【完結】アッシュフォード男爵夫人-愛されなかった令嬢は妹の代わりに辺境へ嫁ぐ-

七瀬菜々

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第一章 輪廻の滝で

11:最初の晩餐

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 果物とクリームチーズのカナッペに野菜のテリーヌ。ほうれん草のキッシュにジャガイモのグラタンに……、それから白身魚のフラン。
 食力をそそる香りに連れられたアイシャが食堂に降りると、すでにテーブルの上にはたくさんの料理が並べられていた。
 内容はおそらく少しおしゃれな家庭料理といったところだろう。伯爵家で食べていた料理とは大きく異なる。
 けれど、美しく盛り付けされた色とりどりの料理たちにアイシャは思わず感嘆の息を漏らした。

(……思っていたよりもずっと豪華だわ)

 きっと、豊かなブランチェットの地から嫁いでくる自分に気を遣ってくれたのだろう。気合の入った料理に使用人たちの気遣いを感じ取ったアイシャは目頭が熱くなった。

「奥様、どうされました?」
「あ……、ごめんなさい。ぼーっとしていたわ」

 入り口でぼーっと突っ立ったまま中に入ろうとしないアイシャに料理長は不安げに首を傾げた。彼の声にハッとしたアイシャは辺りを見渡す。すると、料理長だけでなく、メイドたちまでもが不安そうにこちらを見ていた。
 
「あの、何か不備が……?」
「い、いえ。ごめんなさい。あまりにも美味しそうなお料理が並んでいるからびっくりしてしまって」
「そんな……、ありがとうございます。恐縮です」

 アイシャの言葉に料理長が代表して頭を下げた。年は50前後だろうか。少し照れ臭そうに笑う料理長の頬には年齢を感じさせる皺とともに、可愛らしいエクボができていた。
 アイシャは料理長はとても人が良さそうな男だと思った。

(そういえば、使用人にこんな笑顔を向けられたのは初めてかもしれないわ)

 ランが引いた椅子に座りながら、アイシャはふと、家を出る前のブランチェット家の使用人たちの態度を思い出した。
 家を出る前の『体の弱いベアトリーチェに辛く当たる姉』に対する軽蔑の視線は言わずもがなだが、それ以前もアイシャは一部を除き、実家の使用人たちにこんな風に笑いかけてもらったことがない。
 彼女を見る使用人の視線はいつも憐れみの色を含んでいた。極たまに誰かが笑いかけてくれたとしても、その裏にある『親に相手にされない可哀想なお嬢様に慈悲を与えてやる自分って素敵』という感情が見え透いていて、気分の良いものではなかった。

(……だめだめ! 余計なことを思い出してはだめよ!)

 また思考がネガティヴになっている。これではいけない。いつまでも伯爵家に囚われていては完璧な男爵夫人にはなれない。
 アイシャは首を横に振り、深呼吸した。

「……アイシャ嬢?」
「……え?」

 アイシャが悶々としていると、後ろから声が聞こえた。彼女が振り返ると、そこにいたのはこの屋敷の主人であるイアン。
 イアンは先に席についていたアイシャに驚いたのか、ぽかんと口を開けた間抜けな顔をしていた。

「す、すまない。待たせたか?」
「いいえ。先ほど来たところですわ」

 アイシャはスッと立ち上がり、彼にまだ見せていなかった子爵夫人仕込みのカーテシーを披露する。

「改めまして、男爵様。お初お目にかかります。ブランチェット伯爵が娘、アイシャと申します。この度は……」
「ああ、そうか!」
「え?」

 アイシャの言葉を遮ったイアンはコホンと咳払いをすると、ネクタイをキュッと締め上げ、姿勢を正す。そしてアイシャに右手を差し出した。

「俺の名前はイアン・ダドリー・アッシュフォードだ。よろしく」
「……?よろしくお願いいたします……」
 
 言葉を遮ってまで早く名乗りたかったのだろうか。
 イアンの不思議な空気感と態度にアイシャは首を傾げた。
 
(緊張していらっしゃるのかしら)

 緊張故に、態度がぎこちないのなら納得だ。
 やはり元平民からすれば、純血の貴族を相手にするのは身構えてしまうものなのかもしれない。アイシャは敵意がないことを示そうと柔らかく微笑みながら、彼の手に触れようとした。
 だが、なぜかその手は払われる。
 あまりに突然のことに、アイシャは目を丸くした。

「え……っと……。すみません。馴れ馴れしかったでしょうか?」
「あ、いや!違っ……。その、む、虫!虫がいたから!」
「そ、そうでしたか!あはは……」

 あからさまな言い訳にどう返すべきかわからず、愛想笑いを浮かべるしかないアイシャ。対するイアンは真っ赤にした顔を隠すように彼女から目を逸らし、その大きな手で口元を覆った。

(ど、どうしよう……)

 何か気に触ることをしただろうか。礼儀作法については自信がある方なのに。
 イアンを不快にさせた原因がわからないアイシャは、笑顔を貼り付けたまま暫く悩んだ。
 使用人達はなんとも気まずそうな顔をしている。だが主人たちの会話に割って入れる者などおらず、彼らはアイシャと同じように笑顔を張り付けていた。

