てを知っているつもりでも、やはり知らないことは多いようだ。
だが、司祭に対する領民の評価を聞く限り、やはり彼が悪人だとはどうしても思えない。彼は常に人々のために努力し、人々のために生きている。
そもそも、年齢を考えるならこんな僻地の教会ではなく、本部で役職についていてもおかしくはない。出世を捨ててまでこの地に留まった彼の自己犠牲の精神は信じていいはずだ。イアンはそう思いたかった。
しかし、
「もう一つ、こちらもご覧ください」
テオドールはそう言って、とある記録を見せた。それは関所の門の向こう側にいる協力者の伝手で手に入れた、マリー・ドラフィールという女の銀行口座の入出金記録だった。
その記録によれば彼女は冬の間を除き、月に一度のペースでエレノア子爵領の銀行にお金を預けている。銀行員には両親への仕送りだと言っているそうだ。
もしこの女が本当に普通の女なら、テオドールも疑問など持たないだろう。出稼ぎに出た娘が両親へ仕送りするというのはよくある話だ。
つまり、テオドールがそのよくある話を敢えてするということは、そういうこと。
「この預けにくる女、シスター・マリンによく似ているそうです」
淡々と語るテオドール。イアンは眉を顰めた。
「彼女はシスターだぞ」
「はい、シスターですね」
シスターに決まった給金はない。彼女たちが持てるお金はせいぜい、司祭や信者からもらうお小遣い程度。それを貯めて仕送りしているとしても、額が多すぎる。
加えて、そもそも銀行口座は個人で作るなら身元がはっきりした貴族や商人しか作れない。
低い身分の者が口座を作るとなると、身元を保障してくれる人が必要となる。通常、仕送りなどで銀行口座が必要となる者には雇い主がその役割を担うのだが……。
「……マリー・ドラフィールの後見人は司祭様の弟君が会頭を務める商会のNo.2だそうです。この人物が実在するかどうかは確認が取れておりません」
イアンは項垂れた。繋がってしまった、と。
「状況はほぼ黒に近いグレーです。しかし今手元にある証拠では決定打に欠けますね」
「となると、やはり現行犯逮捕か……?」
「もしくは口を割らせるか、ですね」
「そんなこと可能か?難しいと思うが」
「リズ曰く、シスター・マリンは素直で心優しい普通の女性だそうです。司祭は難しくても彼女なら……。そうですよね、奥様?」
テオドールはニコッと微笑み、それまで黙っていたアイシャに尋ねた。
なぜ急にこちらに話をするのかと焦ったが、彼が自分に何をして欲しいのかを察せたアイシャは報告書を置き、ゆっくりと顔を上げた。
「シスター・マリンから情報を聞き出せばいいの?」
「はい。僕よりも奥様の方が適任かと思いますので」
「わかった。任せてくれてありがとう。頑張るわ」
「……」
アイシャはテオドールからの提案を受け入れた。自分にできる事なら何でもしたいのだ。
しかし当然ながら、イアンは険しい顔でテオドールを睨みつけた。テオドールはそんな彼に面倒臭そうに顔を歪めた。
「……現実問題として他に適任がいないことは旦那様もご存知かと?」
シスター・マリンに近づける人は少ない。
男であるテオドールやイアンは孤児たちの世話がメインの仕事であるマリンとほぼ関わりがない。
リズベットは性格上こういう仕事には向かない。ランに任せても良いが、しっかりしているように見えても彼女はまだ幼い。特殊な訓練を受けたわけでもない彼女には荷が重いだろう。そしてそれは他のメイドも同様だ。
アイシャは心配そうに見つめてくるイアンに大丈夫だと言って笑った。
「シスターは私に危害を加えるような人ではありません。リズにも同行してもらいますし、大丈夫です。心配しないで?」
「……リズが強いのも、シスターの人柄もわかってる。だが心配しないのは無理だ」
「どうしてですか?私は信頼できませんか?」
「そういう問題じゃないんだよ。俺は君がどんなに優秀だとしても安心できないし、多分ずっと心配する。だって俺はこの世界中のどんなものよりも君が大事だから。君を失えば俺はきっと正気を保っていられない」
