上 下
18 / 149
第一章 輪廻の滝で

17:死にたがりの初恋(5)

しおりを挟む
 ーーーーー覚えていない。

 テオドールが口にしたその言葉に、イアンはベッドから飛び起きた。

「……ええええ!?」

 何をそんなに驚くことがあるのか。テオドールは眉間に皺を寄せる。 

「どうしてそんなに驚くのです?見ていればわかるでしょう?」
「いやいやいや!再会したら名前を教え合うという約束!覚えていたから名乗ってくれたんじゃないのか?」
「……はぁ?旦那様。ちょっと浮かれすぎです。痛々しい。痛々しすぎて全身に包帯を巻きたい」
「浮かれている自覚はあるが、包帯って……」
「ああもう!!いいですかっ!?貴方は釣書を見た時から奥様のことを調べまわったせいで、奥様を身近に感じているでしょうが、奥様の方はそうではありませんし、そもそも初対面で名乗るのは当たり前のことです!」

 初対面で、それもこれから夫婦になる相手に名乗るのは至極当たり前のこと。それは貴族とか平民とか関係なく、人としての常識で、たとえお互いに釣書などで顔や名前を知っていたとしても適用される。

「つまり、奥様が名乗ったのは、そうすることが常識だからです!約束とか関係ないのです!」
「たしかにぃ!」

 言われてみればそうかもしれない。いや、そうとしか思えない。
 では、やたらと上目遣いで見つめてきたのも、瞳が潤んでいたのも感動の再会による歓喜からくるものではなく……。

「戸惑いから?」
「戸惑いとか不安とか、そういう類のものでしょうね。間違っても貴方が望む熱い眼差しではありませんでした」
「もしかして、俺なんかまずいことした?」
「むしろ、まずいことしてませんね」

 その後、テオドールはまたもや主人を床に正座させ、渾々と何がダメだったかを一つずつ説いた。
 結果、イアンは自分の行動を冷静に客観視することができたらしく、膝を抱えて小さくなってしまった。

「俺って、もしかしてバカなのか?」
「はい。救いようのないバカです」
「浮かれすぎた。ごめん」
「謝る相手は僕ではありません」
「もちろん、彼女にも謝る。でも、お前たちが俺のために色々してくれたのに、全部台無しにしたから」
「そのことに対する謝罪なら受け取りましょう。なお、使用人たちはイノシシの肉で許すと言っていました」
「ははっ。現金な奴らで助かった」

 陽気な使用人たちは普段はあまり食べられない肉にありつけるので、全てを水に流してくれるらしい。
 元々、敬愛する主人のためなんて言いつつも、半分は面白いからというだけで協力していたのだ。誰も怒ってはおらず、むしろ今後のアイシャとイアンの関係性を心配しているのだとか。
 テオドールは「疲れた」とでも言うように、不躾にもイアンのベッドに腰掛けると、ネクタイを緩めて項垂れた。

「……それにしても、どうしてあのような態度を取ったのです?まさかとは思いますが、本当に照れ隠しだけが理由ですか?」
「そのまさかだ」
「思春期の子どもですか、あんたは。はあ、情けない」
「だって、仕方がないだろう。あんなに可憐に成長してるだなんて思わなかったんだから」
「毎日穴があきそうなくらい釣書を眺めていたじゃないですか」
「実物はやっぱり違うんだよ。本当に直視できない」

 釣書で見たアイシャより、実物の彼女の方が数億倍は可愛かった。妹の方が美人だとか、姉の方は地味だとか言われているらしいが、イアンからすれば妹よりも彼女の方がずっと可愛い。
 儚げな雰囲気の、落ち着いた品のある大人の女性。けれども、まだ少女のあどけなさも残る、なんとも言えない愛らしさ。

