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八十五 律の不在
しおりを挟むバーベキューを始めるころには、もういつもの河井さんだった。けど、もう一緒にパンケーキを食べた河井さんではなく、『総務の河井さん』だった。それを寂しいとは思わないけれど、俺の行動がそうしてしまったという事実に少しだけセンチメンタルな気分になる。
(元々、律から離れるためにやったことだった)
俺が、傷つく資格などないし、引きずる資格もないのだと思う。河井さんがそうしてくれるように、俺も会社の同僚として、友人として、彼女に向き合うべきなんだろうと思う。
バーベキューに来ることは憂鬱だったけれど、今は来て良かったと思う。河井さんはちょっとお姉さんで、俺のダメなところをちゃんと知っている。律を大切にしなきゃダメだ。我慢させちゃダメだ。話も聞こう。俺は律に甘えっぱなしで、律の気持ちを考えてこなかった気がする。
スマートフォンの中に残る、律の写した写真を思い出す。『死ね』と書かれた律の本音。いつだって俺は、律に我慢させてばっかりだ。今日のことだって、律に我慢させてしまった。
(帰ったら、ちゃんと、話そう)
バーベキューの話をして、河井さんのことを話そう。
そして、律の話を、ちゃんと聞くんだ。
◆ ◆ ◆
寮に戻るのは、大分遅くなってからだった。夕飯の時間などとっくに過ぎ、門限ギリギリの帰宅だ。キャンプ場が遠かったため、仕方がないが、律が不機嫌になっていないかが心配だった。
玄関をくぐり抜け、エントランスを通る。途中、アイスの棒を咥える宮脇に出会った。
「おう。お帰り~」
「おー。アイス良いな」
「やらんぞ。どうだった、キャンプは」
「良かった。今度はみんなで行こうぜ」
「えー、野郎どもばっかりでキャンプとか嫌なんだが」
「じゃあお前は留守番な」
「いやいや、行くって!」
宮脇をからかいつつ、気持ちはソワソワとする。早く、律に逢いたい。顔を見て、キスして、たくさん話したい。
「じゃ、俺、律のとこ行くから」
「あ? 吉永なら、外出してるぞ」
「え? そうなの? もう門限なのに」
コンビニにでも行ったのだろうかと、首を捻る。宮脇が「いや」と首を振った。
「出掛けたんだよ。夕方くらいに。外泊申請出してたから、今日は戻って来ないと思うぞ?」
「――は?」
なんだ、それ。聞いてない。
そう思って、ハッとしてスマートフォンを開く。メッセージアプリの通知はダイレクトメールばかりで、気にしていなかった。
(あっ……)
三時間前に、メッセージが入っている。
『急用出来て出掛けて来るよん。今日は実家に泊まってくるわ~』
という、気が抜けるようなメッセージとともに、可愛らしい猫のスタンプが貼られていた。
(実家か……。なんかあったかな)
いや、俺と違って、律は普通に実家に帰ることがある。旅行に行ったときはお土産をおきに帰っていたし、荷物を取りにも帰る。なにかがあったと言うより、何かのついでに寄ったのだろう。
「なんだ、居ないのか」
ボソッと呟く俺に、宮脇は最後のアイスをぱくんと飲み込み、頷いた。
「そうそう。なんか、お迎え来てたわ」
「迎え?」
「ん。OBらしいよ。夕暮れ寮の」
その言葉に、ザワリと背筋が粟立った。脳裏に浮かんだのは、一人の男だ。
「――そいつ、もしかして、俺にちょっと似てたりする?」
ドクドクと、心臓が鳴る。
頼む、違うと言ってくれ。
「あ? ああ――」
ドクン、ドクン。
「言われてみれば、ちょっと似てるかも?」
ハハッ。そう笑う宮脇の声が、急に遠くなる気がした。
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