上 下
8 / 149
第一章 輪廻の滝で

7:噂話

しおりを挟む

 いくつかの領地を経由し、エレノア子爵領に入った頃には、魔族領との境にあるシャトー山脈がだいぶ大きく見えてきた。
 アイシャは今日、アッシュフォード男爵領から一番近い、ヴィルヘルムという街にあるエレノア子爵の別邸に泊まることになっている。
 ここで体を一日ほど休めて、明後日の朝には男爵の屋敷に入る予定だ。長かった7日間の移動もようやく終わる。

「そういえば、アイシャ。教会には顔を出したのか? ここに来たらいつも寄っていただろう?」
「はい。こちらについてすぐに」
「そうかそうか。それは良かった」
「司祭様は相変わらずお元気そうですね。安心しましたわ」
「彼は歳を取るごとに益々元気になるからな。不思議だ」
「ふふっ。ではやはり今も毎日鍛えていらっしゃるのかしら?しばらく見ないうちに司祭様というより、騎士様と言った方が良いくらいの体つきになっておられて、とても驚きました」
「毎朝、半裸で筋トレをしているそうだぞ。シスターが呆れ顔で話していた」
「毎朝、ですか。こちらの空気はもうだいぶ冷たいのに……。お風邪を召さないか心配ですわ」
「むしろ、一度くらい風邪でも引いてみると良いと思うよ。そうすればシスターも彼が人間である事を思い出すだろう」
「まあ、叔父様ったら」

 夕食の後、サロンで子爵夫妻とお茶をしていたアイシャは、変わり者の司祭のことを冗談めかして話す叔父に柔らかく微笑んだ。
 実家にいるよりも落ち着く空間。意味のない世間話も、心の底から楽しいと思える。
 アイシャは自分の中に黒く広がっていた、伯爵家に対する負の感情がゆっくりと浄化されていくような気がした。

「ところでアイシャ。君はアッシュフォードについてどのくらい知っているんだ?」
「……気候とか主産業とか、そういう基本的なことしか知りません。魔族襲撃後の状態は新聞などで少し見たくらいです」
「そうか。では今夜のうちにしっかりと覚悟をしておきなさい」
「覚悟、ですか?」
「ああ。アッシュフォードはここ、ヴィルヘルムと同じように街を燃やされた。今は男爵が復興に力を注いでいるが、あちらはここよりも被害が大きかったからな……」

 子爵は神妙な面持ちでそう話した。
 魔族の襲撃が始まってから実に5年。3年前に英雄であるイアン・ダドリーと彼が率いる傭兵団の活躍により帝国は見事勝利をおさめたが、それでも戦争の傷跡はそう簡単には消えてくれない。
 箱入りのアイシャには受け入れがたい光景もあるかもしれないと、子爵は心配しているようだ。
 確かに、アイシャ本人もその点は不安に思っていた。自分は裕福な家庭に育った箱入り娘で、あちらの生活に馴染めるか自信がない。
 
「……そうですね。環境もまるっきり違うわけですし、期待や先入観はゼロにしてアッシュフォードに向かいたいと思います」
「ああ、それがいい」
「……あの、叔父様。私からも一つお尋ねしたいことがあるのですが」
「ああ、何だい?」
「叔父様は、その……。男爵様をご存知ですか?」
「もちろん、知っているよ。何せ彼はこの地を救った英雄だからね」
「では、男爵様って……、どんな方なのでしょう?」

 悪い人でないと思いたい。けれど良い噂は聞かない。
 アッシュフォードが目前に迫り、大きくなる不安をどうにかしたくて、アイシャは意を決したように尋ねた。
 すると、子爵はフッと柔らかく微笑んだ。

「気になるのかい?」
「ええ、まあ。夫となる方ですのにお会いしたこともありませんので。それに……」
「よくない噂を聞いたのか?」
「……はい」
 
 イアンは戦闘狂で血も涙もなくて、とにかく恐ろしい男。ガサツで野蛮で、品性のかけらもない男。首都でも領地でも、そんな噂ばかり聞いた。
 もちろんこの噂話の全てが真実というわけではないだろう。しかし、火のないところに煙は立たないとも言う。
 
(せめて、女性に暴力を振るわない男でありますように……)

 なんて祈りながら、アイシャはなるべく上手くやっていきたいからイアンのことを教えて欲しいと懇願した。
 すると子爵は綺麗に伸びた白い髭を触りながら、夫人の顔を見て頷いた。