「……男爵様」
「ん?な、何だ?」
「到着して早々にお見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございませんでした」

 結局、アイシャはイノシシを見て気絶するなど恥ずかしい限りだと深く頭を下げた。
 暫く悩んだが、思いつく原因がそれしかなかったのだ。
 するとイアンは、そんな彼女を見て慌てて顔を上げるよう促した。

「そんなこと、謝らなくても良い!」
「し、しかし……」
「あれは、俺が悪かったんだ!驚かせてすまなかった!でも信じてくれ。別に嫌がらせとかじゃなくて、あのイノシシも出迎えに遅れたのも偶然で……。その、君の晩餐のメニューが、えっと……だから、つまり……」
「……だ、大丈夫です!」
「……え?」
「私、ああいうのに慣れていないものですから少し驚いてしまいましたが、すぐに慣れるよう努力致します。が、頑張りますね!」
「ん??あ、ああ。頑張って?」

 全然噛み合わない会話。おそらく互いの誤解は解けていないし、何も解決していないのだが、気まずさをどうにかしようと二人は笑い合う。
 とうとう見かねたテオドールは『頑張って、じゃねーよ』と叫びたい気持ちを抑えて、二人にそろそろ食事にしてはどうかと進言した。
 イアンは「そうだな」と同意し、アイシャはちらちらとイアンの顔色を窺いつつも、彼に促されるがままに再び着席した。 
 さほど広くない食堂の、さほど大きくないテーブルの端と端。けれどその距離が二人の心の距離を表しているようで、このテーブルが実際よりもとても広く感じた。

(……緊張するわ)
 
 メイドがグラスにワインを注ぐ音や空調設備の音が際立つほどにシンと静まり返る食堂では、微かな呼吸音が自分の不安や困惑を相手に伝えてしまいそうでとても緊張する。
 アイシャは気持ちを落ち着かせるためにそっと胸に手を当て、できるだけ静かに深呼吸した。
 そして先ほどは動揺して引き攣っていた笑みを、今度は淑女の微笑みに変えて顔に貼り付けた。

「男爵様。改めて、これからよろしくお願いいたしますね?」
「あ、ああ」
「……私、これから男爵様と共にこの地の発展に尽力したいと思っております。至らぬ点も多いかと存じますが、精一杯頑張ります」
「あ、ありがとう……。こちらこそ、よろしく……」
「……」
「……」

 何となく予想していたことだが、会話が続かない。アイシャはジッとイアンの金の瞳を見つめてみたが、彼はまたしても勢いよく目を逸らした。
 もうここまでくると、明らかに目を合わせまいとしているようにしか思えず、アイシャは笑顔を貼り付けたまま少し俯き、ドレスを握りしめた。
 
(これはどう見ても……)

   やはり歓迎されてはいないらしい。それどころか、むしろ嫌われていると言ってもいいかもしれない。
 綺麗に掃除の行き届いた部屋に、初対面の印象とは大きく異なり、意外にも親切にしてくれる使用人。それからイアンが直々にこの晩餐に招いてくれたこと。
 これらのことを踏まえて、実は思っていたより歓迎されているのかもしれないとも思ったが、どうやら勘違いだったようだ。
 彼の態度をそう捉えたアイシャは、あからさまに嫌な顔をされないだけマシか、と自分に言い聞かせて再び顔を上げた。
 
「……頂いてもよろしいでしょうか?」
「そ、そうだな。うん。頂こう……」

 冷めてしまっては美味しくないからな、なんて言いながらイアンは皿から料理をとりわけるよう料理長に促した。料理長は間の続かない二人のために、料理の説明にジョークを入れつつ場を和ませる。
 その様子を見ていたランはさりげなくテオドールに近づき、やや怒っているような口調で尋ねた。

「テオドール様、お聞きしたいことがあるのですが」
「何でしょう?」
「お嬢様が眠られている間に、屋敷を案内してくれたメイド長様は『奥様がお越しになるのを旦那様はとても心待ちにしていたのよ?』と話してくださいました」
「……そうですか」
「もしや、私は嘘をつかれていたのでしょうか?」

 ここにくるまでの道中、アイシャから『アッシュフォード男爵はあまり野心がなく、今回の結婚も彼が望んだことではないはず。だから私は歓迎されない可能性が高い』と聞かされていたランは、メイド長の話を聞いて嬉しかったのにと寂しげに笑う。
 テオドールは彼女の言葉を即座に「違う」と否定した。

「メイド長の話は本当です。心配なさらないでください」
「……」
「いや、あの……。伝わらないかもしれませんが、旦那様は本当に奥様を歓迎しています。本当に」
「……そうですか。そうだと、嬉しいです」

 疑いの視線を向けてくるランに、テオドールは気まずさのあまり目を逸らした。
 そして、逸らした先にある光景を見て小さくため息をこぼす。

(……まあ、こんな光景を見せられて信じろと言われても信じられないよな)

 これから夫婦になる二人の初めての晩餐が、何故か料理長を介して料理の話をするだけという残念なものになっている。
 いや、本当に何故なのか。
 テオドールはここ数日の主人の行動を思い返して見ても理解できなかった。
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