【完結】アッシュフォード男爵夫人-愛されなかった令嬢は妹の代わりに辺境へ嫁ぐ-

七瀬菜々

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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精

10:初めての視察

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 最北端の地、アッシュフォードの一番端にある砦は通称アビスの扉と呼ばれている。
 砦より向こうにある世界が地獄だからか、それとも地獄が砦の向こうからやってくるからなのか、その由来はわからないが、いずれにせよ不吉な名であることに変わりはない。事前にリズベットから説明を受けていたアイシャは、馬車の窓から少し遠くに見える砦を眺めて悲痛に顔を歪ませた。

「ここが、かつて戦の最前線だったところ……」

 戦争がどれほど悲惨なものだったのかが遠目で見てもわかるくらいには傷跡が残っている。
 アイシャはギュッとスカートを握った。自分は本当に何も知らなかったのだと思うと情けなくて、恥ずかしいのだ。
 何故なら戦争が始まったときのアイシャは、デビュタントのドレスを両親に選んでもらえないことが悲しくて、当てつけのように高価なドレスを作っていたから……。
 デザイナーと打ち合わせして、平凡な容姿に似合わない派手なドレスをオーダーした。戦時中であることを知りながら、それを理解しようとはしていなかった証拠だ。なんて貴族らしいのだろう。

(……あの時。叔父様も叔母様もこんなに大変だった中で、私のデビュタントを気遣って下さってたのね。知らなかったわ)

 今更あの時の叔父夫婦の気遣いが心に染みると同時に、少し痛い。彼らは気遣ってくれたのに、自分は彼らを気遣わなかった。そもそも普通に考えれば、戦時中にパーティーなど開いているなんてこと自体がおかしいのに、そのことにさえ気づかなかった。
 無意識に、戦争はどこか遠くの世界の話で、自分には関係がないと思っていたのかもしれない。

「私は、本当にダメね」

 アイシャは眉尻を下げて、本心を誤魔化すように笑った。
 向かいに座っていたランは彼女の手に自分の手を重ねると、優しく声をかける。

「奥様が今何をお考えなのか、私にはわかりませんが、一つだけ言えることがあります」
「……何?」
「過去の行いを後悔したところで何も変わりません。過ぎ去ってしまった時間を巻き戻すことはできませんから。ならば、どうにもならないことを後悔するよりこれから先の人生、後悔しないためにどうするかを考えたほうが良いと思います!」
「……正論ね。ありがとう、ラン」

   ランの言う通りだ。過去を後悔したところで何も変わらない。この地が受けた傷に触れて感傷に浸るより、今車窓から見える自然豊かな、けれど何もない寂しいこの景色をもっと理想的な活気ある景色に変えるためには何ができるのか、それをを考えたほうがずっと生産的だ。
 アイシャはグッと顔を上げ、背筋を正した。
 
 *

 砦がだいぶ近くに見えるようになるまで舗装されていない淡々と道を走った馬車は、ようやく教会の前で止まった。
 馬車の扉が開くと横からスッと無骨な手が差し出される。イアンの手だ。アイシャは自然な流れで彼の手にそっと自分の手を添えた。
 てっきり拒否されると思っていたイアンは一瞬目を丸くしたものの、その後すぐに安堵したような笑みを浮かべた。
 
「……どうしてそんな顔をなさるのですか」
「ごめん、つい……」
「一緒に行くなら、同じ馬車で行けばよかったのに」
「でもほら、俺と同じ空気を吸うのが嫌なんじゃないかと思って……」
「別に嫌だなんて思いませんわ。私たちは夫婦になるのですから、どんなことがあっても同じ空気も吸いたくないなどと言ったりしません」
「アイシャ……」

 アイシャはそっぽを向きながらも、素直にイアンのエスコートに応じた。自分の腕に絡まった彼女の細い腕が嬉しくて、イアンは頬を緩ませた。

「ようこそおいでくださいました、領主様。そして初めまして、奥様」
「ああ、急に悪いな」
「ご機嫌よう、司祭様。突然の訪問を受け入れてくださり感謝いたしますわ」
「とんでもございません。奥様がいらっしゃる日を心待ちにしておりました」

 そう言って教会の蔦の張った門の先で出迎えてくれたのは、清潔感ある黒いカソックに身を包んだ人の良さそうな年老いた司祭だった。おしゃれな金の装飾がついた杖をつき、足を引きずっているところを見る限り、足が悪いのだろう。
 こんな年老いた司祭をアッシュフォードのような辺境に配置するなど、教会も酷なことをするものだとアイシャは思った。

「では、さっそくご案内いたします。どうぞこちらへ」
「ありがとう、お願いしますね」

 司祭は挨拶もそこそこに、教会の中へ二人を招き入れた。
 教会の内部は礼拝堂や祈祷室の他に治療院としての施設も併設されており、二人は入院する兵士を見舞ったあと、司祭の案内で治療院の内部を見て回ることとなった。

