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CASE1:冴島あずさ
10:拗らせ女の罪と罰(10)
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抱えていたモノを吐き出したせいか、少し気が楽になったのかもしれない。千景の言葉は私の心にはすんなりと入ってきた。
私は電話を切り、沈む夕日を背にして静かに目を閉じる。
昼間の通り雨で濡れたアスファルトの匂いと、湿った空気、頬を撫でる生ぬるい風。遠くに聞こえる子どもの笑い声に踏切の音。五感で感じる全てのことが、いつもより抵抗なく私の体に入ってくる。
気圧の影響で痛む頭を除けば、今の私はすこぶる調子が良い。ここ最近では1番と言えるくらいに。
「さて、そろそろ晩御飯の支度をしなくちゃ」
今日の夕飯はツナと塩昆布の炊き込みご飯に豆腐のお味噌汁、あとは鶏肉のみぞれ煮とササミと牛蒡のサラダ、それから高野豆腐の卵とじ。
もうほとんど準備を終わらせているので後は仕上げだけだ。
私は残っていたコーヒーを飲み干し、背伸びをした。
すると、静かな室内から玄関の鍵を開ける音がした。聡だ。いつもより早い帰宅に私は首を傾げた。
「………あずさ!?」
帰宅した聡はベランダに立つ私の姿を見るなり、血相を欠いて駆け寄って来た。
そして私の腕に手を伸ばすと力任せに室内に引き込んだ。
よろけた私の手からはマグカップが落ちる。運悪くベランダ側に落ちたマグカップは大きな音を立てて割れた。
「何してんだよ!?」
聡は私を力一杯抱きしめて怒る。彼の肩は小刻みに震えていた。
「え、聡?どうし……」
「そんなところで何してんだよ……」
「別に電話してただけだよ?」
「まさか、母さんか!?また何か言われたのか!?」
「いや、違……」
「ごめん!」
「……んん?何が?」
「ずっと気づかなくてごめん。そこまで追い詰めらているなんて思わなかったんだ」
「……えーっと?ん?」
「俺は人より鈍いから、君の疲弊した心に気付けなかった。君の微笑みがいつも穏やかであったのを、そのまま受け取って解釈していた。まさかそれが精一杯の強がりだったなんて思ってもみなかったんだ」
「あの、聡……。どういうこと?」
「飛び降りるつもりだったのか?」
「……はい?」
「俺を置いて、俺一人置いて死ぬつもりだったんだろう?」
頼むから、置いていかないでくれ。聡はそう言って私のことをさらに強く抱きしめた。骨が軋むくらいに強く。とても強く。
「さ、聡。痛い」
「あ……、ごめん」
力が弱まる。聡の顔を覗き込むと、今にも泣き出しそうな顔をしていた。いつもニコニコとしている彼のこんな顔を私は見たことがない。
「もしかして、私が死ぬと思ったの?」
「うん」
「ど、どうしてそう思うの?」
「だってこの間、…………遺書を書いただろう?」
「!?」
私は驚き、咄嗟に聡から距離を取った。緊張で手に汗が滲む。
「はは……。その反応、やっぱりあれは遺書だったのか」
「い、いや、その……」
「誤魔化さなくていいよ」
「……どうして知ってるの?」
「偶然見つけたんだ。この前の休みの日、掃除したら君の部屋のゴミ箱からくしゃくしゃなった便箋を」
「……そう」
「ダメだとわかっていた。でも何だか嫌な予感がして……。どうしても見なきゃいけない気がして……。気づいたらゴミ箱を漁っていた」
聡は怒ってくれて構わないと申し訳なさそうに頭を下げるが、不思議と怒りは湧かなかった。
むしろ怒るべきは聡の方なのにとも思った。
「べ、別に何となく書いただけなのよ。ただ何となく吐き出したかっただけで……」