「我が妻よ。君はどう思う?」
「わたくしですか?そうですわねぇ……。たしかに、平民の出身だからか、作法に関してはまだまだ残念だと言わざるを得ないわ」
「なるほど……」
「あとは……、基本的には少し残念な人ね」
「残念?戦争の英雄がですか?」
「あ、でも、女性の扱いには慣れていないから、浮気の心配はないわ。デリカシーがないからか、モテないの」
「そう、なんですか?」
「あとは……そうねぇ。世話焼きな人、かしら。あの魔族の襲撃以来、備えあれば憂いなしって言っては度々我が子爵家の私兵を訓練したりしてくれるのよ?」
「それは、また魔族の襲撃があるかもしれないから、それに備えてってことですか?」
「ええ、そうよ。ただでさえ、平民から貴族になって色々と忙しいのに、それでも時間を作って訓練してくれるの。兵が強くないといざというときに民を守れないからって」
「そうなのですか……」
「そういえば……、その訓練をしてもらった時の姿はまさに鬼神だったわ。文字通り血も涙もないと言わざるを得ない感じだったわね」
「あ、やっぱり……」
「でも、笑うとすごく可愛いのよ?」
「……か、かわ?」

 予想と違いすぎる印象を次々と語る夫人にアイシャは困惑した。
 かわいいけれど鬼神で、戦争の英雄なのに残念とはどう言うことだろうか。
 そんなことを考えながらどんどん眉間に皺が寄っていくアイシャを見て、夫人は思わず吹き出した。

「ふふっ。アイシャ、淑女らしからぬ顔をしているわ」
「やだ……。申し訳ありません」

 アイシャはその指摘に恥ずかしそうに顔を伏せ、眉間の皺を伸ばす。夫人は不意に席を立つと、アイシャの椅子の前に膝をついて彼女の手を優しく握った。

「ねえ、アイシャ。貴女はわたくしが今言ったことを信じていないでしょう?」
「正直に申し上げるならば……、そうですね。噂とは違いすぎて何だか信じられません……」
「だったらあなたの質問は無意味だわ。彼がどんな人物であるのかはあなたが自分の目で確かめるしかない」
「……そう、ですね。申し訳ありません」
「いいえ、謝る必要はないわ。何もわからぬまま突然命じられて嫁ぐのだもの。不安から噂話を真に受けてしまうのも仕方がないわ」

 夫人はゆっくりと首を左右に振り、不安げな表情をするアイシャの頬を優しく撫でた。そして諭すように語る。
 
「ただね、アイシャ。噂は所詮噂なのよ。アイシャには自分の目で見たものを信じて欲しいわ」
「おばさま……」
「明日この屋敷を発ったら、今まで聞いてきた彼の噂は一旦忘れて、まっさらな状態で彼のことを見てあげて欲しいの。ね?」
「……はい。そうですね。噂を鵜呑みにしてはいけませんよね。人として大事なことを見失うところでした。ありがとうございます」
「ふふっ。アイシャは本当に素直でいい子ね」

 夫人はぎゅっとアイシャを抱きしめた。
 アイシャも夫人の背中に手を回して抱きしめ返す。

 思えば、実の母親よりも夫人に抱きしめてもらった回数の方が多いかもしれない。
 夫人が家庭教師をしてくれていた期間は社交界デビューをする少し前までの数年間だけだったのに、アイシャが生きてきた19年の人生の中でのたった数年間だけだったのに。
 それでも夫人は実の母親よりも母親らしかった。
 夫人の温かさに、アイシャの視界は涙でぼやけた。そして一筋、自分の目から雫がこぼれ落ちていることを自覚するとそこからは堰を切ったように大泣きした。
 こんなふうに感情を露わにするアイシャを見たのは本当に久しぶりだったからか、夫妻は悲痛な表情を浮かべながら、彼女を守るように二人でその弱々しい体を強く抱きしめた。

 その夜。アイシャは幼児のように、夫妻のベッドで彼らに挟まれて眠ったらしい。

 

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

俺の婚約者は地味で陰気臭い女なはずだが、どうも違うらしい。

ミミリン
恋愛
ある世界の貴族である俺。婚約者のアリスはいつもボサボサの髪の毛とぶかぶかの制服を着ていて陰気な女だ。幼馴染のアンジェリカからは良くない話も聞いている。 俺と婚約していても話は続かないし、婚約者としての役目も担う気はないようだ。 そんな婚約者のアリスがある日、俺のメイドがふるまった紅茶を俺の目の前でわざとこぼし続けた。 こんな女とは婚約解消だ。 この日から俺とアリスの関係が少しずつ変わっていく。

【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~

塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます! 2.23完結しました! ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。 相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。 ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。 幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。 好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。 そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。 それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……? 妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話 切なめ恋愛ファンタジー

それでも、私は幸せです~二番目にすらなれない妖精姫の結婚~

柵空いとま
恋愛
家族のために、婚約者である第二王子のために。政治的な理由で選ばれただけだと、ちゃんとわかっている。 大好きな人達に恥をかかせないために、侯爵令嬢シエラは幼い頃からひたすら努力した。六年間も苦手な妃教育、周りからの心無い言葉に耐えた結果、いよいよ来月、婚約者と結婚する……はずだった。そんな彼女を待ち受けたのは他の女性と仲睦まじく歩いている婚約者の姿と一方的な婚約解消。それだけではなく、シエラの新しい嫁ぎ先が既に決まったという事実も告げられた。その相手は、悪名高い隣国の英雄であるが――。 これは、どんなに頑張っても大好きな人の一番目どころか二番目にすらなれなかった少女が自分の「幸せ」の形を見つめ直す物語。 ※他のサイトにも投稿しています

