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三 甘くて、ビターな。
しおりを挟む夜中ともなると、店は看板の明かりを消し、眠りにつく。東京は眠らない街だなんて言ったものだが、真に夜中に生きるものは、街が眠るのを知っている。
「ふぁあぁ……」
八木橋は欠伸をしながら夜の街を歩く。外灯のあかりは頼りない。一夜でゴミや酔っぱらいが汚した形跡が残る路地を歩きながら、肩を擦った。
(うーん。マッサージでも行こうかな。それより、駅前のビルに入ったスイーツでも見に行こうかな……)
しばらく歩いて、雑居ビルの中に入っていく。五階にあるオフィスに、『女神グループ』の看板が掛けられていた。
「お疲れさまですー」
声をかけて中に入ると、金髪の男が顔を上げた。かなりの美丈夫で、笑うと目元に皺がよった。
「八木橋さん。お疲れさまです」
「オーナーも、お疲れさまです。これ、今日の売り上げです」
「俺はもう、オーナーじゃないですよ」
「いやいや」
八木橋は「またいつもの冗談だ」と思いながら、苦笑いした。
この、佐竹明徳という男は、一代で萬葉町の夜の街を牛耳ることになった男だ。元々は佐倉組傘下の白桜会に所属するヤクザだったが、現在は足を洗っている。足を洗ったとは言え、元ヤクザということもあり、経営では表から手を引き、彼の恋人である渡辺瑞希という青年が、表向きのオーナーとなっている。佐竹は店を譲ったと公言しているが、八木橋は瑞希が「預かっている」と言っているのを知っているし、なにより数十億を稼ぐ店をポンと譲ったとは思っていない。
「トラブルはありませんか?」
「ええ。新しく入った子も、頑張ってます」
「それは良かった。実は次の事業計画を考えていまして。また忙しくなるかもしれません」
「また、新しい店ですか?」
相変わらずすごい人だな。と思いながら、八木橋はあまり気乗りしなかった。佐竹の作る店は軒並みヒットするが、その分、忙しくなる。新規店舗立ち上げとなれば、人を貸したりといったやりくりも多くなるのが常だった。
「まあ、まだ詳細は言えないんですがね。八木橋さんは長年支えてくれていますから、頼りにしていますね」
ニッコリと微笑まれて、八木橋は笑みを返すしかなかった。
◆ ◆ ◆
(話し込んでたら遅くなっちゃった……)
雑居ビルを出て、八木橋は暗い通りに出た。先程はまばらに点っていた看板も、ほとんどが消えている。
(新しい店かぁ……。オーナーの方針だし、仕方ないけど……)
八木橋は安定を取るタイプで、変化を求めない。佐竹のように、次々と新しい店舗を作れる人間は、成功するのだろう。八木橋は、いまの場所を守るので精一杯だ。
(まあ、人員はなんとかするしかないよな)
また女の子や黒服を集めた方が良いかもしれない。そう思いながら歩いていると、不意に前方から、怒声と瓶が割れる音が響いた。
「ああん、なんだと、テメェ」
「テメェが先にやったんだろうが!」
若い青年が、酔ってケンカを始めたようだ。帰り道を塞がれて、八木橋は顔をしかめる。
(うわ、最悪だ……。仕方がない、回り道するか……)
関わって巻き込まれでもしたら、ろくなことにならない。八木橋はこの街に来て長いが、ケンカとは無縁の人生を送っている。それは、とっさの回避能力の賜物だろう。
細い路地に曲がって、裏道を歩く。暗くて少しだけ怖かったが、足早になんとか走り抜けた。
「ふぅ……」
この辺りまで来れば、良いだろう。そう思ってホッと息を吐いた、その時だった。
「あれ、八木橋さん?」
「へ?」
名前を呼ばれ、驚いて顔を上げる。店の裏口から出てきたのは、私服姿のアオイだった。黒服の衣装の時は気づかなかったが、折れそうなほど細い腰をしている。
「アオイくん」
「なんでこんなところに? 会いに来てくれたわけじゃないですよね」
クスリと笑って、アオイが近づいてくる。酒の匂いがした。
「ち、違うよ。会いにって――」
八木橋は視線を看板に向けた。既に明かりは消えているが、看板には『ムーンリバー』と書かれている。アオイが働く、ゲイバーだ。
「あっ」
(こんな場所にあったのか)
長年この街で暮らしているが、こういうエリアに入り込んだことはない。偏見というよりも、興味を持たなかったし、部外者が入ってくるのを嫌がるのではないかと思っていた。
「ここ、オレの店です。今度、いらしてくださいよ」
「え、でも……」
「うちはゲイ専門ってわけじゃないんです。もっとライトな――だから、一般のお客さんとか、女性も来ますよ」
「あ、そうなんだ。でも僕はあんまりオシャレなバーとかって、来たことなくて……」
「あんなに立派なクラブの店長なのに?」
「そうだよ」
アオイが笑うので、八木橋もつられるように笑う。アオイがさりげなく、八木橋の指を掴んだ。
(え?)