イアンは真剣な眼差しで、しかしサラッと、とつもなく恥ずかしいことを言ってのけた。
まさかの破壊力のある言葉にアイシャは頬を染める。そんな彼女をイアンは不思議そうに首を傾げた。
無自覚とは恐ろしい。
「ん?」
「そ、そそそそれれはどうも、ありがとうございます………」
「どういたしまして?」
「旦那様はたまにサラッとそういうこと言いますよね」
「は?」
「最近は特に自制が効いてないのか色々と箍が外れ気味ですけど、その割には大事なことは何ひとつ言ってないし。ヘタレなんだか、そうじゃないんだか。よくわかりません」
「だから何が……、あ……」
自分の発言がいかに恥ずかしいものかにようやく気づいたイアンは顔を両手で覆った。だが覆えていない耳が真っ赤だ。
イアンは耐えきれず『妻を心配するのは当然だ』と開き直ってみるも、『まだ結婚してませんけどね』とテオドールに突っ込まれ、益々顔を赤らめた。
「結婚式、待ち遠しいですね?」
テオドールは揶揄うような口調でそんな言葉を残して、さっさと部屋を後にした。空気を読んだつもりなのだろう。
残された二人の間には何だか気まずい沈黙が流れる。
息苦しくて、もどかしくて、気恥ずかしい。
沈黙に耐えきれなくなったアイシャは、すうっと息を吸い込んだ。彼女の呼吸音が静かな部屋に響く。
「だ、男爵様って……、その……。わ、私のことをどう思っていらっしゃるのですか?」
時々、彼から感じる、親愛でもなく友愛でもない激しさを宿した視線。アイシャは不意に、その正体を確かめてみたくなったのだ。
多分、お互いがお互いにそれっぽい感情を抱いていると思うから。
「…………どうって」
思わぬ質問にイアンは戸惑いつつも、指の隙間からアイシャを覗き見た。
自分で聞いておいて恥ずかしいのか顔を真っ赤にして、手元をもじもじといじっている姿は愛らしい。
イアンは再び指を閉じ、くぐもった声で小さくつぶやいた。
「だ、大事に思っている」
アイシャが望んでいる答えはこれではないだろう。
わかっているのに逃げてしまった自分に、イアンは少し失望した。
何をどうあがいても春には結婚することが決まっているのだから、さっさとその甘く激しい感情をぶつけてしまえばいい。
わかっているはずなのに。
けれどまだ、彼はそれを口に出すのが怖い。
「…………私も、男爵様のことは大事に思っています。多分、他の何よりも一番に」
アイシャも同じように返した。付け足した一言は今の彼女の精一杯だ。
イアンは頭から湯気が出そうなほどに顔を赤くした彼女が可愛くて、彼女の勇気に少しだけ報いてみることにした。
「じゃあ、名前……」
「え……?」
「な、名前で呼んで」
覆っていた手を下ろし、イアンはジッとアイシャを見つめる。
どこか、イケナイ事を強請っているような甘い視線に今度はアイシャが顔を覆った。
「……」
「……アイシャ。お願い」
もう一度おねだりをしてみた。
先程の自分と同じように指の隙間からこちらを覗く彼女の群青の瞳が微かに潤んでいる。きっと恥ずかしさが限界なのだろう。
求められた言葉は言えないくせに、自分は強請るなんてずるかったかもしれないとイアンは思った。
だが、
「…………イ、イアン、様?」
アイシャはか細い声で名前を呼んだ。イアンは心臓が飛び出しそうなほどに大きく心臓が鳴るのを感じた。
たかが名前で、これほどの威力があるとは思わなかった。油断していた。
「こ、これからはそうお呼び、します……」
「あ、ああ。ありがとう……」
「……あ、あなたを特別に思うので」
「あの……!」
「じゃあ!わ、私はこれで!!」
とうとう耐えきれなくなったアイシャは慌てて部屋を飛び出した。
残されたイアンは机に突っ伏し、未だ言葉にできない気持ちを口を閉じたまま叫んだ。
早く大声で言えるようになりたい。
*
「やっぱりただのヘタレか」
部屋を出たフリをして廊下で聞き耳を立てていたテオドールはやれやれと肩をすくめた。
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