【完結】捨てられた私が幸せになるまで

風見ゆうみ
恋愛
私、レティアは5歳の時に拉致され、私と似た公爵家の令嬢の身代わりをさせられる事になった。 身代わりの理由は公爵令嬢の婚約者が魔道士の息子だったから。 魔道士を嫌う公爵家は私を身代わりにし、大魔道士の息子、レイブンと会わせた。 私と彼は年を重ねるにつれ、婚約者だからではなく、お互いに恋心を持つ様になっていき、順調にいけば、私は彼と結婚して自由になれるはずだった。 そんなある日、本物の令嬢、レティシア様がレイブンを見たいと言い出した。 そして、入れ替わるはずだったはずの夜会に本人が出席する事になり、その夜会で、レティシア様はレイブンを好きになってしまう。 レイブンと結婚したいというレティシア様と、それを拒む公爵夫妻。 このままではレイブンと結婚できないと、私が邪魔になったレティシア様は、公爵夫妻に内緒で、私を治安の悪い貧民街に捨てた。 ※身代わりのレティアが自由を勝ち取り、レイブンと幸せになるまでのお話です。 ※史実とは関係なく、設定もゆるい、ご都合主義です。 ※中世ヨーロッパ風で貴族制度はありますが、法律、武器、食べ物などは現代風です。話を進めるにあたり、都合の良い世界観となっています。 ※話が合わない場合は、コメントは残さずに閉じてくださいませ。

【完結】聖女になり損なった刺繍令嬢は逃亡先で幸福を知る。

みやこ嬢
恋愛
「ルーナ嬢、神聖なる聖女選定の場で不正を働くとは何事だ!」 魔法国アルケイミアでは魔力の多い貴族令嬢の中から聖女を選出し、王子の妃とするという古くからの習わしがある。 ところが、最終試験まで残ったクレモント侯爵家令嬢ルーナは不正を疑われて聖女候補から外されてしまう。聖女になり損なった失意のルーナは義兄から襲われたり高齢宰相の後妻に差し出されそうになるが、身を守るために侍女ティカと共に逃げ出した。 あてのない旅に出たルーナは、身を寄せた隣国シュベルトの街で運命的な出会いをする。 【2024年3月16日完結、全58話】

【完結】王太子と宰相の一人息子は、とある令嬢に恋をする

冬馬亮
恋愛
出会いは、ブライトン公爵邸で行われたガーデンパーティ。それまで婚約者候補の顔合わせのパーティに、一度も顔を出さなかったエレアーナが出席したのが始まりで。 彼女のあまりの美しさに、王太子レオンハルトと宰相の一人息子ケインバッハが声をかけるも、恋愛に興味がないエレアーナの対応はとてもあっさりしていて。 優しくて清廉潔白でちょっと意地悪なところもあるレオンハルトと、真面目で正義感に溢れるロマンチストのケインバッハは、彼女の心を射止めるべく、正々堂々と頑張っていくのだが・・・。 王太子妃の座を狙う政敵が、エレアーナを狙って罠を仕掛ける。 忍びよる魔の手から、エレアーナを無事、守ることは出来るのか? 彼女の心を射止めるのは、レオンハルトか、それともケインバッハか? お話は、のんびりゆったりペースで進みます。

公爵令嬢の立場を捨てたお姫様

羽衣 狐火
恋愛
公爵令嬢は暇なんてないわ 舞踏会 お茶会 正妃になるための勉強 …何もかもうんざりですわ!もう公爵令嬢の立場なんか捨ててやる! 王子なんか知りませんわ! 田舎でのんびり暮らします!

雪解けの白い結婚 〜触れることもないし触れないでほしい……からの純愛!?〜

川奈あさ
恋愛
セレンは前世で夫と友人から酷い裏切りを受けたレスられ・不倫サレ妻だった。 前世の深い傷は、転生先の心にも残ったまま。 恋人も友人も一人もいないけれど、大好きな魔法具の開発をしながらそれなりに楽しい仕事人生を送っていたセレンは、祖父のために結婚相手を探すことになる。 だけど凍り付いた表情は、舞踏会で恐れられるだけで……。 そんな時に出会った壁の花仲間かつ高嶺の花でもあるレインに契約結婚を持ちかけられる。 「私は貴女に触れることもないし、私にも触れないでほしい」 レインの条件はひとつ、触らないこと、触ることを求めないこと。 実はレインは女性に触れられると、身体にひどいアレルギー症状が出てしまうのだった。 女性アレルギーのスノープリンス侯爵 × 誰かを愛することが怖いブリザード令嬢。 過去に深い傷を抱えて、人を愛することが怖い。 二人がゆっくり夫婦になっていくお話です。

処理中です...