珍しく陽が昇る前に目が覚めた日のこと。朝の光を待つ暗闇の中で無性に死にたくなった私は、どうせ死ぬなら全てをぶちまけて楽になりたいという思いから衝動的に手紙を書いた。
怠惰で愚かな私の身勝手な行いに対する身勝手な懺悔の手紙だ。
冷静になって考えてみれば、それはとても身勝手な告白だった。ただでさえ辛いパートナーの死を味わった男に、追い打ちをかけるように『あなたのことなんて好きじゃなかった』と告げるなんて最早鬼の所業。だから私はあの手紙を捨てた。
「本当に何でもないの。本気で死にたいと思ってたわけじゃない。でも……、でも……。ははは……。そっかぁ、読んだのかぁ」
自然と乾いた笑みが溢れる。これは多分諦めからくる笑みだ。
聡には離婚したい理由を『子どもが出来ないからだ』と伝えるつもりだった。間違っても打算で結婚したことは言わないつもりだった。
だって聡は私のことが好きだから、私に愛していないと言われるのは辛いはず。どうせ別れるのだから、無駄に傷つけたくはなかった。
「聡、あのね……」
「あずさは……、死ぬの?」
気がつくと、聡は片方の目から涙を流していた。とても苦しそうに私を見ていた。
「ねえ、死ぬの?」
「し、死なないよ。さっきも言ったけど別に、本気で死ぬつもりがあったわけじゃない。ただCoccoのね、『遺書』って曲を聞いてたら何となく書きたくなったの。本当に、ただそれだけ」
「本当に?」
「本当だよ」
私が心配しないでと笑って見せると、聡は安堵したように大きなため息をこぼして、私をそっと抱き寄せた。
彼の服からは私が好きなシトラスの香りがした。とても落ち着く香りだ。
私はずっとこのまま、この腕の中にいたいと思ってしまった。
ーーーそんなの、だめだ。
私は聡の胸を軽く押した。
「あずさ……?」
「遺書。全部読んだのなら、わかるでしょ?」
「何が?」
「何がって……。聡はもう、私があなたと結婚した理由も子どもを欲しがった理由も全部、知ってるんでしょう?」
「うん」
「私は打算で結婚した。聡の好意を利用したの。こんな最低な女はあなたに相応しくないわ。だから私と別れ……」
「嫌だよ。別れない」
「……は?」
間髪入れずに離婚を拒否した聡を私は理解できなかった。
聡は目を丸くする私を見て、もう一度「嫌だ。別れない」と言った。
「な……んで?」
「好きだからだよ」
「好きって……。聡は利用されてたんだよ?私が楽な生活をするために利用されてたんだよ?それなのにどうしてまだ好きだなんて言えるのよ!?」
「どうしてと言われても、好きなものは好きなんだから仕方がないだろう」
「信じられない。……あ、もしかしてまだ勘違いしてるとか?私に好かれてるって。だったらごめんなさいね。私はあなたを愛してはいないわ。愛していないのに愛しているフリをしてるだけよ?」
「別にそれでもいいよ」
「なっ!?良くない、良くないよ!!何を言ってるの!?ダ、ダメだよ!!」
「ははっ。焦ってる。可愛い。けど無理しなくていい。君に悪女は似合わないよ」
「はあ!?何を言って……!?」
「好きだよ、あずさ。愛してる」
「おかしい。聡はどうかしてるわ」
「そうかな?」
「そうよ。だって……。だって私といてもあなたはこんな最低女に搾取され続けるだけよ?」
「そんなことないよ。俺はあずさから多くのものをもらってる。俺たち夫婦の関係は、あずさが思っているほど片方に負担がかかっているような関係じゃない。ちゃんとバランスの取れた対等な関係だよ」
「そんなことない。だって私は働いてないし……」
「働いていないんじゃない。働けないんだ。お医者さまからまだ就労の許可は出ていないだろう」
「先生はまだやめた方がいいと言っただけよ。働こうと思えば働ける」
「働こうとする君を止めたのは俺だ」
