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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精
8:知りたい(4)
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「……それで?ネズミさんは何の用?」
テオドールが退室してしばらく沈黙が続いた後、リズベットは天井を見上げたまま徐にそう呟いた。彼女の言葉に反応したかのように、誰かの唾を呑む音と衣擦れの音が聞こえた。
夜の静けさと、音が反響する地下の作りのせいで小さな音までよく響く。
「見張りは買収したんでしょ?ならばここはもう、朝まで誰も来ないわ。だから顔を出しなさいな」
ネズミがなかなか姿を見せないことに苛立ったのか、リズベットが少し語気を強めて続けると、階段下の物置スペースに隠れていた血統書付きのネズミがゆっくりと顔を出した。
錫色の髪をおさげに結った彼女は気まずそうに笑いながら、リズベットに近づく。
「こ、こんばんは、リズベットさん」
「こんばんは、お嬢様」
あいかわらず寝転んだまま、太々しい態度で挨拶を返すリズベットに血統書付きのネズミ……、アイシャは苦笑した。
領主夫人の前とは思えぬ態度だ。
怒れない主人の代わりにお供のランがシャーッと猫のようにリズベットを威嚇した。
しかし、その程度の威嚇などリズベットには効かない。彼女はランを嘲笑うようにフンッと鼻で笑う。
リズベットのそのなめ切った態度はランをさらに苛立たせたが、アイシャは鉄格子に飛びかかりそうなくらいに怒れる彼女を宥めた。
「あの、リズベットさん……」
アイシャはジッとリズベットを見据える。
リズベットから見えたアイシャの群青の瞳には少しだけ迷いが見えた。
何に躊躇しているのかは知らないが、どうせ自分に害をなすかもしれない女が目の前にいることが怖いだけだろう。
やはり弱いやつだと、リズベットはまたも小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「あたしに文句でも言いに来たの?」
「いいえ?」
「じゃあ謝罪の要求?」
「それも違います」
「じゃあ何をしに来たのよ」
「……あ、貴女に話を聞きに来ました!アッシュフォードについて教えて欲しいんです!」
「……は?」
真剣な目で、意を決したようにアッシュフォードの本当の姿を知りたいというアイシャ。リズベットは予想外の言葉に唖然とした。
「何を知りたいって?」
「アッシュフォードのことです。お恥ずかしい話なのですが、私はまだこの地についてよく知りません。魔族のことも、貴女の言うマリーナフカが何なのかも知りません。ここの人たちがどんな風に冬の越すのかも、私は何も知らない。ですから、それを教えて欲しいのです」
「は?何それ。本気で言ってんの?」
「は、はい!本気です!」
「はあ、流石に呆れるわ」
「それは……、ごめんなさい……」
「別に謝る必要はないわ。外の人は知らなくて当然なのだから。呆れたと言ったのはイアンのことよ。本当に全く何も話していないのね」
「えっと……、その、何も聞いていないので教えて欲しいと頼んではみたのですが……」
「どうせ、はぐらかされたんでしょ?」
「ごめんなさい」
「だから謝るなってば」
「はい……」
ぶっきらぼうながらも、リズベットはアイシャの無知を責めてはいない。もっと罵声を浴びせられる覚悟で来たアイシャはどこか拍子抜けだった。
何だかよくわからない人だ。
「まあでも?まだ何も知らないなら、いっそのこと何も知らないまま、黙って帰る方があんたにとっては幸せだと思うけど。不幸になりたくないのなら今すぐに門の外に帰りなさい」
リズベットはようやく体を起こすと、簡易ベッドの端に座り、足を組みながらアイシャを追い払うように手をヒラヒラとさせた。
