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第一章 輪廻の滝で
8:アッシュフォードの街
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翌朝。アイシャは夫人に手伝ってもらいながら純白の花嫁衣装に袖を通した。
本当は結婚式で初めて着るのが通例だが、今回のように挙式よりも先に婚家に入る場合は致し方ない。流石に婚家の敷居を跨ぐのに普段着というわけにもいかないため、アイシャは渋々花嫁衣装を身に纏った。
「あなたが何も持たずに来ると思って、手直ししておいたの。わたくしのお下がりだから古臭いけれど、ごめんなさいね」
「いいえ、ありがとうございます。嬉しいです」
「……とても綺麗よ、アイシャ。一番最初に貴女のこんな姿が見れて、わたくしは幸せ者だわ」
純白のシルクのドレスにブルースターの金糸の刺繍。所々に散りばめられたダイヤモンドが朝日に反射してキラキラと光る。今のアイシャは多分、今までの人生で一番美しい。
子爵夫人は心の底から嬉しそうに笑った。ヴェールを持ったランは首を大きく縦に振り、夫人の言葉に激しく同意する。
本来、花嫁衣装に袖を通す時は母親に手伝ってもらうものなのだけれど。
その場にいた全員が一瞬だけその言葉を頭に思い浮かべたが、口から出すことはなかった。
「どうだい?アイシャ。準備はできたか?」
様子を見に来た子爵はアイシャの姿を見て、「ほう」と感嘆の息を漏らした。そしてとても綺麗だと言った。
アイシャは夫妻の前に立つと深く頭を下げる。
「今まで本当にありがとうございました。叔父様と叔母様がいてくださったから、今の私があるのだと思います」
アイシャに知識と教養、そして愛を与えてくれたのは紛れもなくこの二人だ。アイシャは顔を上げると精一杯の笑顔で「大好きです」と伝えた。
子爵夫妻はそんな彼女を抱きしめて、静かに涙を流した。それは娘を嫁に出す親のような、寂しさからくる感情だろうか。それともこれから苦労するであろう彼女を思っての涙だろうか。
どちらにしても、その涙はアイシャを思うが故の涙だった。
「アイシャ。一年だ。一年だけでいい。真剣に男爵夫人になる努力をしてみなさい。彼の妻として生きる覚悟を持ちなさい。そして一年後、もしお前がどうしても彼の妻として生きていきたくないと思うのなら、その時は私の元にきなさい。私たちは子どももいないし、ここは部屋もたくさん余っているからね」
別れ際、馬車に乗り込む前。子爵はそんなことを言った。
それは、もし結婚生活がうまくいかなかった場合のお誘い。アイシャがあの伯爵家に出戻るなんてできないことを彼は理解しているのだ。
アイシャはもしもの時の逃げ道を用意してもらったことで、心が少し軽くなったのを感じた。
***
「アイシャ嬢。そろそろアッシュフォードのお屋敷です」
馬車と並走して馬を走らせる護衛のマルセルが、少し開いた窓の外からそう告げた。
窓から入り込む風は肌を刺すように冷たいが、とても澄んでいて、何故か心地良い。アイシャは大きく深呼吸して、その空気を吸い込んだ。
「ふう……」
男爵領に入ってから見えたのはだだ広いだけの寂れた街だった。
どこまでも広がる畑と閑散とした街には似合わない新しめの家屋。所々には戦争で焼けたのだろうと思われる家屋がそのままになっていて、この場所がまだ復興途中であることを感じさせる。
人はまばらで、どこか寂しげだ。家畜の鶏の鳴き声が良く響いた。
少し先にはシャトー山脈につながる森の入り口があり、そこから先はもう魔族領になる。危険がすぐそばにあるせいか、その手前に聳え立つ砦がやけに物々しく感じた。
(本当に、何もない……)
アイシャが思っていたよりもずっと、アッシュフォードはドがつくほどの田舎だった。当然ながら娯楽らしい娯楽はなく、また商店の数も少ない。食堂と宿屋、薬屋の存在は確認できたが、あとはわからない。何より、娯楽よりも明日何を食べるかが重要であるといった雰囲気がする。
恵まれた街でこれまでを過ごしてきたアイシャからすれば、アッシュフォードはとても寂しい町だった。
けれど……。
「とても、良いところね……」
アイシャの馬車を見ると爽やかな笑顔で手を振ってくれた人がいた。水仕事で赤切れだらけの手を振って、或いは採れたてのジャガイモを大きく掲げて、領主夫人になるアイシャを歓迎してくれた人がいた。
「男爵様はきっと、噂通りの人ではないのでしょうね」
アイシャは窓の外を眺めながらポツリと呟いた。
この地を治めているイアン・ダドリーはきっと良い領主なのだろう。それは民の顔を見れば良くわかる。
ならばアイシャとて、領主の妻として彼と同じように良い領主夫人にならねばならない。
(……もし良い妻になれたら、良い領主夫人になれたら、男爵様は私を愛してくれるかしら)
互いに望まない結婚。
けれど、頑張れば愛してもらえるだろうか。もしイアン・ダドリーが噂通りの人でないなら、今度こそ一番にしてもらえるだろうか。
仄かな期待がじんわりと、胸の奥深くに広がる。
アイシャは向かいに座るランを見つめた。
