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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精
17:テオドールの打算と誤算
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初めての視察から戻ったアイシャはそれから3日間、部屋から出てこなかった。
ニックが花を届けたり、ランが軽食や本を運ぶ姿は見られたがアイシャが部屋から顔を出すことはなく、教会でのことを聞いていない屋敷の使用人たちは何があったのかと心配していた。
リズベットもずっとアイシャの部屋の前で待機している。護衛だから仕方なくだなんて悪態をついているが、やはり心配しているのだろう。
そんな中、主人が不在の執務室でテオドールは窓の外のどんよりとした雲を眺めながらため息をこぼした。
「さて、どうしたものか……」
ショッキングな光景を目の当たりにしたのだ。アイシャが塞ぎ込むのも無理はない。
しかしここで挫折するようならリズベットの言う通り、イアンの妻は務まらないとも思う。
「……期待しすぎたかな?」
アイシャは傲慢でプライドの高い人が多い貴人には珍しく、寛大な人だ。使用人にも敬意を払い、平民上がりのイアンをあっさりと受け入れたり、粗相をしたリズベットを許したり……。
だからテオドールは勝手に、イアンの残酷な一面を見ても受け入れてもらえると思い込んでいた。
普通に考えれば、夫となる人のそういう一面を見て一歩引いてしまうのは当たり前のことなのに。
「旦那様も奥様を首都へ送る準備を始めてしまったし……。諦めが早すぎるだろ……。はあ……」
いっそのこと、いつものように面倒くさくウジウジしていてくれれば説得も慰めもできるのに、イアンははっきりとした口調で『首都にアイシャが住むのにふさわしい家を用意しろ』と言ってきた。
そこに寂しさや切なさはあるものの迷いは感じられず、望まれれば結婚さえも取りやめそうな勢いだった。
「結婚はしてもらわなきゃ困るんだよぉ!ヘタレ野郎めが!」
テオドールも最悪別居になることまでは考えたが、結婚自体を無しにすることは考えていない。アイシャとの結婚を無しにするのは皇帝の好意を無碍にすることにもなりかねない上に、貴重な中央とのパイプまで失うことになるからだ。
それにもし仮に他の令嬢があてがわれたとしても、ブランチェット家ほどの家ではないだろうし、何よりアイシャほどに穏やかで使用人にも優しい女性は来ないだろう。
アッシュフォードを良くするためにも、使用人の心の安全のためにもアイシャの存在はとても重要なのだ。
考えすぎて頭が回らなくなってきたテオドールはイアンのサインが必要な書類だけを彼の机に並べて、部屋を出ようと扉に手をかけた。
すると、彼がドアノブを掴むよりも先に勢いよく扉が開く。
「いっ!?」
顔面を強打したテオドールは額を抑えてその場にうずくまった…
「あ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない……」
「ですよね……。本当にすみません」
テオドールが顔を上げると数冊の本を抱えたランが申し訳なさそうにこちらを見下ろしていた。
リズベットの仕業かと思っていたがどうやら違ったらしい。反射的に怒鳴らなくて良かったと思った。
「ノックはちゃんとしましょうね……、ラン。どこかの無礼な女騎士と同じになりますよ」
「それは大変不愉快なので気をつけます……、と言いたいところですがノックはしましたし、テオ様からお返事をいただきました」
「まじか……」
考え事をしすぎて無意識に返事をしていたようだ。テオドールは、ならば自分が悪いから気にするなと言った。
「それで、どうしました?」
「あの、このお屋敷にある魔族関連の本は図書室にある分が全てですか?」
「そうですね。図書室にあるものが全てです」
「……思っていたよりも少ないですね」
「まあ、そもそも魔族を研究する物好きなんてほとんどいないので、必然的に魔族に関する書籍は少なくはなりますよね?」
「では、マリーナフカについてはどうやって知れば良いですか?」
「マリーナフカですか?そうですねぇ……。過去の被害の記録と、彼らの着ている羽織についての記録ならこの部屋にありますが……」
なぜそんなことを聞いてくるのだろうと、テオドールは首を傾げた。
よく見ると、ランが手に持っているものは『魔族の生態に関する考察』や『魔族との戦争の記録』といったタイトルの埃っぽい本だった。
それはどれも、イアンが爵位と一緒にアッシュフォードを押し付けられた時に皇室からプレゼントされたものだ。
魔族について詳しく知らなければこの地を治めることはできないから、などと言って押し付けられたは良いが、実際に魔族と戦ってきたイアンたちには今更な情報ばかりの内容だったので、その本たちは図書室で埃を被る羽目になっていた。
「……ラン、なぜそんな本を持っているのです?それは貴女のような若い女性が好んで読むものではありませんよ?結構グロテスクですし」
「私は読みません。というか難しすぎて読めません。これは奥様が読まれるのです」
「奥様が?」
「はい。奥様は今、この屋敷内に魔族関連のあるあらゆる書物を読まれています」
「……なぜ?」
「なぜって、知らなければ対策が立てられないからでは?」
「……!?」
キョトンとするランに対し、テオドールは目を見開いた。
「奥様は……、マリーナフカの自爆を見て塞ぎ込んでおられるのではないのですか?」
「塞ぎ込んではおられました」
アイシャは食事をまともに取れなくなり、夜もずっと悪夢にうなされているらしい。しかし、そこで安全な場所に帰ろうと考えるほどアイシャは諦めが良くない。
「まだ精神状態が安定している訳ではありませんが、奥様は前を向いていらっしゃいますよ」
見くびるな、とでも言いたげにランは口角を上げた。