アイシャはそんなリズベットに対し、首を横に振って『帰りません』と告げる。
「門の外に私の幸せはありません。私の幸せはここにあります。それに、私はアッシュフォードのために努力すると決めてここに来ました。何を言われても帰りません」
「……その決意は素晴らしいと思うけど、そう言えるのも今だけよ」
「そんなことありません」
「そんなことあるの」
「ありません!絶対に、です!」
「あるのよ!いい?この地はあんたが思う以上に貧しいし、何にもないし、何よりあんたにとっては見たくない事も起こり得るの。とっても血生臭いことだって起こるの!それを生粋のお嬢様であるあんたが直視できるの?」
「できます!私はきちんと自分の目でこの地の現実を知り、向き合って行こうと思っています!」
「はあ……。本当にそうかしら。動物の血を見るだけでも卒倒しそうな顔をしているのに?」
「そ、それは……」
心当たりのあるアイシャは顔を伏せた。リズベットはその素直な反応を鼻で笑う。
「……正直に言うとね、ずっと屋敷に引きこもって生活するなら問題はないと思う。屋敷には騎士が大勢いるし、守ってくれる。それに、あんた一人分くらいの贅沢ならそこまで大きな負担にはならないだろうしね。でも、あんたはそんなことしたいんじゃないんでしょ?領主夫人としてちゃんと仕事したいんでしょ?」
「……はい」
「だったらやっぱり、この地は箱入りのお嬢様には難易度が高すぎると思う。普通じゃないのよ。あんた人の死ぬところとか見たことある?」
「ありません……」
「アッシュフォードはね、冬になると戦争一色になるの。女は治療院の手伝いや砦の兵の世話で忙しくなるし、男は前線に出て戦うようになる。みんな、魔族と戦うために身を削るの。アッシュフォードのために何かしたいと言うなら、あんたも同じように身を削って働くってこと?」
「それが必要ならそうします。けれど他に私にしかできないことがあるのなら、それを探ります」
「砦に行くなら死体を見る覚悟は必須だし、回収に行くと二次被害が出るからと、仲間の遺体が弄ばれるのを黙って見てなきゃいけないことだってあるかもしれない」
「わ、わかってます」
「わかってない。今のところ、魔族は砦で止められているけれど、いつ突破されてもおかしくない。相変わらず修復は間に合ってないし、追いつかないまままた次の冬を迎えるからね。みんな命の危険を感じながら、それでも義務感と正義感だけでアッシュフォードを守ってる。国は助けてはくれないからね。失うものはあれど得られるものは何もない。そんな状態では精神的にも肉体的にも疲労が重なれば人は人に優しくできなくなる。憎いのは魔族だけど、みんな言葉の通じない壁の向こうの奴らに直接憎しみをぶつけたりなんてできない。そうなるとその矛先があんたに向くことだってあるでしょう。あんたは領主夫人だから」
それも、イアンとは違い、都会から来た生粋の貴族。自分たちの苦労を知らず、戦争時に首都でパーティを開いて優雅に暮らしていた奴らと同じ貴族だ。
「普段はみんないい人よ。優しい人たち。でも冬になると余裕がなくなるから、あんたに優しくすることもできないと思う。私たちは冬の間の仲間がそういう状態になるのは慣れてるし、あしらい方もわかってる。でもあんたはそうじゃないでしょう?街に出るなら父を亡くした子どもの絶望とか、息子を亡くした母の叫びとか、食べ物が足りなくてお腹を空かせた人たちからの罵声とかを全部、受け止めないといけない。ここにあるのは、単に人が死ぬというだけではない地獄よ」
リズベットはそう淡々と話した。
アイシャはきっと想像できないだろう。命の危険を感じたことも、身内を亡くしたこともない。いつも暖かい部屋で温かい食事を取り、清潔な衣服を身につけて清潔な部屋で生きてきたのだから。
