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四十七 前途多難
しおりを挟む「スマホ、水入ったんだけど」
「おれはイヤホンが逝った」
服のままシャワーを浴びる結果になったため、ポケットに突っ込んでいたものが犠牲になった。手帳は水を含んでヨレヨレだし、財布も、財布の中身もずぶ濡れだ。幸い、壊れはしなかったが、スマートフォンのディスプレイに水が入り込んで、一部が映らなくなったし、端のほうはタップが効かなくなった。まあ、使えているから良しとしよう。
吉永の方は、スマートフォン用のイヤホンが死んだらしい。スマートフォン本体じゃなくて良かったじゃないか。今度、一緒に買いに行けば良い。
(……それは、デートってことだな)
吉永とはまともにデートなどしたことがないし、以前一緒に行ったホテルにまた行きたいとも思う。寮でするのとは違って、ホテルでするのはとても良い。ヤったあと風呂に直行出来るし、なんなら風呂でもヤれる。
「スーツも見たいな。ウォッシャブルって洗えるってことじゃねえのかよ」
俺のスーツは洗濯機で洗えるのがウリの、ウォッシャブルのものだが、洗濯機から出てきたスーツはヨレヨレでしわくちゃだった。なんか間違ったのだろうか。ともかく、もう着用出来そうにない。
「何、ニヤニヤしてんだよ。買い物は後でな。そっち、ちゃんとやれよ」
吉永があきれた顔で俺を見た。
「う、うるせえな。ちゃんとやってるだろ」
「はいはい。そこの線から向こう、お前の担当だかんな」
「解ってるし……」
ムッと唇を曲げて、屈んでゴミを拾う。夕暮れ寮の敷地外の道路は、近所に学校があるせいか、空き缶やらお菓子の袋やら、何かとゴミが多い。放っておくと近所からクレームが入るので、社会活動の一貫で夕暮れ寮の社員が清掃を行っている。大抵は寮長の藤宮と副寮長の雛森。手伝いの鮎川と岩崎が行っている。
そのゴミ拾いを、何故俺と吉永やっているのかと言えば――。
「コーヒー溢したまま放置したの? すぐに言ってくれたら清掃の人呼ぶのに」
と、笑顔で。しかし怒りを滲ませた藤宮に、たっぷり小言を食らったのが今朝。コーヒーのことなどすっかり頭から抜けていたが、どうやら絨毯の一部が染みになってしまったらしい。火傷を心配したと言ったら少しは許してくれたが、結局は屋外の清掃作業を言い渡された。
「これ終わったら飯食いに行こうぜ」
「航平のオゴリ?」
「何でだよ」
別に良いけど。飯くらい幾らでも払うけど。その代わりサービスして貰うからな。
吉永そう言いながら、ケラケラ笑っている。本気ではないらしい。良いんだけどな。俺は。
そうやって、タバコの吸い殻やら紙屑やら、ゴミを集めていると、不意に遠くから声をかけられた。
「久我くん!」
「え?」
作業の手を止め、顔を上げる。吉永も視線を上げた。
歩道の向こうから、ロングスカートの女性が歩いてくる。
「――河井さん?」
こんなところで見るはずのない人物の登場に、驚いてぎょっとする。同時に、すぐ横にいる吉永の存在を気にして、ヒヤリと肝が冷える。
(え、何で、ここに?)
声に出せないまま、しかし顔に出ていたのか、河井さんは近づいてきて、にっこりと笑った。
「ふふ。驚いた? 私総務だから、寮関係の仕事立候補しちゃった」
「――え」
寮関係の仕事? まあ、確かに。総務部ならばなにかと手続きやら、あるだろう。
(でも、確か、藤宮が総務部だから――)
「まあ、さすがに中には入れないから。そこは今まで通り藤宮さんがやるんだけど――前任は一度も来なかったみたいだけど、私は顔出すからね!」
「あ――そう、なんだ」
ホッとしたものの、同時に目の前の河井さんの存在に、動揺を隠せないまま曖昧に笑う。
つまり、彼女は。
(――これは)
マズイ。非常にマズイ。
確かに俺は、ここのところ吉永との関係を精算しようとして、河井さんにアプローチをかけていた。彼女も当然、そのつもりだろう。俺と河井さんの間には、既に『男女の駆け引き』があったと思う。『会社の人』の延長を脱して、男と女の関係に至るまでの友人期間中だった。
(これは、マズイ)
どう返事をしようか迷っていると、背後で吉永が立つ気配がした。ギクリと、冷や汗が流れる。
寄りによって、吉永がいる目の前で。
「あ、その……河井さん――」
何か言わないと。ここで受け入れたら、きっと面倒臭いことになる。
だが、俺が言うより早く、河井さんが口を開いた。
「私、諦めないね」
「え――」
それは、どういう意味だろうか。彼女は何を気づいて居るんだろうか。
ヒュッと、心臓が痛む。
多分、何処かで態度に出ていたのだろう。動揺する俺に、吉永がギュッと尻をつねって来た。
「づっ!」
「おい航平。お前、サボるなよ」
「っ、わ、解ってるよ! ……その、じゃあ、河井さん。俺、掃除だから――」
「あ、うん。ごめんね、邪魔しちゃって」
そう言うと河井さんは、何度か俺の方を振り返りながら、寮のエントランスへ向かい、チャイムを鳴らしていた。
もくもくと吸い殻を拾っている吉永の横顔が、嫌に不機嫌そうだ。
俺は胃がキリキリと痛むのを感じながら、吉永のすぐ隣で空き缶を拾う。
「ご、誤解だからな。何もないからな」
「お前の担当はあっちだろ」
「おいっ」
思わず声を上げた俺に、吉永がグイと肩を掴み、俺を引き寄せる。ふに、と唇が軽く触れ、離れていった。
「―――」
「おれは知らねえよ。お前がちゃんとしろ」
「――はい」
カァと熱くなる頬を押さえ、また作業に戻る吉永を横目に見る。
(嫉妬、してくれたのかな……)
普通に嬉しいな。くそ。
(しかし……)
河井さんのことを思うと、気が重い。まあ、自業自得ではあるが。
(マジで、ちゃんとしないと……)
全くもって、前途多難である。
どうやら、まだまだハッピーエンドとは行かないようだ。
(第一部 完)
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