か弱いお嬢様が魔族について知ったところで何かできるとも思えないが、アイシャがアッシュフォードから去る気はないことがわかり、テオドールは安堵のため息をこぼした。
ニックが花を届けたり、ランが軽食や本を運ぶ姿は見られたがアイシャが部屋から顔を出すことはなく、教会でのことを聞いていない屋敷の使用人たちは何があったのかと心配していた。
リズベットもずっとアイシャの部屋の前で待機している。護衛だから仕方なくだなんて悪態をついているが、やはり心配しているのだろう。
そんな中、主人が不在の執務室でテオドールは窓の外のどんよりとした雲を眺めながらため息をこぼした。
「さて、どうしたものか……」
ショッキングな光景を目の当たりにしたのだ。アイシャが塞ぎ込むのも無理はない。
しかしここで挫折するようならリズベットの言う通り、イアンの妻は務まらないとも思う。
「……期待しすぎたかな?」
アイシャは傲慢でプライドの高い人が多い貴人には珍しく、寛大な人だ。使用人にも敬意を払い、平民上がりのイアンをあっさりと受け入れたり、粗相をしたリズベットを許したり……。
だからテオドールは勝手に、イアンの残酷な一面を見ても受け入れてもらえると思い込んでいた。
普通に考えれば、夫となる人のそういう一面を見て一歩引いてしまうのは当たり前のことなのに。
「旦那様も奥様を首都へ送る準備を始めてしまったし……。諦めが早すぎるだろ……。はあ……」
いっそのこと、いつものように面倒くさくウジウジしていてくれれば説得も慰めもできるのに、イアンははっきりとした口調で『首都にアイシャが住むのにふさわしい家を用意しろ』と言ってきた。
そこに寂しさや切なさはあるものの迷いは感じられず、望まれれば結婚さえも取りやめそうな勢いだった。
「結婚はしてもらわなきゃ困るんだよぉ!ヘタレ野郎めが!」
テオドールも最悪別居になることまでは考えたが、結婚自体を無しにすることは考えていない。アイシャとの結婚を無しにするのは皇帝の好意を無碍にすることにもなりかねない上に、貴重な中央とのパイプまで失うことになるからだ。
それにもし仮に他の令嬢があてがわれたとしても、ブランチェット家ほどの家ではないだろうし、何よりアイシャほどに穏やかで使用人にも優しい女性は来ないだろう。
アッシュフォードを良くするためにも、使用人の心の安全のためにもアイシャの存在はとても重要なのだ。
考えすぎて頭が回らなくなってきたテオドールはイアンのサインが必要な書類だけを彼の机に並べて、部屋を出ようと扉に手をかけた。
すると、彼がドアノブを掴むよりも先に勢いよく扉が開く。
「いっ!?」
顔面を強打したテオドールは額を抑えてその場にうずくまった…
「あ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない……」
「ですよね……。本当にすみません」
テオドールが顔を上げると数冊の本を抱えたランが申し訳なさそうにこちらを見下ろしていた。
リズベットの仕業かと思っていたがどうやら違ったらしい。反射的に怒鳴らなくて良かったと思った。
「ノックはちゃんとしましょうね……、ラン。どこかの無礼な女騎士と同じになりますよ」
「それは大変不愉快なので気をつけます……、と言いたいところですがノックはしましたし、テオ様からお返事をいただきました」
「まじか……」
考え事をしすぎて無意識に返事をしていたようだ。テオドールは、ならば自分が悪いから気にするなと言った。
「それで、どうしました?」
「あの、このお屋敷にある魔族関連の本は図書室にある分が全てですか?」
「そうですね。図書室にあるものが全てです」
「……思っていたよりも少ないですね」
「まあ、そもそも魔族を研究する物好きなんてほとんどいないので、必然的に魔族に関する書籍は少なくはなりますよね?」
「では、マリーナフカについてはどうやって知れば良いですか?」
「マリーナフカですか?そうですねぇ……。過去の被害の記録と、彼らの着ている羽織についての記録ならこの部屋にありますが……」
なぜそんなことを聞いてくるのだろうと、テオドールは首を傾げた。
よく見ると、ランが手に持っているものは『魔族の生態に関する考察』や『魔族との戦争の記録』といったタイトルの埃っぽい本だった。
それはどれも、イアンが爵位と一緒にアッシュフォードを押し付けられた時に皇室からプレゼントされたものだ。
魔族について詳しく知らなければこの地を治めることはできないから、などと言って押し付けられたは良いが、実際に魔族と戦ってきたイアンたちには今更な情報ばかりの内容だったので、その本たちは図書室で埃を被る羽目になっていた。
「……ラン、なぜそんな本を持っているのです?それは貴女のような若い女性が好んで読むものではありませんよ?結構グロテスクですし」
「私は読みません。というか難しすぎて読めません。これは奥様が読まれるのです」
「奥様が?」
「はい。奥様は今、この屋敷内に魔族関連のあるあらゆる書物を読まれています」
「……なぜ?」
「なぜって、知らなければ対策が立てられないからでは?」
「……!?」
キョトンとするランに対し、テオドールは目を見開いた。
「奥様は……、マリーナフカの自爆を見て塞ぎ込んでおられるのではないのですか?」
「塞ぎ込んではおられました」
アイシャは食事をまともに取れなくなり、夜もずっと悪夢にうなされているらしい。しかし、そこで安全な場所に帰ろうと考えるほどアイシャは諦めが良くない。
「まだ精神状態が安定している訳ではありませんが、奥様は前を向いていらっしゃいますよ」
見くびるな、とでも言いたげにランは口角を上げた。
か弱いお嬢様が魔族について知ったところで何かできるとも思えないが、アイシャがアッシュフォードから去る気はないことがわかり、テオドールは安堵のため息をこぼした。
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