「来て欲しいな。知らないなんて、損ですよ。店で絡まれても、オレが守るから。ね?」
捕まれた指先に、アオイがそのままキスをする。
「っ……!」
驚いて手を振りほどこうとしたが、放して貰えなかった。アオイはクスクスと笑っている。
(からかって――るんだな)
まるで口説かれているみたいだ。たちの悪い冗談だ。
(けど、いつもお世話になってるしな――)
一度くらい、顔を出すのが礼儀かも知れない。そう思い、頷く。
「うん。じゃあ、今度休みの日にでも行くよ」
『アフロディーテ』の店休日は月曜日だ。『ムーンリバー』は水曜日が休みのようなので、問題なさそうだ。
「本当? 待ってるからね」
「アハハ」
これは本当に、『会いに行く』流れになってしまった。八木橋はこんなに年の離れた友人が出来るとは思っておらず、少しだけ気持ちが弾むのを感じた。長く、変化のない生活をしてきた八木橋にとって、アオイはスパイスのように刺激的だ。それでいて、どこか甘い。
甘くて、ビターな、チョコレートのような青年だと思う。
「アオイくんも、帰るところ?」
「ええ。途中まで一緒に行きましょう」
「うん。良かった。実は向こうでケンカしてて、それで回り道したんだよね」
「ああ――なるほど」
アオイと並び、歩き出す。一人さ迷うには、この街は少々危険だ。路地には酔って眠っている者もいるし、行き場のない若者もうろついている。夜をさ迷う彼らは、昼の住人とは違う、夜行性の生き物のようだ。
「あの店は長いの?」
「二年くらいです。でも、性に合ってるかなって。このままバーテンになるかも」
アオイの言葉に違和感を抱き、首をかしげる。アオイは「ああ」と頷いて、魅力的な笑みを浮かべた。
「言わなかったでしたっけ? オレ、大学生です」
「えっ!?」
若いとは思っていたが、大学生とは思わず、驚いて目を見開く。
「そんなに若いとは……」
「二浪してるんで、そこまで若造じゃないですよ」
「十分、若いよ」
「そうですか? 今年四年生なので、卒業後もそのまま……かなって。就職活動もしてないです」
アオイは会社員に向いていないと思っているらしく、そう答えた。
「一回くらい、会社勤めも良いかもよ?」
「うーん。どうだろう。オレには、ここがあってると思うんですよね。ゲイだとか、そういうことを抜きにしても」
「まあ、それはね」
八木橋には解らないが、生きにくさがあるのだろう。本当の自分を偽らずに生きるのは、どんな人でも難しい。誰もが、多かれ少なかれ、仮面を被って生きている。
アオイのようなセンシティブな問題を抱えているわけではないが、八木橋だって、なんでもオープンにしているわけではない。本音はいつだって呑み込んで、消極的になってしまう。いい人で居たい。嫌われたくないという思考が、結果として人を遠ざける。
(僕はつまらない大人になってしまったけど、アオイくんはまだ可能性があるんだから)
そう思うが、口にはしない。説教じみたことを言えるほど、自分に自信がないのだ。
しばらく雑談をしているうちに、大通りに出る。アオイが八木橋を見た。
「オレ、こっちなんです」
「そっか、じゃあ逆だ。僕はあっち」
互いに真逆の方向を指差す。なんとなく、名残惜しい気持ちになって、八木橋は自分の感情に戸惑った。
アオイが八木橋の手を握る。
「っ、アオイくん」
「もうお別れなんて、残念です」
手をぐにぐにと握られ、カァと頬が熱くなった。こういうスキンシップは、慣れていない。
「そうだ。連絡先、交換しませんか」
「あ、うん……」
アオイが魅力的な笑顔でそう言うので、反射的に頷いてしまった。自分なんかと連絡先を交換しても、仕方ないと思うのに。
スマートフォンを取り出し、連絡先を交換する。仕事で使うことはあっても、プライベートで使うことの殆どないスマートフォンだった。
「それじゃあ、おやすみなさい。八木橋さん」
「うん。おやすみ、アオイくん」
連絡先の交換は、社交辞令だと思った。きっと、交換したものの、一度もやり取りすることなく、終わるのだろうと、八木橋は思いながらスマートフォンをポケットにしまい込んだ。
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