「でも……」
「それに、君は確かに外で仕事はしていないかもしれないが、家事はちゃんとこなしているだろう。食事は一汁三菜を基本として、栄養が偏らないよう考えられてる。もちろん体調の優れない日は出来ていないこともあるけど、そんな日はあんまりない」
「それは料理は好きだからで……」
「俺は君のおかげで外食が減って健康になった。ありがとう」
「やめてよ。お礼とか……。ねえ、聡。でもね、そうやって言ってくれるけど、やっぱり私といても良いことなんてないよ」
「どうして?」
「だ、だって……。私といてもあなたは……、ち、父親になれないかもしれないんだよ?」
自分で言って、胸が苦しくなった。うまく呼吸ができない。
気がつくと私は嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちていた。
聡は膝をつき、自分を抱きしめるように小さく体を丸める私の背中を優しくさすってくれる。
けれど今の私にはその優しさが辛い。苦しい。死にたい。
「やめて……」
「あずさ、落ち着いて。大丈夫だよ。大丈夫だから」
「や、やめてよ。優しくしないで!もっと雑に扱ってよ!嘘つき女って罵って!子どもも産めない役立たずと罵倒してよ!!私はあなたに優しくされる資格なんてないのよ!!」
「あずさ……」
「別れてよ。ねえ、お願い。離婚して。私は聡を不幸にしたくはないの。……あなたには幸せになって欲しいの」
好きじゃない。愛してもいない。
でも、この世界中の誰よりも幸せになって欲しいと願ってる。
「あなたは私なんかにはもったいない」
「あずさ、俺の幸せは君の側にいることだよ」
「そういうの、いらない。そんなわけない。私なんかが側にいて幸せになれるわけない」
「それは君が決めることじゃない。俺の幸せは俺が決めるよ」
「でもきっと、100人に聞いたら100人がこう言うわ。お前は聡に相応しくないって。だから……」
「誰に何を言われようとも俺の幸せはここにある。あずさが隣にいなきゃ、俺は幸せになれない」
聡はハッキリとそう言い切った。
その言葉が嬉しいと思ってしまう浅ましい自分が、私は大嫌い。
意志の弱い女。彼の優しい気遣いに流されたくなる。
「優しくしないで。困る……」
「別に優しさとかじゃないんだけどな。どう言ったら信じてもらえるのかな」
聡は俯く私の頬を両手で覆い、顔を上げさせた。そして小さくため息をついて、困ったように笑う。
「好きだよ、あずさ」
「……聡」
「どうか自分を責めないでくれ」
「でも!でも私は子どもが……」
「俺は子どもが欲しくて結婚したわけじゃないよ。……それにね、あずさ。君は俺との結婚には打算があったと申し訳なさそうに言うけれど、俺はそれの何がいけないのかわからない」
「……え?」
「結婚ってさ、恋愛とは違って、ただ好きだという感情だけでできるものじゃないだろう?ほら、結婚相談所とかを思い浮かべてみて?」
結婚相談所では相手の年収や年齢、生活スキルや実家のことなどあらゆる条件を挙げて、相手を選ぶ。そうやって理想の相手を選び、デートを重ねながら相手の人となりや価値観を知っていき、最終的に色んなことを妥協しながら結婚を決める。
「つまりさ。そこには少なからず、打算が存在していると俺は思うんだ」
「それは……、そうかもしれないけど」
「あずさは俺のことを恋愛する相手としてじゃなく、結婚相手として選んでくれた。あずさの条件に俺がマッチした。タイミングも合った。だから結婚した。ただそれだけのことだと俺は思ってる」
「……それはちょっと都合の良いように捉えすぎだと思う」
「ははっ。そうかな?」
「そうだよ」
