上 下
72 / 96
2

七十 痛み

しおりを挟む


 知らない。

 俺の知らない、吉永の顔。

 律と呼ばれ、石黒と過ごした日々を、俺は知らない。どんな風に笑ったのか。どんな風に触れたのか。

『迎えに来るって約束しただろ』

 石黒の声が、脳内にこだまする。

 置いていったって、なんだ。迎えに来るって、どう言うことだ。

 心臓がぎゅうぎゅうと締め付けられる。痛くて、痛くて、苦しくて。

 もしかしたら、吉永は石黒を待っていたんだろうか。長い間、寮にいた理由は、石黒を待っていたからなんだろうか。

 拗ねるなよ。そう言った、石黒の声がよみがえる。怖くて、吉永の顔を見られなかった。

 耳鳴りが酷い。ズキズキ痛む。

 ハァハァと息を荒らげ、廊下を走る。逃げるように、否定するように。

 嫌な妄想が、頭を過る。

 自分に、やけに良く似た石黒が、吉永の傍に立つのが気持ち悪かった。

 もしかして。もしかして、俺は、石黒の代わりだったんだろうか。石黒が居なくなった隙間に埋められた、代用品。

 抱き締めた身体も、柔らかい髪も、俺のものじゃなかったら。

 心臓が、破けて血が流れそうだ。このまま倒れて、死んでしまいたい。

(ああ――)

 胸を掴み、込み上げる嗚咽を呑み込む。

 気づいてしまった。気がついて、しまった。

「――吉永、俺に、好きだって――言ったこと、ねぇや……」

 吉永が、俺を好きだと、愛してると言ったことが、あっただろうか。あんなに肌を重ねても、一度も言われたことがないことに、今さら気がつく。

 どしゃ降りに、降られたような気分だった。全てがどうでも良く、暗い気持ちがのし掛かる。

 いつの間にか会場まで戻ってきた俺は、扉の前で立ち尽くした。この扉を開けて、社会人として普通に振る舞えることが、出来る気がしない。

 そうやって呆然と立っていると、不意に会場の扉が開いた。

「?」

 扉の隙間から、河井さんが顔を出す。俺を見つけて、小走りにやってきた。

「    」

 河井さんが何かを言う。口の動きで『久我くん』と言ったのが解った。でも、聞こえない。

「―――」

 耳に手を伸ばす。ずくん、ずくんと、鈍く痛む気がした。河井さんの声が、すごく遠い。

 河井さんは顔をしかめ、俺の顔を覗き込む。何かを察した顔をして、何か二三言声をかけると、会場に戻っていった。ほどなくして、河井さんが再びやって来る。今度は藤宮と一緒だった。

 藤宮が顔を覗き込んでくる。

「~~~」

「すみません、聴こえないです」

 顔をしかめながら、聴こえないと訴える。藤宮がスマートフォンの画面を見せた。

『病院に連れていく』

 病院。戸惑う俺に、藤宮は河井さんと何か話すと、俺の手を引いた。河井さんは心配そうに見送っていた。

 廊下を歩く間、藤宮が付き添ってくれた。耳が不調だと、歩きにくいのだと知った。

 途中、吉永がこちらに気がついて首をかしげるのが目に入った。俺は気づかなかったふりをして、そのまま会場を抜け出した。



   ◆   ◆   ◆



「今も聴こえないかな?」

「……さっきよりは聴こえてます」

 連れられた病院で待つ間に、少し症状が落ち着いてきた。まだハッキリとは聴こえないが、先程よりずっと良い。

「うん。多分ストレスだね」

 医者の話では、一週間は安静にするようにとのことだった。違和感のある耳が気になったが、仕方がない。

(ストレスか……)