言葉で説明されただけでも怯えたように俯いてしまうお嬢様が、実際にそんな現実を目の当たりにすれば、きっと平気ではいられない。
「あんたが善人なのはなんとなく分かるよ。多分、貴族には珍しいタイプなんだろうね。でもだからこそ、やっぱり認められない」
平民の、それも貴族に対して無礼を働いた小娘に鞭を打つでもなく、責め立てるでもなく、教えを乞いに来るアイシャはきっとテオが言うように根っからの善人なのだろう。
他の貴族みたいに遊んで暮らしたいなんて願望もなく、ただ領地のために頑張りたいと願う彼女は人として素晴らしい。
けれど、ならば余計にアイシャはアッシュフォードには相応しくないとリズベットは思う。善人だからこそ、傷つく前に自分から帰って欲しい。
しかしリズベットの思いが届くことはなく、アイシャは大きく深呼吸すると自身の頬を両手で叩き、顔を上げてじっと彼女を見つめた。
パンッという音が地下に響く。アイシャの頬が少し赤くなっていることに、お付きのランは眩暈がした。対するリズベットは彼女のまさかの行動に目を丸くした。
「な、何よ……」
「……確かに私はまだ未熟で英雄の妻としても、このアッシュフォードを治める者としてもふさわしくないかもしれません。ですが、アッシュフォードをより良い土地にしたいとは思っているのは本当ですし、そのために出来ることはなんでもしたいです。もちろん、受け入れ難い事実を知ることもあるかもしれません。心が傷つけられることがあるかもしれません。ですがそれを理由にアッシュフォードに背を向けたりはしません。全部受け止めます。だから、お願いします。私にアッシュフォードの全てを教えてください!」
アイシャは深々と頭を下げた。平民に頭を下げる貴族など、リズベットは見たことがない。
「……なんでそんなに意志が固いのよ」
「私にはもう、ここしかないから。頑張りたいの。リズベットさんが私を信じられないのはわかります。今はまだ、頑張るしか言えないけど、でも……っ!」
「はあああああ……」
リズベットは大きなため息でアイシャの言葉を遮ると両手で顔を覆った。本当に、健気なことだ。
「リズ」
「……え?」
「リズって呼んで」
指の隙間から、ちらりとアイシャの方を見たリズベットは、目を丸くする彼女に舌打ちをする。そして立ち上がり、柵の前に立った。
二人にはそこそこの身長差がある。リズベットは小柄なアイシャを見下ろすと柵から手を出して彼女の頭を撫でた。少し乱暴に撫でられたせいか、髪が乱れる。
アイシャは乱れた髪を直しつつ、リズベットを見上げた。
「あたしを護衛にして。そうしたら全部教えてあげる。イアンが見せたがらないアッシュフォードを全部」
ぶっきらぼうに放たれた彼女の言葉にアイシャの頬がゆっくりと緩んだ。そして花が開くような笑顔を見せた。
不覚にもその笑顔が可愛いと思ってしまったリズベットは、形容し難い顔をした。
「ありがとうございます! リズ!」
「はいはい」
アイシャは柵越しに手を差し出した。リズベットはその手を握り返す。契約成立だ。
ランは何故かその様子を見て、頬を膨らませた。
「……むう」
「ん?ラン、どうしたの?」
「……何でもないです!私は牢の鍵をもらってきますね!」
「あ、ありがとう」
それまで終始威嚇するようにリズベットを睨んでいたランは、不服そうな顔をしながらもアイシャの決断を尊重し、テオドールに鍵をもらうため階段に向かった。
しかし、1段2段と階段を上がり、ふと立ち止まると、背を向けたままリズベットに一言残した。
「……護衛になるなら態度はあらためてくださいよ、マイヤー卿」
可愛らしい風貌に似合わない低い声色で放たれた一言に、リズベットはフッと笑う。
「考えておくわ、メイドさん」
「……ランです! なんか、もう!なんか腹立つ!」
ランは大きな舌打ちをして、バタバタと足音を立てながら地下を出た。
「可愛らしい子ね」
「でしょう?」
「……」
「……リズ」
「何?」
