上 下
6 / 149
第一章 輪廻の滝で

5:イアン・ダドリー・アッシュフォード(1)

しおりを挟む
 それはアイシャが生贄を言い渡されて数日後のこと。

 帝国の北部。魔族領との境に位置する小さな村の小さな屋敷で、領主イアン・ダドリー・アッシュフォードは皇宮から送られてきた手紙を眺めながら執務机に頬杖をついていた。
 今、彼の手元にある手紙はこれから嫁いでくるはずのブランチェット伯爵家の女が、妹から姉に変わったということを記した手紙だ。
 何でも、皇帝としては妹の方が器量良しだからそちらを送りたかったそうだが、病弱なために北部の気候には耐えられそうになく、代わりに姉の方を送ることにしたらしい。

「……その姉とやらは戦争の英雄である旦那様に好意を抱いていたらしく、代わりに嫁げることを大層喜んでいるそうです。彼女はとても地味な容姿をしていてその点においては妹に劣るけれど、アカデミー時代の成績は大変優秀で安心して内政を任せられるだろうし、持参金もはずむから旦那様にとって悪い話ではない……、という感じのことが書いてあります」
「……そうか」

 平民出身のため貴族特有の迂遠な言い回しが理解できないイアンの代わりに、手紙の内容を要約した彼の側近テオドールは、この国では珍しい深紅の瞳をゆっくりと閉じて小さくため息をこぼした。
 そして執事服のジャケットの襟を正すと、にっこりと胡散臭い笑顔を貼り付けた。

「さて、旦那様」
「……何だ?」
「申し上げてもよろしいでしょうか」
「ダメだ。絶対ダメ。言わないでくれ。多分傷つく」
「姉の方、アイシャ嬢というらしいのですが、調べたところかなり優秀な女性らしいですよ? 彼女に淑女教育を施したというエレノア子爵夫人や、アカデミー時代の担当教諭に聞きました」
「だから、言うなと……」
「アカデミー卒業後はあまり社交場に顔を出していないそうなので数少ない情報をもとに話しますが、性格は控えめで前に出過ぎることはなく、しかし意見を言わねばならない時にはきちんと発言ができる女性なのだとか。僕から見ても理想の花嫁ですね」
「……」
「わかってると思いますが、そんな明らかに引く手数多な良家の淑女が旦那様に憧れてるなんて話、あるわけないですからね?彼女はそんな事、1ミクロンも思ってるはずがありませんから。自惚れると大変なことに……」
「う、うるさいな!言われなくともわかっとるわっ!!」

 わかりきった忠告にイアンは手紙を丸めてゴミ箱に放り投げた。
 そんな由緒正しき伯爵家の賢くて控えめのお嬢様が、野蛮な元傭兵の妻になどなりたがるわけがない。
 自身が首都で戦場の悪魔だの戦闘狂だのと呼ばれていることを知っているイアンは、不貞腐れたように唇を尖らせた。

「ったく。そもそも、自分の側近の娘を俺の元に送るとか、皇帝はどういうつもりなんだ?」
「まあ単純に自身の懐の深さを見せたいが、かと言って自分の娘をこんな不便なところには送りたくないという打算と親心……。後は中央とのつながりを持たせて裏切らないようにしたいという保険、ですかね?」
「……俺は別に裏切るつもりなんてないのに。そんな余裕ないし」
「あなたに裏切るつもりがなくとも、皇帝陛下に反感を持つ貴族たちにあなた様が丸め込まれない保証はないでしょう?そうなったら、あなたは皇室にとって最も大きな脅威になります。……なんせ、血も涙もない戦場の悪魔ですから?」
「うるさい。別に好きで悪魔になったわけじゃないっての」

 5年前、突如として起こった魔族の襲撃。最初に狙われたのはこのアッシュフォードの地と、隣のヴィルヘルムという街だった。
 当時、ヴィルヘルムにいたイアンは躊躇することなく、自身の所属する傭兵団を率いて魔族軍と対峙した。領主のエレノア子爵が率いる私兵だけでは、首都からの援軍到着まで持ち堪えられないと直感したからだ。