「この地で、私と一緒に頑張ってくれる?ラン」
「もちろんです!」
こうして、アイシャはようやく夫と対面することになった。
本当は結婚式で初めて着るのが通例だが、今回のように挙式よりも先に婚家に入る場合は致し方ない。流石に婚家の敷居を跨ぐのに普段着というわけにもいかないため、アイシャは渋々花嫁衣装を身に纏った。
「あなたが何も持たずに来ると思って、手直ししておいたの。わたくしのお下がりだから古臭いけれど、ごめんなさいね」
「いいえ、ありがとうございます。嬉しいです」
「……とても綺麗よ、アイシャ。一番最初に貴女のこんな姿が見れて、わたくしは幸せ者だわ」
純白のシルクのドレスにブルースターの金糸の刺繍。所々に散りばめられたダイヤモンドが朝日に反射してキラキラと光る。今のアイシャは多分、今までの人生で一番美しい。
子爵夫人は心の底から嬉しそうに笑った。ヴェールを持ったランは首を大きく縦に振り、夫人の言葉に激しく同意する。
本来、花嫁衣装に袖を通す時は母親に手伝ってもらうものなのだけれど。
その場にいた全員が一瞬だけその言葉を頭に思い浮かべたが、口から出すことはなかった。
「どうだい?アイシャ。準備はできたか?」
様子を見に来た子爵はアイシャの姿を見て、「ほう」と感嘆の息を漏らした。そしてとても綺麗だと言った。
アイシャは夫妻の前に立つと深く頭を下げる。
「今まで本当にありがとうございました。叔父様と叔母様がいてくださったから、今の私があるのだと思います」
アイシャに知識と教養、そして愛を与えてくれたのは紛れもなくこの二人だ。アイシャは顔を上げると精一杯の笑顔で「大好きです」と伝えた。
子爵夫妻はそんな彼女を抱きしめて、静かに涙を流した。それは娘を嫁に出す親のような、寂しさからくる感情だろうか。それともこれから苦労するであろう彼女を思っての涙だろうか。
どちらにしても、その涙はアイシャを思うが故の涙だった。
「アイシャ。一年だ。一年だけでいい。真剣に男爵夫人になる努力をしてみなさい。彼の妻として生きる覚悟を持ちなさい。そして一年後、もしお前がどうしても彼の妻として生きていきたくないと思うのなら、その時は私の元にきなさい。私たちは子どももいないし、ここは部屋もたくさん余っているからね」
別れ際、馬車に乗り込む前。子爵はそんなことを言った。
それは、もし結婚生活がうまくいかなかった場合のお誘い。アイシャがあの伯爵家に出戻るなんてできないことを彼は理解しているのだ。
アイシャはもしもの時の逃げ道を用意してもらったことで、心が少し軽くなったのを感じた。
***
「アイシャ嬢。そろそろアッシュフォードのお屋敷です」
馬車と並走して馬を走らせる護衛のマルセルが、少し開いた窓の外からそう告げた。
窓から入り込む風は肌を刺すように冷たいが、とても澄んでいて、何故か心地良い。アイシャは大きく深呼吸して、その空気を吸い込んだ。
「ふう……」
男爵領に入ってから見えたのはだだ広いだけの寂れた街だった。
どこまでも広がる畑と閑散とした街には似合わない新しめの家屋。所々には戦争で焼けたのだろうと思われる家屋がそのままになっていて、この場所がまだ復興途中であることを感じさせる。
人はまばらで、どこか寂しげだ。家畜の鶏の鳴き声が良く響いた。
少し先にはシャトー山脈につながる森の入り口があり、そこから先はもう魔族領になる。危険がすぐそばにあるせいか、その手前に聳え立つ砦がやけに物々しく感じた。
(本当に、何もない……)
アイシャが思っていたよりもずっと、アッシュフォードはドがつくほどの田舎だった。当然ながら娯楽らしい娯楽はなく、また商店の数も少ない。食堂と宿屋、薬屋の存在は確認できたが、あとはわからない。何より、娯楽よりも明日何を食べるかが重要であるといった雰囲気がする。
恵まれた街でこれまでを過ごしてきたアイシャからすれば、アッシュフォードはとても寂しい町だった。
けれど……。
「とても、良いところね……」
アイシャの馬車を見ると爽やかな笑顔で手を振ってくれた人がいた。水仕事で赤切れだらけの手を振って、或いは採れたてのジャガイモを大きく掲げて、領主夫人になるアイシャを歓迎してくれた人がいた。
「男爵様はきっと、噂通りの人ではないのでしょうね」
アイシャは窓の外を眺めながらポツリと呟いた。
この地を治めているイアン・ダドリーはきっと良い領主なのだろう。それは民の顔を見れば良くわかる。
ならばアイシャとて、領主の妻として彼と同じように良い領主夫人にならねばならない。
(……もし良い妻になれたら、良い領主夫人になれたら、男爵様は私を愛してくれるかしら)
互いに望まない結婚。
けれど、頑張れば愛してもらえるだろうか。もしイアン・ダドリーが噂通りの人でないなら、今度こそ一番にしてもらえるだろうか。
仄かな期待がじんわりと、胸の奥深くに広がる。
アイシャは向かいに座るランを見つめた。
「この地で、私と一緒に頑張ってくれる?ラン」
「もちろんです!」
こうして、アイシャはようやく夫と対面することになった。
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