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第一章 輪廻の滝で

10:第二印象

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 アイシャが嫁いで来る予定だった日の朝のこと。
 何故か急に晩餐のメニューが気になったイアンは、厨房を訪れていた。そして、そこに広がる光景を目にした彼は険しい表情を浮かべた。
 厨房の棚に並んでいたのが芋や山菜、川魚など、アッシュフォードの地で取れる食材ばかりだったからだ。
 ここに並ぶ食材は確かに新鮮で美味しいものばかりだが、いかんせん華やかさに欠ける。これでは都会から来るお嬢様を満足させられる料理を作るのは難しいだろう。  
 何せ肉がないのだ。
 厨房を取り仕切る料理長はこれらを食材をうまく活用し、アッシュフォードの郷土料理を振る舞おうと考えているとイアンに伝えたが、イアンは納得しなかった。

「だから朝っぱらからイノシシを狩りに行ったと?」

 執務室の絨毯の上、テオドールに渾々と詰め寄られているイアンは何故か半裸で正座していた。
 気絶したアイシャを寝室に運んだあと、とりあえずシャワーを浴びてこいと浴室に放り込まれた彼は、その後浴室から出たところを捕獲されて執務室まで連行されたらしい。
 まだ濡れたままのイアンの黒髪から雫がぽたぽたと流れ落ち、深紅の絨毯にシミを濡らす。

「に、肉がないから……。イノシシの肉は美味しいし、彼女も喜ぶのではないかと思って……」
「晩餐のメニューは前もって報告されていたはずですが?まさか目を通していなかったと?」
「……その時はそれで良いと思ってたんだけど、実際当日になってみると、やっぱり物足りないような気がして……」
「……それでイノシシですか」
「あ!大丈夫だぞ?た、確かにこの時期のイノシシは凶暴だから誰も近づかないが、俺にとってはいつものイノシシと変わらないし、このくらい朝飯前だ。だから心配ない。ほら、無傷だ」

 何を勘違いしたのか、イアンは両手を広げ、その鍛え上げられた体をテオドールに見せた。だが当然のごとく、彼が怒っているのは一人で凶暴化しているイノシシを狩るという危険を犯したことではない。
 テオドールは部屋の外まで聞こえそうなほどに大きく息を吐いた。

「誰もあんたの心配なんてしてないんですよ!なんで出迎えがあると分かってるのにイノシシなんざ捕りに行ったのかと聞いてるんです!」
「ギリギリ間に合うかと思って……」
「結局間に合わなかったではないですかっ!ったく!貴方のために皆がどれだけ準備したと思ってるんですか!」
「それは申し訳なかったと思っ……」
「そもそも、今朝とれたイノシシを今晩出せとか無茶な要求しないでください。料理長の顔を見ましたか?真っ青でしたよ!」

 目の前のイノシシに呆然と立ち尽くす料理長を思い出し、テオドールは叫んだ。 
 今日の晩餐の用意もあるのに、無駄に仕事を増やされた彼が不憫でならない。

「大体ですね、花嫁を出迎えないなど、この結婚について不満があると言っているようなものですよ!?わかってます!?」
「別に不満なんてない!もうちゃんと納得しているし、むしろ……」
「貴方様の気持ちは今はどうでも良いんです!奥様からはそう見えるという話です!しかも、よりによってイノシシの死骸を担いで現れるなど、なんの嫌がらせですか!間に合わなかったのならせめて裏から入って、厨房の外にイノシシを置いて身だしなみを整えてから現れてください!たとえ遅くなったとしてもそちらの方がまだマシだ!」
「そ、それは……、挨拶だけはしとこうと……。まさかイノシシ見たくらいで倒れるなんて思わないし……」
「ここの基準で考えてはいけません!都会のお嬢様はイノシシなんて見たことないんですよ!肉は調理されたものしか見たことがないんです!気絶するに決まってるでしょうが!馬鹿なの!?あんた馬鹿なのか!?」
「馬鹿って言うなよ!俺は領主だぞ!?」
「僕がいなきゃ、まともに治めることもできないくせに何が領主か!大体、僕はずーっと言ってましたよね!?南部ではイノシシを食べないんです!牛か鳥なんです!」
「な!?肉は肉だろ!?」
「あー!もうやだ!本当いやだ!この大雑把が!バーカバーカ!」

 まるで子ども同士の喧嘩。
 部屋の外で主人の着替えをもってきたメイドは入室をすべきかどうかを悩んでいることなど知らない二人は、それから二十分ほど喧嘩し続けたという。