「でも本当に打算とか、そんなこと気にする必要ないんだよ。それに君が俺に懺悔するのなら、俺も君に謝らなきゃいけない」
「どういうこと?」
「打算なら俺にもあったから」
そう言うと聡は少し気まずそうに俯いて、ゆっくりと話し始めた。
私は電話を切り、沈む夕日を背にして静かに目を閉じる。
昼間の通り雨で濡れたアスファルトの匂いと、湿った空気、頬を撫でる生ぬるい風。遠くに聞こえる子どもの笑い声に踏切の音。五感で感じる全てのことが、いつもより抵抗なく私の体に入ってくる。
気圧の影響で痛む頭を除けば、今の私はすこぶる調子が良い。ここ最近では1番と言えるくらいに。
「さて、そろそろ晩御飯の支度をしなくちゃ」
今日の夕飯はツナと塩昆布の炊き込みご飯に豆腐のお味噌汁、あとは鶏肉のみぞれ煮とササミと牛蒡のサラダ、それから高野豆腐の卵とじ。
もうほとんど準備を終わらせているので後は仕上げだけだ。
私は残っていたコーヒーを飲み干し、背伸びをした。
すると、静かな室内から玄関の鍵を開ける音がした。聡だ。いつもより早い帰宅に私は首を傾げた。
「………あずさ!?」
帰宅した聡はベランダに立つ私の姿を見るなり、血相を欠いて駆け寄って来た。
そして私の腕に手を伸ばすと力任せに室内に引き込んだ。
よろけた私の手からはマグカップが落ちる。運悪くベランダ側に落ちたマグカップは大きな音を立てて割れた。
「何してんだよ!?」
聡は私を力一杯抱きしめて怒る。彼の肩は小刻みに震えていた。
「え、聡?どうし……」
「そんなところで何してんだよ……」
「別に電話してただけだよ?」
「まさか、母さんか!?また何か言われたのか!?」
「いや、違……」
「ごめん!」
「……んん?何が?」
「ずっと気づかなくてごめん。そこまで追い詰めらているなんて思わなかったんだ」
「……えーっと?ん?」
「俺は人より鈍いから、君の疲弊した心に気付けなかった。君の微笑みがいつも穏やかであったのを、そのまま受け取って解釈していた。まさかそれが精一杯の強がりだったなんて思ってもみなかったんだ」
「あの、聡……。どういうこと?」
「飛び降りるつもりだったのか?」
「……はい?」
「俺を置いて、俺一人置いて死ぬつもりだったんだろう?」
頼むから、置いていかないでくれ。聡はそう言って私のことをさらに強く抱きしめた。骨が軋むくらいに強く。とても強く。
「さ、聡。痛い」
「あ……、ごめん」
力が弱まる。聡の顔を覗き込むと、今にも泣き出しそうな顔をしていた。いつもニコニコとしている彼のこんな顔を私は見たことがない。
「もしかして、私が死ぬと思ったの?」
「うん」
「ど、どうしてそう思うの?」
「だってこの間、…………遺書を書いただろう?」
「!?」
私は驚き、咄嗟に聡から距離を取った。緊張で手に汗が滲む。
「はは……。その反応、やっぱりあれは遺書だったのか」
「い、いや、その……」
「誤魔化さなくていいよ」
「……どうして知ってるの?」
「偶然見つけたんだ。この前の休みの日、掃除したら君の部屋のゴミ箱からくしゃくしゃなった便箋を」
「……そう」
「ダメだとわかっていた。でも何だか嫌な予感がして……。どうしても見なきゃいけない気がして……。気づいたらゴミ箱を漁っていた」
聡は怒ってくれて構わないと申し訳なさそうに頭を下げるが、不思議と怒りは湧かなかった。
むしろ怒るべきは聡の方なのにとも思った。
「べ、別に何となく書いただけなのよ。ただ何となく吐き出したかっただけで……」
珍しく陽が昇る前に目が覚めた日のこと。朝の光を待つ暗闇の中で無性に死にたくなった私は、どうせ死ぬなら全てをぶちまけて楽になりたいという思いから衝動的に手紙を書いた。
怠惰で愚かな私の身勝手な行いに対する身勝手な懺悔の手紙だ。