 そんな彼女を前にして平静を保てなど、無理な話だ。

「ずっと会いたいと思っていたんだぞ?それがようやく叶って、浮かれるなと言われても困る」
「困る、じゃないんですよ。じゃあずっと奥様と目も合わさないおつもりですか?」
「それは……、徐々に眼球を慣らしていこうと……」
「その間、奥様は視線が合わない旦那様をどんどん嫌いになりますよ?」
「じゃあどうすれば良いんだよ!」
「奥様の前で冷静になれないのなら、せめて『君のことが愛おしすぎて冷静な対応ができないが、全て照れ隠しなので許して欲しい。好きすぎるが故に、目を合わせたり触れ合ったりが難しいだけなんだ。本当は心から愛している』とでも伝えてきなさい」
「それはもう告白じゃないか!というか、そういう好きじゃないって言ってるだろ!?」
「はいはい。ですが、どうせ結婚するのですし、どんな種類の『好き』であろうとも、それを伝えるのは構わないのでは?これから二人で愛を育んでいかなくてはならないのに」
「あ、愛を育む……。ぐふ……」
「笑い方が気持ち悪い!……まあ、それが嫌ならせめて昔のことを伝えて、『ずっと会いたいと思っていたから、緊張しておかしな態度をとってしまいました。ごめんなさい』と謝り、以降普通に接するよう努力することです。訳もわからず避けられて傷つかない人はいません」
「うっ……。そ、そうだな……。では早速……」
「あ!こら!今日はもう遅いのでダメですよっ!」

 アイシャとイアンはまだ夫婦ではなく婚約者という立場だ。こんな時間に正式に妻となっていない女性の寝室を訪ねるのは非常識極まりない。よって、早々に行動に移そうと立ち上がり、自分に背を向けたイアンに、テオドールは枕を投げつけた。
 イアンは後頭部を押さえて振り返ると、ギロリと彼を睨む。

「……俺が全面的に悪いのは理解しているが、貴様。主人に枕を投げつけるとは何事か。そして今更だが、主人のベッドに腰掛けるとは如何なものか」
「明日の朝食は少し豪華にするよう、料理長に伝えておきますので。朝一番で奥様を誘うことをお勧めします」
「人の話を聞けよ、と言いたいところだがありがとう!頼んだ!大好き!」
「はいはい」

 どれほど無礼だろうと、主人第一で動く男だ。
 イアンは部屋を出ようとするテオドールに投げキッスをした。
 テオドールは投げつけられたそれを掴むと、ゴミ箱に叩きつけるふりをして部屋を後にした。

「はあ……。奥様は大丈夫だろうか」

 こんな頭の弱い男の妻となるアイシャに、テオドールは激しく同情した。
しおりを挟む
感想 210

あなたにおすすめの小説

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

もう長くは生きられないので好きに行動したら、大好きな公爵令息に溺愛されました

Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユリアは、8歳の時に両親を亡くして以降、叔父に引き取られたものの、厄介者として虐げられて生きてきた。さらにこの世界では命を削る魔法と言われている、治癒魔法も長年強要され続けてきた。 そのせいで体はボロボロ、髪も真っ白になり、老婆の様な見た目になってしまったユリア。家の外にも出してもらえず、メイド以下の生活を強いられてきた。まさに、この世の地獄を味わっているユリアだが、“どんな時でも笑顔を忘れないで”という亡き母の言葉を胸に、どんなに辛くても笑顔を絶やすことはない。 そんな辛い生活の中、15歳になったユリアは貴族学院に入学する日を心待ちにしていた。なぜなら、昔自分を助けてくれた公爵令息、ブラックに会えるからだ。 「どうせもう私は長くは生きられない。それなら、ブラック様との思い出を作りたい」 そんな思いで、意気揚々と貴族学院の入学式に向かったユリア。そこで久しぶりに、ブラックとの再会を果たした。相変わらず自分に優しくしてくれるブラックに、ユリアはどんどん惹かれていく。 かつての友人達とも再開し、楽しい学院生活をスタートさせたかのように見えたのだが… ※虐げられてきたユリアが、幸せを掴むまでのお話しです。 ザ・王道シンデレラストーリーが書きたくて書いてみました。 よろしくお願いしますm(__)m

王太子様には優秀な妹の方がお似合いですから、いつまでも私にこだわる必要なんてありませんよ?

