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三十八 初登山へ

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 登山の日は、快晴だった。駅で課長と、登山仲間だという男性三名と落ち合い、電車で山の麓にある駅へと向かう。道中は山の良いところだとか、その後の温泉が良いだとか、魅力を話して貰った。

「リュック買ったのか」

「はい。まあ、折角なんで、色々揃えてみました」

「じゃあ、これっきりで終わらせずに、また行かないとな」

 課長は朝から上機嫌だ。福島課長は、まだ三十代後半なので課長としては若い方だと思う。アクティブな性格と、体育会系のノリの、明るい上司だ。苦手だという課の人間もいるようだが――本質的には、悪い人ではない。

(なんだかな……)

 吉永の件で、正直気が滅入っていたし、山は気分転換になるかもしれない。

 今まで通り、もとの通りに戻ろうとする二人の関係を、望んでいた筈なのに。そうなる度に、心が暗く沈んでいる気がする。

(いっそ、壊れた方が良かったんだろうか)

 中途半端にもとに戻るくらいなら、二人の関係を根本から壊した方が良かったんだろうか。

 目の前にいるのに、隣にいるのに触れられないのが、こんなにも苦しいなんて。

(世の中には、元カノと友達になったヤツもいるって言うけど)

 どんな円満な別れを経験したら、そんな風になれるんだろう。肌の温度を知っていて、どうして他人に戻れるんだろうか。解らない。

 何年も経ったら、「あの時は俺らも悪さしたよな」と、冗談めいて笑えるのだろうか。解らないことばかりだ。

 山道を歩きながら、考えるのは吉永のことばかりだった。無心に山を歩く筈が、吉永のことを考える時間になってしまっている。

「疲れたか?」

 課長に声をかけられ、ビクッと身体を震わす。

「いえ、大丈夫です」

「久我くんは結構、体力あるね。スポーツかなにかやってたの?」

 同行のメンバーの一人が、そう問いかけて来る。

「あー、高校の時はバスケットボールを」

「ああ、そうなのか。昔は夕日コーポレーションもバスケ部持ってたんだけどな」

「そうなんですか?」

 息を整えながら、そう聞き返す。企業バスケットボール部があったというのは、知らなかった。強かったのだろうか。

「五年も前に、不景気で解体したんだ。ほら、まだ居るだろ、夕暮れ寮に」

「え? 誰です?」

「俺も夕暮れ寮出身なんだ。OBなんだぞ」

「え。先輩だったんですか」

 課長がそう言って、笑いながら先輩風を吹かす。夕暮れ寮出身だったのか。それはちょっと、やりにくくなったな。まあ、話題にはなるか。

 夕暮れ寮は比較的新しい寮だ。確か造られて十年は経っていなかったと思う。課長は一期生なのだと言う。一期生はさすがに残っていないはずだ。最も古株なのは鮎川寛二と藤宮進。この二人は三十歳になる。

「それで、えーと。誰だっけ? 随分長いこと寮にいるヤツ……」

「……鮎川先輩とか?」

「鮎川? アイツもまだ居るのか。さっさと出ていけって言っておけ。鮎川じゃない。誰だっけ。ゆーさん、誰だっけ、あの頭悪そうな」

 なかなかな暴言だ。ゆーさんと呼ばれた登山仲間が、笑いながら「酷ぇなあ」と肩を叩く。山登りメンバーの彼もまた、一期生らしい。

「あれだろ、石黒のパシりやってた」

「そうだ。それだ」

「確か、吉永だよ。吉永律」

「え――」

 吉永の名前が飛び出て、ドクンと心臓鳴った。今日、ここで吉永の名前を聞くとは思わなかった。

「あー、吉永だ、吉永。デザ設のな。アイツ、バスケ部だったんだよ。今もあれば、お前、吉永の後輩だったなぁ。パシりにされたぞ」

 カラカラと笑う課長に、顔がひきつる。本当に、心臓に悪い。

「……既に、パシりですよ……」

「アッハッハ! そうか、そうか」

 さっき頭悪そうなとか言ってたな。吉永のことかよ……。まあ、アナニーに嵌まって、後輩と寝るような男だし。

(けど、他人に言われるのはなんか、ムカつくな……)

 しかし、吉永がバスケをやっていたことも、バスケットボール部に入っていたことも知らなかった。いわゆる、実業団チームという奴だろう。解散が五年前であれば、活躍したかは怪しいところだが。

(聞いたこと、なかったな……)

 思えば、俺は吉永のことを何も知らない。誰よりも仲が良いつもりでいたけれど、本当のところは何も知らないのだ。俺が入社する前のことはもちろん、それ以外のことも、多くを知らない。吉永も、あまり自分から喋る奴じゃなかったのだと、今更ながらに気が付く。

(でも、まあ――……)

 今さら、か。

 今更知ったところで、どうにもなりはしない。

 そんなこと、解り切っているのに。

 どうしてこんなにも、苦いのだろうか。

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