「あの時は戦わなければ生き残れないと思ったから戦っただけなのに、なんで敵を薙ぎ倒しただけで悪魔なんて言われないといけないんだよ。殺さなきゃ殺されるような戦場だぞ?少しでも躊躇したら死ぬんだぞ?」
「まあまあ。戦場の辛さはその場にいた人にしか理解できませんから……、とフォローを入れたいところですが……」
「ですが?」
「僕ですら、旦那様のことが悪魔に見えたのでそのあだ名はあながち間違いではないかと。もう本当にどちらが魔族かわかりませんでしたからね」

 圧倒的に不利な戦況でも怯むことなく闘志を剥き出して敵陣に乗り込み、次々と敵の首を刈っては一度も後ろを振り返ることなく、ひたすら前に進み続ける様を見たら誰だって怖いと思うはずだ。あの時のイアンを思い出したのか、テオドールは苦笑した。

「人智を超えた魔の力を持つ魔族に対し、対等に渡り合えるだけの戦闘技術と並外れた体力に、きちんと生きて帰る事を計算しての完璧な戦略。そして何より。長引く戦争の中、並みの精神では心を壊しかねない劣悪かつ悲惨な環境の戦場にずっと身を置きながらも、決して怯むことなく敵大将の首を目指して前進し続けるだけの精神力。貴方本当に人間ですか?」
「人間だよ!」
「だって間違いなく、知能レベル以外は人間の域を超えているから」
「知能レベル以外は、ってどういう意味だよ!」
「そのままの意味ですが? ちなみに知能レベルはほぼ魔族です」
「なんで魔族!?」
「ほぼ人間ではないので!」
「ほぼ人間だよ!」
「……」
「……ち、ちがう。全部人間。間違えた」
人間な自覚がおありでしたか……。くっ……。あ、無理。笑いそう」
「もう笑ってんじゃねーか!」

 ただの言い間違いなのに腹を抱えて笑われたイアンは、恥ずかしさから顔を真っ赤にして机の上にあった万年筆を投げた。
 万年筆は一直線にテオドールの目に向かうが、テオドールはそれを軽く避け、人差し指と中指で受け止めるとそのままイアンの方に投げ返す。
 最終的に万年筆は緩やかな放物線を描いてイアンの執務机のペン立ての中に収まったのだった。

「やり返し方すらスマートで腹が立つ」
「お褒めの言葉と受け取っておきます」
「くそっ!お前をそばに置いたのは間違いだった!」
「はいはい。それより話が脱線しすぎましたので元に戻しますよ」

 テオドールはパンパンと手を叩いて、空気を変えた。
 イアンは不服そうな顔をしつつも、椅子の背もたれに背中を預けて腕を組み、話の続きを促した。

「まず初めに、この結婚はもう決まったことです。どうにも出来ません」
「言われなくともわかってる」
「では旦那様。流石にそろそろ準備をしませんとね?」
「……準備?結婚式のか?」
「それもありますが、それだけではありません」
「ん?他に何があるんだ?」

 妻を迎えるのには色々と準備が必要だ。ある程度の年齢になれば自然とそういう情報も耳に入ってくるはずなのだが、それを理解していないのか、イアンは純真無垢な子どものような目をして首を傾げる。
 テオドールはそんな察しの悪い彼に舌打ちした。
 
「いや、お前……舌打ちやめろよ。俺、領主だからな?お前より偉いからな?」 
「はいはい、そうですねー。偉い偉い」
「てめ……!馬鹿にしやがって!」

 拾われた恩も忘れて、こいつは本当に生意気な男である。イアンはこの尊大な態度に憤慨しつつも、内圧を下げるように深く息を吐き出し、気持ちを落ち着かせた。

「まあいい。それで?結婚式の準備以外に何があるんだよ」
「はああああああ……」
「そんな大きな声でため息をつくな。腹立つなぁ」
「……旦那様。旦那様はこんなシンプルイズベストを追求しすぎて装飾品の一つもないような、それこそ街のちょっと良い宿屋みたいな屋敷に、年頃のご令嬢を迎え入れることを何とも思わないんですか?」
「思わん」
「即答かよ。本当最低。だからあんたはモテないんだよ」