「なるほど……」

 アイシャは中を見て回りながら、隅々まで確認した。
 治療院の中は必要最低限の設備こそ整っているが、医療設備はどれも古い型のものばかりだ。
 幸いにも建物自体はきちんと修繕されているらしく真新しいが、箱だけ立派になっても仕方がない。
 アイシャは修繕すべき点などについてメモをとりながら、司祭の話に耳を傾けた。
 司祭はそんな彼女の姿が微笑ましく思えたのか、とても穏やかな笑みを浮かべて話しかける。
 
「奥様はとても勉強熱心でいらっしゃるようだ」
「私は何も知りませんから、たくさん勉強しないといけないと思って。メモ、ご不快だったかしら?」
「いいえ。奥様のような方が来てくださってとても嬉しく思います。良かったですね、領主様?」
「そうだな。とても良かったと思っている。本当に」

 話を振られたイアンは大きく頷いた。すると司祭は嬉しそうにイアンの肩をバシバシと叩いた。

(良かったと言う割には信頼されていないようだけどね)

 二人のやり取りに不満があるアイシャは頬を膨らませた。

「ん?どうした?」
「いいえ?別に?」
「そ、そうか……」
「しかし、司祭様。何故ここに教会を置いていらっしゃるの?一般的に治療院を併設している教会は街の中心部に置かれるものでは?」
「ここは元々ただの教会だったのですが、戦時中は負傷者の治療をするために開放しておりました。ですからその名残で今もここにあります。それに、アッシュフォードでは街よりも砦近くの方が怪我や病気が多いですから」
「なるほど。では、街の領民は皆ここまでわざわざ足を運ぶのですか?アッシュフォードの治療院はここだけですよね?」
「いや、ただの風邪や擦り傷程度なら街の薬屋、重病人は男爵家お抱えの医者が診ることになっている。この教会は砦のために存在しているみたいなものなんだ」
「そうだったのですか。
「……うっ」

 棘のある言い方にイアンは何も言い返せない。いずれ言おうと思っていたなどという言い訳はもう通用しないからだ。イアンは小さく息を吐くと司祭を下がらせ、アイシャに頭を下げた。

「アイシャ……、ごめん」
「何がですか?」
「お、俺が間違ってた。君は優しいから、君に傷ついてほしくなくて……、いや違うな。認めるよ。俺は君がアッシュフォードの嫌な部分を見たら結婚をやめようと言い出すんじゃないかと思って、怖かったんだ」
「そんなこと……っ!」

 そんなこと、あるわけないのに。本当にそうなると思っているように怯えるイアン。アイシャは彼の頬に手を添えると悲しげに微笑んだ。

「男爵様……。私、そんなに信用ないですか?」
「信用していないとかじゃないんだ。俺が臆病なだけ。ずるい男でごめんな。これからは君にもちゃんと情報を共有するよ」
「私も、嫌な態度とってごめんなさい。でも私は何があってもここに残ります。……だから、信じてほしいです」
「うん。信じるよ。ごめん」

 イアンはアイシャの手に自分の手を重ねると軽く頬ずりした。
 この男は熊のような体格をしている割に、やることは意外と小動物のように可愛いらしい。アイシャはそのギャップにクスッと笑う。
 
「……ありがとう。アイシャ」
「ふふっ。何のお礼ですか?」
「今ここに存在してくれていることに対するお礼」
「何それ。変なの」
「変なのはいつものことだろ。テオにもよく言われる」
「テオも苦労しますね」
「あいつは苦労しておけば良いんだよ、無礼だから。……それよりどうする?施設の説明は先程司祭が話してくれた内容が全てだと思うけど」
「え?全てですか?さっき祈祷室の前を通る時にお庭が見えたのですが、その奥に小さなお家があったように思うのですが……」
「ああ、それは教会が預かっている戦争孤児たちの家だよ」
「孤児院ということですか?」
「そんな大層なものじゃないけど、似たようなものかな。ここは環境が良いとは言えないからほとんどの孤児はエレノア子爵のところで引き取ってもらったんだけど、いろんな事情でここを離れられない子が住んでるんだ」
「そうだったのですね」
「今は4人の子どもが住んでる。気になる?」
「まあ、気にならないと言えば嘘になります」
「覗いてみるか?」
「良いのですか?あ、でも物資の仕分けが……」
「それは俺が手伝ってくるから大丈夫だよ。今の君はアッシュフォードを知るのが仕事だろう?」
「すみません、ありがとうございます……」
「ただ、一つだけ。あそこに行くなら覚悟はしておいて」
「覚悟?」
「心と体に大きな傷を負っているから……」
「わかりました。接し方には気をつけます」
「ではシスターを呼んでくるから礼拝堂で待っていてくれ。孤児院へはリズに付き添ってもらうといい。リズは彼らの信頼を得てる」
「わかりました。」
「そのあとは、マリーナフカの棺に案内するよ。教会のすぐ近くにあるんだ」
「マリーナフカの棺?」
「うん。アイシャもちゃんと知っておいた方がいいことだから、リズからじゃなく、俺から話すよ」
「はい。ありがとうございます……」

 マリーナフカのとはまた物騒な単語だ。アイシャはそれがどんなものなのか想像できず、首を傾げた。
 イアンは少し不安そうな顔をしつつも、アイシャをリズが待機する礼拝堂まで送った。


 

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