冷静になって考えてみれば、それはとても身勝手な告白だった。ただでさえ辛いパートナーの死を味わった男に、追い打ちをかけるように『あなたのことなんて好きじゃなかった』と告げるなんて最早鬼の所業。だから私はあの手紙を捨てた。
「本当に何でもないの。本気で死にたいと思ってたわけじゃない。でも……、でも……。ははは……。そっかぁ、読んだのかぁ」
自然と乾いた笑みが溢れる。これは多分諦めからくる笑みだ。
聡には離婚したい理由を『子どもが出来ないからだ』と伝えるつもりだった。間違っても打算で結婚したことは言わないつもりだった。
だって聡は私のことが好きだから、私に愛していないと言われるのは辛いはず。どうせ別れるのだから、無駄に傷つけたくはなかった。
「聡、あのね……」
「あずさは……、死ぬの?」
気がつくと、聡は片方の目から涙を流していた。とても苦しそうに私を見ていた。
「ねえ、死ぬの?」
「し、死なないよ。さっきも言ったけど別に、本気で死ぬつもりがあったわけじゃない。ただCoccoのね、『遺書』って曲を聞いてたら何となく書きたくなったの。本当に、ただそれだけ」
「本当に?」
「本当だよ」
私が心配しないでと笑って見せると、聡は安堵したように大きなため息をこぼして、私をそっと抱き寄せた。
彼の服からは私が好きなシトラスの香りがした。とても落ち着く香りだ。
私はずっとこのまま、この腕の中にいたいと思ってしまった。
ーーーそんなの、だめだ。
私は聡の胸を軽く押した。
「あずさ……?」
「遺書。全部読んだのなら、わかるでしょ?」
「何が?」
「何がって……。聡はもう、私があなたと結婚した理由も子どもを欲しがった理由も全部、知ってるんでしょう?」
「うん」
「私は打算で結婚した。聡の好意を利用したの。こんな最低な女はあなたに相応しくないわ。だから私と別れ……」
「嫌だよ。別れない」
「……は?」
間髪入れずに離婚を拒否した聡を私は理解できなかった。
聡は目を丸くする私を見て、もう一度「嫌だ。別れない」と言った。
「な……んで?」
「好きだからだよ」
「好きって……。聡は利用されてたんだよ?私が楽な生活をするために利用されてたんだよ?それなのにどうしてまだ好きだなんて言えるのよ!?」
「どうしてと言われても、好きなものは好きなんだから仕方がないだろう」
「信じられない。……あ、もしかしてまだ勘違いしてるとか?私に好かれてるって。だったらごめんなさいね。私はあなたを愛してはいないわ。愛していないのに愛しているフリをしてるだけよ?」
「別にそれでもいいよ」
「なっ!?良くない、良くないよ!!何を言ってるの!?ダ、ダメだよ!!」
「ははっ。焦ってる。可愛い。けど無理しなくていい。君に悪女は似合わないよ」
「はあ!?何を言って……!?」
「好きだよ、あずさ。愛してる」
「おかしい。聡はどうかしてるわ」
「そうかな?」
「そうよ。だって……。だって私といてもあなたはこんな最低女に搾取され続けるだけよ?」
「そんなことないよ。俺はあずさから多くのものをもらってる。俺たち夫婦の関係は、あずさが思っているほど片方に負担がかかっているような関係じゃない。ちゃんとバランスの取れた対等な関係だよ」
「そんなことない。だって私は働いてないし……」
「働いていないんじゃない。働けないんだ。お医者さまからまだ就労の許可は出ていないだろう」
「先生はまだやめた方がいいと言っただけよ。働こうと思えば働ける」
「働こうとする君を止めたのは俺だ」
「でも……」
「それに、君は確かに外で仕事はしていないかもしれないが、家事はちゃんとこなしているだろう。食事は一汁三菜を基本として、栄養が偏らないよう考えられてる。もちろん体調の優れない日は出来ていないこともあるけど、そんな日はあんまりない」