「これからよろしくね?」
「……よろしく」
「私、頑張るから」
「……はいはい」
アイシャはふんっと鼻を鳴らし、自分を鼓舞するように大きく頷いた。
テオドールが退室してしばらく沈黙が続いた後、リズベットは天井を見上げたまま徐にそう呟いた。彼女の言葉に反応したかのように、誰かの唾を呑む音と衣擦れの音が聞こえた。
夜の静けさと、音が反響する地下の作りのせいで小さな音までよく響く。
「見張りは買収したんでしょ?ならばここはもう、朝まで誰も来ないわ。だから顔を出しなさいな」
ネズミがなかなか姿を見せないことに苛立ったのか、リズベットが少し語気を強めて続けると、階段下の物置スペースに隠れていた血統書付きのネズミがゆっくりと顔を出した。
錫色の髪をおさげに結った彼女は気まずそうに笑いながら、リズベットに近づく。
「こ、こんばんは、リズベットさん」
「こんばんは、お嬢様」
あいかわらず寝転んだまま、太々しい態度で挨拶を返すリズベットに血統書付きのネズミ……、アイシャは苦笑した。
領主夫人の前とは思えぬ態度だ。
怒れない主人の代わりにお供のランがシャーッと猫のようにリズベットを威嚇した。
しかし、その程度の威嚇などリズベットには効かない。彼女はランを嘲笑うようにフンッと鼻で笑う。
リズベットのそのなめ切った態度はランをさらに苛立たせたが、アイシャは鉄格子に飛びかかりそうなくらいに怒れる彼女を宥めた。
「あの、リズベットさん……」
アイシャはジッとリズベットを見据える。
リズベットから見えたアイシャの群青の瞳には少しだけ迷いが見えた。
何に躊躇しているのかは知らないが、どうせ自分に害をなすかもしれない女が目の前にいることが怖いだけだろう。
やはり弱いやつだと、リズベットはまたも小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「あたしに文句でも言いに来たの?」
「いいえ?」
「じゃあ謝罪の要求?」
「それも違います」
「じゃあ何をしに来たのよ」
「……あ、貴女に話を聞きに来ました!アッシュフォードについて教えて欲しいんです!」
「……は?」
真剣な目で、意を決したようにアッシュフォードの本当の姿を知りたいというアイシャ。リズベットは予想外の言葉に唖然とした。
「何を知りたいって?」
「アッシュフォードのことです。お恥ずかしい話なのですが、私はまだこの地についてよく知りません。魔族のことも、貴女の言うマリーナフカが何なのかも知りません。ここの人たちがどんな風に冬の越すのかも、私は何も知らない。ですから、それを教えて欲しいのです」
「は?何それ。本気で言ってんの?」
「は、はい!本気です!」
「はあ、流石に呆れるわ」
「それは……、ごめんなさい……」
「別に謝る必要はないわ。外の人は知らなくて当然なのだから。呆れたと言ったのはイアンのことよ。本当に全く何も話していないのね」
「えっと……、その、何も聞いていないので教えて欲しいと頼んではみたのですが……」
「どうせ、はぐらかされたんでしょ?」
「ごめんなさい」
「だから謝るなってば」
「はい……」
ぶっきらぼうながらも、リズベットはアイシャの無知を責めてはいない。もっと罵声を浴びせられる覚悟で来たアイシャはどこか拍子抜けだった。
何だかよくわからない人だ。
「まあでも?まだ何も知らないなら、いっそのこと何も知らないまま、黙って帰る方があんたにとっては幸せだと思うけど。不幸になりたくないのなら今すぐに門の外に帰りなさい」
リズベットはようやく体を起こすと、簡易ベッドの端に座り、足を組みながらアイシャを追い払うように手をヒラヒラとさせた。
アイシャはそんなリズベットに対し、首を横に振って『帰りません』と告げる。
「門の外に私の幸せはありません。私の幸せはここにあります。それに、私はアッシュフォードのために努力すると決めてここに来ました。何を言われても帰りません」