木山楽斗
恋愛
公爵令嬢であるラルリアは、優秀な妹に比べて平凡な人間であった。 これといって秀でた点がない彼女は、いつも妹と比較されて、時には罵倒されていたのである。 しかしそんなラルリアはある時、王太子の婚約者に選ばれた。 それに誰よりも驚いたのは、彼女自身である。仮に公爵家と王家の婚約がなされるとしても、その対象となるのは妹だと思っていたからだ。 事実として、社交界ではその婚約は非難されていた。 妹の方を王家に嫁がせる方が有益であると、有力者達は考えていたのだ。 故にラルリアも、婚約者である王太子アドルヴに婚約を変更するように進言した。しかし彼は、頑なにラルリアとの婚約を望んでいた。どうやらこの婚約自体、彼が提案したものであるようなのだ。

突然決められた婚約者は人気者だそうです。押し付けられたに違いないので断ってもらおうと思います。

橘ハルシ
恋愛
 ごくごく普通の伯爵令嬢リーディアに、突然、降って湧いた婚約話。相手は、騎士団長の叔父の部下。侍女に聞くと、どうやら社交界で超人気の男性らしい。こんな釣り合わない相手、絶対に叔父が権力を使って、無理強いしたに違いない!  リーディアは相手に遠慮なく断ってくれるよう頼みに騎士団へ乗り込むが、両親も叔父も相手のことを教えてくれなかったため、全く知らない相手を一人で探す羽目になる。  怪しい変装をして、騎士団内をうろついていたリーディアは一人の青年と出会い、そのまま一緒に婚約者候補を探すことに。  しかしその青年といるうちに、リーディアは彼に好意を抱いてしまう。 全21話(本編20話+番外編1話)です。

転生先は推しの婚約者のご令嬢でした

真咲
恋愛
馬に蹴られた私エイミー・シュタットフェルトは前世の記憶を取り戻し、大好きな乙女ゲームの最推し第二王子のリチャード様の婚約者に転生したことに気が付いた。 ライバルキャラではあるけれど悪役令嬢ではない。 ざまぁもないし、行きつく先は円満な婚約解消。 推しが尊い。だからこそ幸せになってほしい。 ヒロインと恋をして幸せになるならその時は身を引く覚悟はできている。 けれども婚約解消のその時までは、推しの隣にいる事をどうか許してほしいのです。 ※「小説家になろう」にも掲載中です

悪役令嬢に仕立て上げたいのならば、悪役令嬢になってあげましょう。ただし。

三谷朱花
恋愛
私、クリスティアーヌは、ゼビア王国の皇太子の婚約者だ。だけど、学院の卒業を祝うべきパーティーで、婚約者であるファビアンに悪事を突き付けられることになった。その横にはおびえた様子でファビアンに縋り付き私を見る男爵令嬢ノエリアがいる。うつむきわなわな震える私は、顔を二人に向けた。悪役令嬢になるために。

死に役はごめんなので好きにさせてもらいます

橋本彩里(Ayari)
恋愛
フェリシアは幼馴染で婚約者のデュークのことが好きで健気に尽くしてきた。 前世の記憶が蘇り、物語冒頭で死ぬ役目の主人公たちのただの盛り上げ要員であると知ったフェリシアは、死んでたまるかと物語のヒーロー枠であるデュークへの恋心を捨てることを決意する。 愛を返されない、いつか違う人とくっつく予定の婚約者なんてごめんだ。しかも自分は死に役。 フェリシアはデューク中心の生活をやめ、なんなら婚約破棄を目指して自分のために好きなことをしようと決める。 どうせ何をしていても気にしないだろうとデュークと距離を置こうとするが…… お付き合いいただけたら幸いです。 たくさんのいいね、エール、感想、誤字報告をありがとうございます!

ヤンデレ悪役令嬢の前世は喪女でした。反省して婚約者へのストーキングを止めたら何故か向こうから近寄ってきます。

砂礫レキ
恋愛
伯爵令嬢リコリスは嫌われていると知りながら婚約者であるルシウスに常日頃からしつこく付き纏っていた。 ある日我慢の限界が来たルシウスに突き飛ばされリコリスは後頭部を強打する。 その結果自分の前世が20代後半喪女の乙女ゲーマーだったことと、 この世界が女性向け恋愛ゲーム『花ざかりスクールライフ』に酷似していることに気づく。 顔がほぼ見えない長い髪、血走った赤い目と青紫の唇で婚約者に執着する黒衣の悪役令嬢。 前世の記憶が戻ったことで自らのストーカー行為を反省した彼女は婚約解消と不気味過ぎる外見のイメージチェンジを決心するが……?

処理中です...