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第一章 輪廻の滝で

30:生涯愛してくれるらしい

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 生粋のお嬢様が野蛮な傭兵を撒けるわけもなく、厩舎の横、肥料の入った麻袋の山に押し倒される形で捕まったアイシャは涙目になりながら、自分に覆いかぶさるイアンを見上げた。
 その泣き顔は妙に欲情をそそる色気があり、イアンはゴクリと生唾を飲んだ。

「あの……、男爵様……」
「違うから!」
「……へ?」
「そんなに四六時中、君のことを話していたわけじゃないから!俺は変態じゃない!」
「えーっと、何の話ですか?」
「兄君が色々と書いていたみたいだけど、別に性的な目で見てる訳じゃないし、だから、君をどうこうしたいとかも思ってないし、確かにずっと心の支えにしてきたというだけで、そりゃあ確かに毎晩寝る前には必ずと言っていいほど君のこと考えてたけど、でもほんと、そんなやましい気持ちとか一切ないから!」
「……えっと……、つまり?」
「だ、だから!だから……、あんまり、そんなふうに怯えないでほしい……、です……」

 イアンは懇願するように眉尻を下げると、アイシャの頬を伝う涙を指で拭いた。

「お、怯えてはいないです」
「うそ。泣いているだろう」
「……これはびっくりしただけです。あんな風に追いかけてこられたら、誰だって少しは怖いと思いますわ」
「じゃあ、そうやって小刻みに震えているのはどうして?」
「さ、寒いから、です……」
「……そりゃあ、そうか」

 もうほとんど冬だ。寒空の下、薄着で厩舎の横の麻袋の上に押し倒されて寒くない訳がない。
 イアンはアイシャの腕を掴んで引き起こすと、自分の上着を彼女に着せた。
 一回り以上も大きな上着の袖に手を通したアイシャはなんだか気恥ずかしくなり、俯いた。

「ありがとう、ございます……」
「と、とりあえず、中に入ろう。何も言わずにいなくなるからランも心配していた」
「それは申し訳ないことをしてしまいました……」

 気まずい雰囲気が流れる。アッシュフォードの空気は冷たいが美味しくて爽やかなはずのに、二人の周りはどことなく重苦しいく、爽やかさなどかけらもない。
 この空気に耐えられず、アイシャは自分の先を行くイアンの手をとって後ろに引いた。待ってほしいというように。
 突然手を握られたことに驚いたイアンは勢いよく振り返り、その弾みで彼女の手を払ってしまった。久しぶりだからか、慣れたはずのその反応にアイシャの心はちくりと痛む。

「あの……。お、お兄さん……、なのですか?」

 アイシャはストレートに聞いてみた。潤んだ群青の瞳が、イアンを見つめる。
 イアンは一拍置いて、小さく「そうだ」と答えた。

「……いつ、私だと気づきましたか?」
「実は最初から知っていた」
「さ、最初から……」
「ごめん。君が気づいていないようだったから黙ってた」
「いえ……。私の方こそ、すぐに気づかなくてごめんなさい」
「いや、それはいいんだ。仕方ない。あれから俺も随分変わったし」
「私だって変わっています。でも、男爵様は私に気づいてくださいました」

 8歳前後の少女の風貌は、歳を重ねれば大きく変わる。社交界にデビューし、そこで揉まれ、大人な女性へと進化した女の顔を釣書で確認しただけで『あの時の少女だ』と気付ける人はそうそういない。つまり、イアンがアイシャに気づけたのは彼がずっと彼女の顔を思い返していたからだ。

「それなのに私は……、ごめんなさい」

 対するアイシャはどうだろう。当時のイアンの顔すらもう全く思い出せない。彼女が大事にしていたのは彼との約束でも彼自身でもなく、彼のくれた言葉だけだったからだ。
 都合の良いことしか覚えていない自分に腹が立つアイシャはキュッと唇を噛んだ。何と情けないことか。
 しかし、顔を伏せ、本当に申し訳なさそうに謝る彼女にイアンは小首をかしげた。

「なあ、気にするところそこなのか?」
「え?」
「俺は、俺の言葉がずっと君を苦しめていたのだと思っていたんけど」
「……?どうして私が苦しむのです?」
「何も知らないくせに『愛されている』なんて、無責任な事を言ったから、それが君に無駄な期待をさせて、無駄に傷付けたのではないかと……」
「何故そんなふうに思うのです?」

 今度はアイシャが首を傾げる。イアンからもらった言葉のせいで苦しんだ記憶など、彼女にはない。

「あの時、貴方にああ言ってもらえなければ、私は今ここにはいません。あの場では死ぬのを思いとどまっていたとしても、多分どこかで耐えきれなくなって首を括っていたでしょう。期待させてくれたから、私は死なずに済んだのです。ですから貴方の言葉に苦しんだことはありません」
「そ、そうか……。なら、良かった」
「むしろ、貴方の言葉があったから頑張ってこれたのですよ?」
「……そう言ってもらえるなんて、光栄だ」