 原因など、解りきっている。溜め息が口から漏れでた。

「今日はもう寮に戻った方が良いな。送っていこう」

「何から何まですみません」

 藤宮には世話になってしまった。内心、会場に戻りたくなかったので、ちょうど良い。

 藤宮の運転する車に揺られながら、ボンヤリと外の景色を眺める。流れていく車の音は聴こえてこず、一人だけ世界から取り残されているみたいだった。

 寮に到着し、藤宮に肩を叩かれ促される。施錠された玄関を開けて貰い、エントランスに入る。

 藤宮はスマートフォンを取り出して、画面を見せながら会話してきた。

『俺は会場に戻るが、大丈夫か? 誰か寄越そうか』

「大丈夫です。大人しく部屋にいます。ありがとうございました」

 誰かに付き添って貰うようなことじゃないし、何より今は一人になりたかった。

 それじゃあ、と立ち去る藤宮の背中を見ながら、ふとポツリ呟く。

「あの――吉永って、昔――」

 藤宮が振り返り、首をかしげた。

「いや、何でもないです」

 藤宮はまだ気にしていたが、手を振る俺に「お大事に」と口を動かすと、玄関口から出ていった。

 明かりのついていない、薄暗いエントランスに一人立つ。急に物寂しさが出てきて、胸がざわついた。静かなせいで、余計に耳が気になる。

「……部屋、戻るか」

 まだ身体の感覚がおかしい気がする。手すりを頼りに階段を上り、部屋へと向かった。

 部屋に入り、明かりを点けてそのままベッドに横たわる。スーツが皺になると過ったが、億劫だった。ネクタイを緩め、ポケットに手を伸ばす。

(朝、ネクタイを結んでくれたときは、幸せだったのに……)

 石黒の顔が過って、胸がモヤモヤした。

 スマートフォンを手に取る。通知が入っていた。河井さんから『大丈夫?』と入っている。もう一件は、吉永だった。

『何かあった?』

 胸がズキリと痛んで、俺はベッドにスマートフォンを放り投げ、瞳を閉じた。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

初体験

nano ひにゃ
BL
23才性体験ゼロの好一朗が、友人のすすめで年上で優しい男と付き合い始める。

少年ペット契約

眠りん
BL
※少年売買契約のスピンオフ作品です。 ↑上記作品を知らなくても読めます。  小山内文和は貧乏な家庭に育ち、教育上よろしくない環境にいながらも、幸せな生活を送っていた。  趣味は布団でゴロゴロする事。  ある日学校から帰ってくると、部屋はもぬけの殻、両親はいなくなっており、借金取りにやってきたヤクザの組員に人身売買で売られる事になってしまった。  文和を購入したのは堂島雪夜。四十二歳の優しい雰囲気のおじさんだ。  文和は雪夜の養子となり、学校に通ったり、本当の子供のように愛された。  文和同様人身売買で買われて、堂島の元で育ったアラサー家政婦の金井栞も、サバサバした性格だが、文和に親切だ。  三年程を堂島の家で、呑気に雪夜や栞とゴロゴロした生活を送っていたのだが、ある日雪夜が人身売買の罪で逮捕されてしまった。  文和はゴロゴロ生活を守る為、雪夜が出所するまでの間、ペットにしてくれる人を探す事にした。 ※前作と違い、エロは最初の頃少しだけで、あとはほぼないです。 ※前作がシリアスで暗かったので、今回は明るめでやってます。

獣人の里の仕置き小屋

真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。 獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。 今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。 仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。

真・身体検査

RIKUTO
BL
とある男子高校生の身体検査。 特別に選出されたS君は保健室でどんな検査を受けるのだろうか?

隣の親父

むちむちボディ
BL
隣に住んでいる中年親父との出来事です。

アダルトショップでオナホになった俺

ミヒロ
BL
初めて同士の長年の交際をしていた彼氏と喧嘩別れした弘樹。 覚えてしまった快楽に負け、彼女へのプレゼントというていで、と自分を慰める為にアダルトショップに行ったものの。 バイブやローションの品定めしていた弘樹自身が客や後には店員にオナホになる話し。 ※表紙イラスト as-AIart- 様(素敵なイラストありがとうございます!)

sugar sugar honey! 甘くとろける恋をしよう

乃木のき
BL
母親の再婚によってあまーい名前になってしまった「佐藤蜜」は入学式の日、担任に「おいしそうだね」と言われてしまった。 周防獅子という負けず劣らずの名前を持つ担任は、ガタイに似合わず甘党でおっとりしていて、そばにいると心地がいい。 初恋もまだな蜜だけど周防と初めての経験を通して恋を知っていく。 (これが恋っていうものなのか?) 人を好きになる苦しさを知った時、蜜は大人の階段を上り始める。 ピュアな男子高生と先生の甘々ラブストーリー。 ※エブリスタにて『sugar sugar honey』のタイトルで掲載されていた作品です。

処理中です...