 テオドールは蔑みの視線をイアンに向けつつ、彼の目の前に書類を突きつけた。

「なんだ?これ」
「追加の予算案です」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

旦那様の様子がおかしいのでそろそろ離婚を切り出されるみたいです。

バナナマヨネーズ
恋愛
 とある王国の北部を治める公爵夫婦は、すべての領民に愛されていた。  しかし、公爵夫人である、ギネヴィアは、旦那様であるアルトラーディの様子がおかしいことに気が付く。  最近、旦那様の様子がおかしい気がする……。  わたしの顔を見て、何か言いたそうにするけれど、結局何も言わない旦那様。  旦那様と結婚して十年の月日が経過したわ。  当時、十歳になったばかりの幼い旦那様と、見た目十歳くらいのわたし。  とある事情で荒れ果てた北部を治めることとなった旦那様を支える為、結婚と同時に北部へ住処を移した。    それから十年。  なるほど、とうとうその時が来たのね。  大丈夫よ。旦那様。ちゃんと離婚してあげますから、安心してください。  一人の女性を心から愛する旦那様(超絶妻ラブ)と幼い旦那様を立派な紳士へと育て上げた一人の女性(合法ロリ)の二人が紡ぐ、勘違いから始まり、運命的な恋に気が付き、真実の愛に至るまでの物語。 全36話

【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~

塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます! 2.23完結しました! ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。 相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。 ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。 幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。 好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。 そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。 それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……? 妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話 切なめ恋愛ファンタジー

【完結】政略結婚だからと諦めていましたが、離縁を決めさせていただきました

あおくん
恋愛
父が決めた結婚。 顔を会わせたこともない相手との結婚を言い渡された私は、反論することもせず政略結婚を受け入れた。 これから私の家となるディオダ侯爵で働く使用人たちとの関係も良好で、旦那様となる義両親ともいい関係を築けた私は今後上手くいくことを悟った。 だが婚姻後、初めての初夜で旦那様から言い渡されたのは「白い結婚」だった。 政略結婚だから最悪愛を求めることは考えてはいなかったけれど、旦那様がそのつもりなら私にも考えがあります。 どうか最後まで、その強気な態度を変えることがないことを、祈っておりますわ。 ※いつものゆるふわ設定です。拙い文章がちりばめられています。 最後はハッピーエンドで終えます。

私は既にフラれましたので。

椎茸
恋愛
子爵令嬢ルフェルニア・シラーは、国一番の美貌を持つ幼馴染の公爵令息ユリウス・ミネルウァへの想いを断ち切るため、告白をする。ルフェルニアは、予想どおりフラれると、元来の深く悩まない性格ゆえか、気持ちを切り替えて、仕事と婚活に邁進しようとする。一方、仕事一筋で自身の感情にも恋愛事情にも疎かったユリウスは、ずっと一緒に居てくれたルフェルニアに距離を置かれたことで、感情の蓋が外れてルフェルニアの言動に一喜一憂するように…? ※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。

花婿が差し替えられました

凛江
恋愛
伯爵令嬢アリスの結婚式当日、突然花婿が相手の弟クロードに差し替えられた。 元々結婚相手など誰でもよかったアリスにはどうでもいいが、クロードは相当不満らしい。 その不満が花嫁に向かい、初夜の晩に爆発!二人はそのまま白い結婚に突入するのだった。 ラブコメ風(?)西洋ファンタジーの予定です。 ※『お転婆令嬢』と『さげわたし』読んでくださっている方、話がなかなか完結せず申し訳ありません。 ゆっくりでも完結させるつもりなので長い目で見ていただけると嬉しいです。 こちらの話は、早めに(80000字くらい?)完結させる予定です。 出来るだけ休まず突っ走りたいと思いますので、読んでいただけたら嬉しいです! ※すみません、100000字くらいになりそうです…。

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

【完結】記憶を失くした貴方には、わたし達家族は要らないようです

たろ
恋愛
騎士であった夫が突然川に落ちて死んだと聞かされたラフェ。 お腹には赤ちゃんがいることが分かったばかりなのに。 これからどうやって暮らしていけばいいのか…… 子供と二人で何とか頑張って暮らし始めたのに…… そして………

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

処理中です...