 イアンはホッとしたのか、安堵の笑みを見せた。

「男爵様こそ、気にするところはそこなのですか?」
「え?何が?」
「私は貴方が思うほど大層な人間ではありませんわ。ベアトリーチェのように美しい白銀の髪も、宝石のような瞳もなく、面立ちも平凡でこれといった特技もない。両親にすら愛してもらえないほどに魅力がないのに、その上、せっかく再会できた男爵様にも気づかない薄情者で……。ずっと待ちわびていた人がこんな女でがっかりしたりはしてはいませんか?」

 アイシャはスカートをぎゅっと握りしめ、勇気を出してそう尋ねた。すると、イアンは怪訝な顔をして手を大きく横に振った。

「いやいや、大層な人間だぞ?君はヴィルヘルムの街を救ってくれたじゃないか」
「救ったのは叔父様ですわ。私は何も……」
「子爵が動く様に働きかけたのは君だ。君が動かなければ子爵は動いていない。それに……」

 そう何かを言いかけて、イアンはアイシャの髪に手を伸ばした。そしてその錫色の髪を一房取った。
 アイシャの長い髪が彼の指の間をすり抜けてハラハラと風に靡く。アイシャは戸惑ったように彼を見上げた。

「あ、あの……」
「こんなに美しく成長した君を見て、どうしてガッカリする必要がある?」
「……え?」
「落ち着きのある髪色に、空の様に広く美しい心を感じさせる群青の瞳。そして優しさが溢れるその面立ち。全部綺麗だよ。とても美しい。君はもっと自信を持つべきだ」
「ふぇ……!?」
「その上、君は容姿だけでなく内面まで素晴らしい」
「そ、そんなこと……」
「そんなことあるよ。だって、普通のご令嬢は俺みたいな平民上がりの男爵を素直に受け入れない。汚物を見る様な目で見るだろうし、会話すらしてくれないこともあるだろう。けれど君は、初めから俺を受け入れようとしてくれている。この領地のことだってそうだ。都会のお嬢様にとっては何もないつまらない場所なのに、君は当たり前のようにこの地について知ろうとしてくれて、当たり前のようにここで暮らす未来を思い描いてくれた」

 それがどれだけ嬉しいことかわかるか、とイアンは柔らかく微笑む。

「食事だって、君が食べていたものよりずっと貧相だろう?でも君は美味しそうに食べてくれるじゃないか。厨房のメイドや料理長たちはとても喜んでいた。ニックだって、畑に興味を示して畑を知ろうとしてくれるのが嬉しいと言っていたし、他のメイドも使用人も、いつも感謝の気持ちを伝えてくれる君のことを素晴らしいと言っていた。そんなことが普通にできる君を見て、『ガッカリだ』なんて言ったらバチが当たるよ」
「男爵様……」

 アイシャは彼の言葉に目頭が熱くなった。何でもないことをしているだけなのに、自分の一番近くにいる人がその行動をきちんと見てくれていて、それを評価してもらえることはこんなにも嬉しいのだったらしい。

「ずっと、ずっと会いたかった。君にもう一度会いたい一心であの戦争を生き延びた。君がくれた約束が、君の存在がなければ俺は今、ここにはいない。だから……、君が俺の目の前にいることが本当に嬉しいんだ」
「私も、嬉しいです……」

 イアンは涙を拭うアイシャに右手を差し出すと、もう一度再会をやり直したいと言った。

「イアン・ダドリーだ」
「……アイシャ・ブランチェットです」

 互いに名乗り合い、握手を交わす二人。イアンはようやく、あの時の約束を果たせた気がした。


 ***


「……アイシャ。伯爵夫妻が君を愛してくれなかったというのなら、俺が君を愛そう。君の家族として、君を生涯愛すると誓うよ」

 屋敷の中に入ろうとアイシャの手を引いていたイアンは、彼女の方を見ることなくそう言った。
 斜め後ろからイアンを見上げるアイシャは首の辺りまで赤くしている彼を見て、心臓の鼓動が速くなる。多分自分で言っていて『くさいセリフだ』と恥ずかしくなったのだろう。可愛い人だ。

(この人は生涯私を愛してくれるのか……)

 イアンの言う『愛する』というのは『家族として』という意味で他意はない。そしてアイシャもそれを望んでいるし、アイシャも家族として彼を愛したいと思っている。なのに、何故だろう。

(どうしよう、体が熱いわ……)

 どんなふうに愛してくれるのだろう、なんて一瞬でもでも思ってしまったのがいけなかったのだろうか。アイシャは込み上げてくる嬉しさと恥ずかしさをどう表現すれば良いのかわからず、とりあえず自分の手を握る彼の手に指を絡めてギュッと握り返してみた。
 すると、イアンの体が強張ったのがわかった。けれど、今回は手を振り払われなかった。それどころか、彼の方からも強く握り返してくれた。
 予想外の反応にアイシャの心臓は爆発寸前だ。

「どうしましょう。男爵様。心臓が痛いです」
「俺も」
「病気かしら」
「それは大変だ。ニックに薬を煎じてもらおう」
「そうですね。それが良いと思いますわ」

 二人は手を繋いだまま、とりあえずニックの元に走った。
 指を絡める様にして手を繋ぎ、顔を真っ赤にしながら『心臓が痛い。病気かもしれない』と助けを求める二人。
 ニックは、そんな彼らに向かって『阿呆につける薬はありません』と冷めた視線を返したらしい。
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