「それは料理は好きだからで……」
「俺は君のおかげで外食が減って健康になった。ありがとう」
「やめてよ。お礼とか……。ねえ、聡。でもね、そうやって言ってくれるけど、やっぱり私といても良いことなんてないよ」
「どうして?」
「だ、だって……。私といてもあなたは……、ち、父親になれないかもしれないんだよ?」
自分で言って、胸が苦しくなった。うまく呼吸ができない。
気がつくと私は嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちていた。
聡は膝をつき、自分を抱きしめるように小さく体を丸める私の背中を優しくさすってくれる。
けれど今の私にはその優しさが辛い。苦しい。死にたい。
「やめて……」
「あずさ、落ち着いて。大丈夫だよ。大丈夫だから」
「や、やめてよ。優しくしないで!もっと雑に扱ってよ!嘘つき女って罵って!子どもも産めない役立たずと罵倒してよ!!私はあなたに優しくされる資格なんてないのよ!!」
「あずさ……」
「別れてよ。ねえ、お願い。離婚して。私は聡を不幸にしたくはないの。……あなたには幸せになって欲しいの」
好きじゃない。愛してもいない。
でも、この世界中の誰よりも幸せになって欲しいと願ってる。
「あなたは私なんかにはもったいない」
「あずさ、俺の幸せは君の側にいることだよ」
「そういうの、いらない。そんなわけない。私なんかが側にいて幸せになれるわけない」
「それは君が決めることじゃない。俺の幸せは俺が決めるよ」
「でもきっと、100人に聞いたら100人がこう言うわ。お前は聡に相応しくないって。だから……」
「誰に何を言われようとも俺の幸せはここにある。あずさが隣にいなきゃ、俺は幸せになれない」
聡はハッキリとそう言い切った。
その言葉が嬉しいと思ってしまう浅ましい自分が、私は大嫌い。
意志の弱い女。彼の優しい気遣いに流されたくなる。
「優しくしないで。困る……」
「別に優しさとかじゃないんだけどな。どう言ったら信じてもらえるのかな」
聡は俯く私の頬を両手で覆い、顔を上げさせた。そして小さくため息をついて、困ったように笑う。
「好きだよ、あずさ」
「……聡」
「どうか自分を責めないでくれ」
「でも!でも私は子どもが……」
「俺は子どもが欲しくて結婚したわけじゃないよ。……それにね、あずさ。君は俺との結婚には打算があったと申し訳なさそうに言うけれど、俺はそれの何がいけないのかわからない」
「……え?」
「結婚ってさ、恋愛とは違って、ただ好きだという感情だけでできるものじゃないだろう?ほら、結婚相談所とかを思い浮かべてみて?」
結婚相談所では相手の年収や年齢、生活スキルや実家のことなどあらゆる条件を挙げて、相手を選ぶ。そうやって理想の相手を選び、デートを重ねながら相手の人となりや価値観を知っていき、最終的に色んなことを妥協しながら結婚を決める。
「つまりさ。そこには少なからず、打算が存在していると俺は思うんだ」
「それは……、そうかもしれないけど」
「あずさは俺のことを恋愛する相手としてじゃなく、結婚相手として選んでくれた。あずさの条件に俺がマッチした。タイミングも合った。だから結婚した。ただそれだけのことだと俺は思ってる」
「……それはちょっと都合の良いように捉えすぎだと思う」
「ははっ。そうかな?」
「そうだよ」
「でも本当に打算とか、そんなこと気にする必要ないんだよ。それに君が俺に懺悔するのなら、俺も君に謝らなきゃいけない」
「どういうこと?」
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