「……その決意は素晴らしいと思うけど、そう言えるのも今だけよ」
「そんなことありません」
「そんなことあるの」
「ありません!絶対に、です!」
「あるのよ!いい?この地はあんたが思う以上に貧しいし、何にもないし、何よりあんたにとっては見たくない事も起こり得るの。とっても血生臭いことだって起こるの!それを生粋のお嬢様であるあんたが直視できるの?」
「できます!私はきちんと自分の目でこの地の現実を知り、向き合って行こうと思っています!」
「はあ……。本当にそうかしら。動物の血を見るだけでも卒倒しそうな顔をしているのに?」
「そ、それは……」
心当たりのあるアイシャは顔を伏せた。リズベットはその素直な反応を鼻で笑う。
「……正直に言うとね、ずっと屋敷に引きこもって生活するなら問題はないと思う。屋敷には騎士が大勢いるし、守ってくれる。それに、あんた一人分くらいの贅沢ならそこまで大きな負担にはならないだろうしね。でも、あんたはそんなことしたいんじゃないんでしょ?領主夫人としてちゃんと仕事したいんでしょ?」
「……はい」
「だったらやっぱり、この地は箱入りのお嬢様には難易度が高すぎると思う。普通じゃないのよ。あんた人の死ぬところとか見たことある?」
「ありません……」
「アッシュフォードはね、冬になると戦争一色になるの。女は治療院の手伝いや砦の兵の世話で忙しくなるし、男は前線に出て戦うようになる。みんな、魔族と戦うために身を削るの。アッシュフォードのために何かしたいと言うなら、あんたも同じように身を削って働くってこと?」
「それが必要ならそうします。けれど他に私にしかできないことがあるのなら、それを探ります」
「砦に行くなら死体を見る覚悟は必須だし、回収に行くと二次被害が出るからと、仲間の遺体が弄ばれるのを黙って見てなきゃいけないことだってあるかもしれない」
「わ、わかってます」
「わかってない。今のところ、魔族は砦で止められているけれど、いつ突破されてもおかしくない。相変わらず修復は間に合ってないし、追いつかないまままた次の冬を迎えるからね。みんな命の危険を感じながら、それでも義務感と正義感だけでアッシュフォードを守ってる。国は助けてはくれないからね。失うものはあれど得られるものは何もない。そんな状態では精神的にも肉体的にも疲労が重なれば人は人に優しくできなくなる。憎いのは魔族だけど、みんな言葉の通じない壁の向こうの奴らに直接憎しみをぶつけたりなんてできない。そうなるとその矛先があんたに向くことだってあるでしょう。あんたは領主夫人だから」
それも、イアンとは違い、都会から来た生粋の貴族。自分たちの苦労を知らず、戦争時に首都でパーティを開いて優雅に暮らしていた奴らと同じ貴族だ。
「普段はみんないい人よ。優しい人たち。でも冬になると余裕がなくなるから、あんたに優しくすることもできないと思う。私たちは冬の間の仲間がそういう状態になるのは慣れてるし、あしらい方もわかってる。でもあんたはそうじゃないでしょう?街に出るなら父を亡くした子どもの絶望とか、息子を亡くした母の叫びとか、食べ物が足りなくてお腹を空かせた人たちからの罵声とかを全部、受け止めないといけない。ここにあるのは、単に人が死ぬというだけではない地獄よ」
リズベットはそう淡々と話した。
アイシャはきっと想像できないだろう。命の危険を感じたことも、身内を亡くしたこともない。いつも暖かい部屋で温かい食事を取り、清潔な衣服を身につけて清潔な部屋で生きてきたのだから。
言葉で説明されただけでも怯えたように俯いてしまうお嬢様が、実際にそんな現実を目の当たりにすれば、きっと平気ではいられない。
「あんたが善人なのはなんとなく分かるよ。多分、貴族には珍しいタイプなんだろうね。でもだからこそ、やっぱり認められない」