 *

 そして夕方。騎士団の面子が屋敷を去って数時間が経過した頃。
 アイシャが目を覚ましたとの報告を受けて、イアンは彼女の寝室の前にいた。
 
「……第一声がわからない」

 『気絶させてごめんなさい』なのか、それとも『ようこそ、アッシュフォードへ』なのか。もしくは『あのイノシシは今日の晩餐のために用意しただけで、脅かすつもりはなかった』と言い訳するべきなのか。

「……むしろ、こうして君に会える日をずっと待ち望んでいた、とか?」

 扉の向こうにいるアイシャに対して何と声をかけるのが正解なのかわからないイアンは眉間に皺を寄せ、うーんと唸る。テオドールは背後から彼のふくらはぎを蹴り飛ばし、ひと言、『阿保か』と罵倒した。

「テオ。頼むからアイシャ嬢の前では立場を弁えてくれないか。領主としての威厳がなくなる」
「奥様の前では旦那様を慕う従者のフリをしますのでご心配なく。本当は一ミリも尊敬してなどおりませんが、演技力には自信がありますから、完璧に演技できます」
「ひと言どころの騒ぎじゃないくらいにひと言多いぞ。傷ついた」
「すぐ傷付きますね。メンタル弱すぎです。引くわぁ」
「引くなよ。お前そろそろ本気で怒るぞ。無礼がすぎる」
「いいから早く扉を開けてくださいよ。ノックして返事もらってからどれだけ時間が経過したと思ってるんですか!」

 実はノックをして入室の許可を得てから、もうかれこれ3分ほど扉の前でもごもごとしているらしい。
 いよいよ痺れを切らせたテオドールは強制的に入室させようとドアノブに手をかけた。
 すると、こちらがドアノブを捻るよりも先に扉が開いた。テオドールは思わず『あ……』と間抜けな声を漏らした。

「あの、どうされました?」

 そう言って怪訝な瞳でこちらを見上げてくるのは、アイシャのメイド、ラン。
 ランは『お前ら、部屋の前で何を騒いでいやがるのだ?』という意味を込めた視線で、イアンとテオドールを警戒する。テオドールは自分のせいではないと言わんばかりに、速やかにイアンの後ろへと下がった。
 こうなってしまってはもう自分が何か喋るしかない。イアンはとりあえず口を開いた。

「えーっと、アレだ。夕食にはあのイノシシの肉が出るから」
「……はい?」

 よりによって何故それを選んだのか。第一声がそれだったものだから、ランは意図せず眉を顰める。
 テオドールは後ろで額を押さえ、小さくため息をこぼした。

「あ、いや、違う。間違えた」
「はあ……」
「ア、アイシャ嬢の体調はどうだ?」
「えっと、もう大丈夫です。倒れた時、男爵様が支えてくださったので怪我も特にございません」
「そうか。良かった」
「……」
「……」
「……あの、それだけですか?」
「へ?」
「あ、もしかして伝わっていませんでしたか?容体については医師からお聞きになっているものと思っていたのですが……」
「いや、聞いている」
「はあ……。あの、ではどういった御用でしょう?お嬢様はまだ着替えもできておりません故、御用がおありなら手短にお願いしたいのですが……」

 ランはチラリと自分の後方へと視線をやった。
 すると彼女の肩越しに、チラリとベッドの上で座っている寝巻き姿のアイシャが見えた。イアンの視線に気づいたアイシャは近くにあったカーディガンを羽織り、恥ずかしそうに顔を伏せた。
 赤面したアイシャを見て、なぜかイアンまで軽く頬を染める。

「……あのー、男爵様?」
「はっ!……あー、えっと。その、も、もうすぐ夕食の用意ができるが、共にどうかと思って……」
「そうでしたか。では支度が整い次第、お嬢様を食堂へご案内します」
「場所はわかるか?」
「説明は受けましたので」
「そうか、では頼む」 
「はい。……あ、そうだ!男爵様、一つお願いがあるのですが」
「なんだ」
「もし、あのイノシシがアッシュフォード流の歓迎でないのなら、その、晩餐にイノシシの肉は出さないでもらえませんか?お嬢様のショックが大きくて……」
「……そ、そうか。わかった。イノシシは出さないでおこう。すまなかったな」
「ありがとうございます。ではまた後ほど」
「あ、ああ」

 ランは軽く頭を下げて扉を閉めた。
 パタンと閉まる扉の音が何もない静かな廊下に響いた。多分だけど、最悪だった第一印象をさらに悪くしたような気がする。
 イアンは若干涙目になりながら、しばらくその場に立ち尽くした。窓から差し込む夕日が彼を覆うように影を作るせいで、かなり哀愁が漂っている。

「……テオドール」
「はい、旦那様」
「厨房のみんなに、イノシシは好きに食べてくれと伝えてほしい」
「承知しましました」

 そんなわけで、ここ数日間の男爵家の賄いはとても豪華なものとなることが決定した。


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