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十一 ムーンリバー
しおりを挟むアオイと『デート』をした次の店休日に、八木橋は『ムーンリバー』へ行くことにした。『アフロディーテ』は休みだが、『ムーンリバー』は営業日だ。休みの日に萬葉町に来ることはなかったので、新鮮な気持ちだ。
夕方になってから家を出た八木橋は、まっすぐ『ムーンリバー』へとやってきた。
(こうやって、『アフロディーテ』じゃない店に来るのは、本当に久し振りだな……)
八木橋が『アフロディーテ』の店長になる前、場末の店で働いていた頃も、夜の店で遊んだ経験は少ない。理由は、興味がなかったこと以上に、金銭的な問題だった。大学を中退して働きに出た八木橋にとって、若い頃は金で苦労をした。今は、金には困っていないが、遊びたいという欲求がない。
「ここ、だな」
店の前に立ち、緊張にゴクリと喉をならす。青い光に照らされ、看板が光っている。
入り口の扉を開き、中に入る。店内は薄暗く、青いライティングに彩られていた。どこか、海の中にでも来たような気持ちになる。
魚になった気分で、店内を見回しながらゆったりとカウンターに向かう。ゲイバーというものは初めてだ。店内は男性客が多く、互いに身体を密着させて談笑している。独特な雰囲気に、呑まれそうになる。手を握り合って囁く男たちの様子に、酷くドギマギした。
(すっごい、緊張する……)
やはり場違いだったと、逃げたくなる。八木橋はソワソワしながら、カウンターに見知った顔を見つけ、ホッと息を吐いた。
「アオイくん」
「いらっしゃいませ――八木橋さん?」
八木橋に気づいて、アオイがパッと顔を明るくした。カウンターの端の席を勧められ、そこに座る。
「すごく、雰囲気の良いお店だね」
「フフ。ありがとうございます。八木橋が来てくださって、嬉しいです」
アオイは、バーテンダーが身につける白いシャツに黒いベストを着ていた。細い腰がより強調されたスタイルは、アオイに良く似合う。雰囲気と相まって、酷く色っぽく見えた。
「何を飲まれますか?」
「あー……、っと、ゴメンね、慣れてなくて……」
正直に、不慣れだと伝える。八木橋が外で酒を飲む場合、大抵はビールだ。店内ではビールも提供しているようだが、どうせなら何か特別なものを飲んでみたいような気がした。
「それなら、甘くて飲みやすいカクテルをお作りしましょうか?」
「あ。うん。そうして貰おうかな」
アオイは八木橋が甘いものが好きだと知っているから、そう提案してくれたのだろう。蠱惑的な笑みを浮かべて頷くと、器用な指先でグラスを手にする。思わず見惚れてしまう八木橋に、アオイが流し目を寄越す。アオイは、バーで働いている姿が良く似合った。薄暗いバーカウンターの内側に、小さなスポットライトが当たっているようだ。まるでショーを観ているようであり、一つの絵画を見ているようだ。
シェイカーにリキュールと砂糖を入れ、シェイクする。シェイカーを振る姿が、とても綺麗だと八木橋は思った。氷を満たしたグラスにシェイクした中身を注ぎ、ソーダを注ぐ。長い指がマドラーを器用に操って、軽くステアしていった。
淡いオレンジ色のカクテルが、目の前に差し出される。
「アプリコットフィズです。アプリコット・ブランデーの甘い香りがしますよ」
「あ、本当だ」
杏の香りに、グラスを手に取る。氷の入ったカクテルは、ひんやりとしていた。一口、口に含んで、鼻から通り抜ける香りに瞼を閉じる。
「んっ。美味しい!」
アオイが勧めてくれた通り、甘くて飲みやすい。アルコールもそれほど高くないようだ。
「気に入ってくださって、良かったです」
「すごく美味しいよ。それに、カクテルを作ってるアオイくん、カッコよかったよ」
思わず素直に褒めてしまう八木橋に、アオイが目を瞬かせた。それから、蕩けるような笑みを浮かべてカウンター越しに八木橋に囁く。
「まさか八木橋さんに口説かれるとは思ってませんでした」
「くっ! くどっ……!? く、口説いてないよっ!?」
驚く八木橋に、アオイがククと笑う。どうやら、揶揄われてしまったらしい。
「八木橋さんなら、大歓迎ですけど」
「あのねえ……」
顔が熱い。酒のせいだけではないだろう。思わずぐいぐいと酒が進んでしまう。こんな風に飲むのは初めてだ。何だか、落ち着かない。
「結構ペース早めですね」
「あー、うん。飲みやすくて、つい」
気づけば、グラスは半分以上減っていた。歩いてきて喉が渇いていたせいもあるだろう。
「じゃあ、次のお作りしましょうか」
「うん。そうしようかな」
「結構、お酒は強いですか?」
「こう見えても、クラブの店長だからね」
軽く冗談を言ってみる八木橋に、アオイは「じゃあ、少し強いお酒でも大丈夫ですか」と笑う。クラブの店長だから、というわけではないのだが、酒は弱い方ではないと思っている。付き合いで飲むこともあるので、多少は飲める。時には、「店長にも奢ってやろう」という客がいるので、そういう時は素直に頂く。消費された酒はすべて店の売り上げになる。女の子が飲んで頑張っているのだから、自分が飲めないということは言えないと、八木橋は思っている。
「次のカクテルは、オレに奢らせてください」
「え?」
アオイはそれだけ言うと、またシェイカーを振る。三角形の小さな、カクテルグラスに半透明の白いカクテルを注いだ。八木橋がイメージするカクテルらしい見た目の酒だった。
「ライラです」
「綺麗だ」
思わず呟いて、軽く唇を寄せる。ライムの柑橘系の風味がする酒だ。さっぱりとして飲み口は良いが、アルコールの強さを感じる。先ほどのアプリコットフィズに比べると、大分辛口で大人のお酒という感じだ。
「カクテルは、小さいグラスのものは、大抵度数が強いです。ライラは29度あります」
「うはっ。でも、美味しい」
「良かった」
今度は度数が高いこともあり、八木橋はゆっくりと飲み進めた。アオイは他の人の接客をしながら、八木橋が飽きないように相手してくれる。八木橋はアオイの仕事の様子を見ながら、ゆったりとした時間を過ごした。
(何だか、凄く充実した時間だな……)
八木橋の休日は、いつも無為に過ぎてしまう。やろうと思ったことを先送りにして、慌てて済ませようとするせいで、大抵はあくせくして用事だけをこなして終わってしまう。今日はそんな日々とは違って、充実していた。休日に誰かと会話をするのも久し振りだ。アオイは話題も豊富だが、一人の時間を邪魔することもない。
(また来ようかな……)
この場所が、居心地が良い。最初は場違いかと思っていたが、入ってみれば八木橋を待っていたかのように、初めからここに居場所があるような感覚になる。八木橋は「一度くらいは行っておかないと」と思ってやって来たのだが、結局はすっかり、この場所が気に入ってしまっていた。
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