平民の、それも貴族に対して無礼を働いた小娘に鞭を打つでもなく、責め立てるでもなく、教えを乞いに来るアイシャはきっとテオが言うように根っからの善人なのだろう。
他の貴族みたいに遊んで暮らしたいなんて願望もなく、ただ領地のために頑張りたいと願う彼女は人として素晴らしい。
けれど、ならば余計にアイシャはアッシュフォードには相応しくないとリズベットは思う。善人だからこそ、傷つく前に自分から帰って欲しい。
しかしリズベットの思いが届くことはなく、アイシャは大きく深呼吸すると自身の頬を両手で叩き、顔を上げてじっと彼女を見つめた。
パンッという音が地下に響く。アイシャの頬が少し赤くなっていることに、お付きのランは眩暈がした。対するリズベットは彼女のまさかの行動に目を丸くした。
「な、何よ……」
「……確かに私はまだ未熟で英雄の妻としても、このアッシュフォードを治める者としてもふさわしくないかもしれません。ですが、アッシュフォードをより良い土地にしたいとは思っているのは本当ですし、そのために出来ることはなんでもしたいです。もちろん、受け入れ難い事実を知ることもあるかもしれません。心が傷つけられることがあるかもしれません。ですがそれを理由にアッシュフォードに背を向けたりはしません。全部受け止めます。だから、お願いします。私にアッシュフォードの全てを教えてください!」
アイシャは深々と頭を下げた。平民に頭を下げる貴族など、リズベットは見たことがない。
「……なんでそんなに意志が固いのよ」
「私にはもう、ここしかないから。頑張りたいの。リズベットさんが私を信じられないのはわかります。今はまだ、頑張るしか言えないけど、でも……っ!」
「はあああああ……」
リズベットは大きなため息でアイシャの言葉を遮ると両手で顔を覆った。本当に、健気なことだ。
「リズ」
「……え?」
「リズって呼んで」
指の隙間から、ちらりとアイシャの方を見たリズベットは、目を丸くする彼女に舌打ちをする。そして立ち上がり、柵の前に立った。
二人にはそこそこの身長差がある。リズベットは小柄なアイシャを見下ろすと柵から手を出して彼女の頭を撫でた。少し乱暴に撫でられたせいか、髪が乱れる。
アイシャは乱れた髪を直しつつ、リズベットを見上げた。
「あたしを護衛にして。そうしたら全部教えてあげる。イアンが見せたがらないアッシュフォードを全部」
ぶっきらぼうに放たれた彼女の言葉にアイシャの頬がゆっくりと緩んだ。そして花が開くような笑顔を見せた。
不覚にもその笑顔が可愛いと思ってしまったリズベットは、形容し難い顔をした。
「ありがとうございます! リズ!」
「はいはい」
アイシャは柵越しに手を差し出した。リズベットはその手を握り返す。契約成立だ。
ランは何故かその様子を見て、頬を膨らませた。
「……むう」
「ん?ラン、どうしたの?」
「……何でもないです!私は牢の鍵をもらってきますね!」
「あ、ありがとう」
それまで終始威嚇するようにリズベットを睨んでいたランは、不服そうな顔をしながらもアイシャの決断を尊重し、テオドールに鍵をもらうため階段に向かった。
しかし、1段2段と階段を上がり、ふと立ち止まると、背を向けたままリズベットに一言残した。
「……護衛になるなら態度はあらためてくださいよ、マイヤー卿」
可愛らしい風貌に似合わない低い声色で放たれた一言に、リズベットはフッと笑う。
「考えておくわ、メイドさん」
「……ランです! なんか、もう!なんか腹立つ!」
ランは大きな舌打ちをして、バタバタと足音を立てながら地下を出た。
「可愛らしい子ね」
「でしょう?」
「……」
「……リズ」
「何?」
「これからよろしくね?」
「……よろしく」
「私、頑張るから」
「……はいはい」
アイシャはふんっと鼻を鳴らし、自分を鼓舞するように大きく頷いた。
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