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二十八 紫苑のこと

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「進路の件でケンカして――飛び出してきた?」

 話を聞いて要約する八木橋に、紫苑は小さく頷く。どうやらネネと紫苑の間で、大学進学についてもめたらしい。ネネは大学に行かせたい。紫苑は家計のこともあって、大学に行くつもりはない。それで――揉めたようだ。

「ネネさんは、大学の費用についてなにか?」

「……お金は大丈夫だから、心配するなって。でも……」

 紫苑は母親が過去に、お金で苦労していたことも、お金がなくて夜の店で働いていたことも知っている。大学は無理だと、端から思っていたし、考えたこともないようだった。

「いきなり言われたのか?」

 そう言ったのはアオイだ。この話が突然だったのか、そうでないのかを知りたいらしい。紫苑は高校三年生。受験準備には遅すぎる。

「前から……言ってたけど、本気にしてなかった。無理だと思ってたし……」

「けど、どうやら本気だったと」

 紫苑が頷く。紫苑は、考えても居なかった進路が目の前に現れて、戸惑っているのだろう。早く働きに出て、母親の手から離れ、母親を助けたい。そういう気持ちもあると思う。紫苑の気持ちは解った。同時に、大学に行かせたいというネネの気持ちも、解った。今の日本の状況では、どこの大学を出たかということよりも、まず前提として『大学卒業』という文言が就職において大きすぎる。高卒や中卒では、まず一般企業に就職の枠がない。現実問題として、会社員にしたいのであれば、学科はともかく大学へ行くことがスタートラインに立つ方法だった。

「僕は――ネネさんの気持ちも解るけどな」

「……俺だって、母さんの言うことは、解る……けど……」

 俯く紫苑に、アオイがため息を吐いた。

「そもそも、この話を母親と真剣に話したのか? 最初から『行かない』って決めて、ちゃんと向き合ってないんじゃないのか?」

「そ、それは……」

 図星だったのか、紫苑は唇を噛んで俯いた。

「まずは、本当に大学に行くことが難しいのか、調べて。それからちゃんと母親と相談したらどうだ。将来のこと、急に言われてもお前の年齢じゃピンと来ないかも知れないけど、真剣に考えろ。大学じゃなくても、専門学校だって良い。専門学校なら費用も年数も少ない。親の負担は少ないだろ。大学だって、家から通える場所にすれば、大分費用は安く済む。自分で調べて、考えてみるんだ。母親の年収も含めてな」

「う……、俺……っ」

 大きな背中を丸めて、泣き出しそうな紫苑の背を、ゆっくりと撫でる。

「紫苑。僕はね、大学は中退してしまったけど――その時のこと、未だに後悔してる」

「――」

「学ぶのはいつでも出来るというけれど、やっぱり、あの頃ちゃんと、通いたかったよ」

「八木橋、さん……」

「それに、ネネさんのことだから、本当に無理なら言ってないと思うな。単純に、紫苑に後悔して欲しくないんだと思うよ。母親、だからね」

「……俺。俺、母さんと、もう一回……話してみる……」

 瞳を潤ませて、紫苑はそう言って瞼を伏せた。

 そこに、外階段の方からなにやらカンカンと激しい靴音が鳴り響く。ノックもせずに、事務所の扉が勢いよく開いた。

「紫苑っ!!」

「お、母さん」

 先ほど、『アフロディーテ』にいると、ネネには連絡しておいた。ネネは電話の向こうで驚いた様子で、何度も謝っていた。

「っ……!」

 ネネは怒鳴りそうになったが、紫苑の様子に言葉を呑み込んだ。ただ、小さく「心配かけるんじゃないわよ」と呟く。

「ゴメン、母さん……」

「まったく……」

 紫苑の無事を確認してホッとしたのか、ネネの瞳が潤んでいた。二人の様子に、八木橋までもらい泣きしそうになって鼻を啜る。

 ネネは八木橋たちのほうを見て、ばつが悪そうな顔をした。

「ごめんなさい。まさか、店長のところに来てるなんて……」

『店長』と呼ばれたことに、多少の複雑な感情が湧く。だが、表には出さなかった。

「いや、大事にならなくて良かったよ」

 ネネは紫苑に頭を下げさせ、自分も深々と頭を下げた。改めてお礼に来るというネネに、八木橋は首を振る。

「……おい紫苑。大学、行くなら色々相談くらい乗ってやる。現役だしな」

「あ、ありがとうございます。アオイさん」

 ぶっきらぼうにそういうアオイに、八木橋は「ありがとうアオイくん」と小声で囁く。その様子を見て、ネネは何か思ったようだが、口にはしなかった。

 夜闇の路地に消える母子を、見送る。かつてネネが働いていた頃、こうして見送った。その背中が頼りなくて、手をさしのべてしまったのかも知れない。

 今は、二人の背に不安はない。そのことが、自分のことのように、嬉しかった。

「八木橋さん」

 アオイが八木橋の手に指を絡ませる。

「せっかく、八木橋さんの気持ちが解ったのに。今日このまま、紫苑に持っていかれるの、嫌なんですけど」

「――っ、あ、そ、そうだよねっ。ゴメンね、付き合わせちゃって……」

「まあ、八木橋さんの息子みたいなもんだっていうなら、オレにとっても他人とは言いがたいですし、良いんですけどね」

 ドキリ、心臓が疼く。アオイがそんな風に言ってくれることに、無性に嬉しくなった。

「アオイくん……」

「……うち、来ませんか」

 じっと、アオイが八木橋を見つめた。じわりと、顔が熱くなる。

 アオイがなにを求めているのかは、解った。けど、断れるはずも――なかった。






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