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二十八 ミモザの香り

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「じゃあ、ご馳走になって悪いね」

「いえいえ。こっちがお願いした立場なので」

 会計を済ませ、扉に手を掛ける。最初は楽しかった会話だが、次第に気詰まりになってしまった。亜嵐はそんなことを気にする様子もなく、始終笑みを浮かべたままだ。彼の職業柄、笑顔を絶やさないのかも知れない。

 扉を開き道路に出ようと言うところで、足元の段差に靴先が滑って、よろめいてしまう。

「わっ」

 グラッ。傾いだ身体を、亜嵐が引き留めた。

「わあ。鈴木さん、大丈夫ですか?」

「っ、ごめん、ありがとう」

 亜嵐に抱き止められるようにして支えられ、ビクッと身体が震えた。微かにミモザの香りが漂う。

 慌てて取り繕い、亜嵐から離れる。似ているのに、違う。脳がバグりそうだ。

「通り雨でも降ったんですかね」

「だね……」

 路面を見れば、濡れた後が残っていた。階段のタイルが濡れて、滑ってしまったようだ。

「それじゃ、あらためて」

「はい。今日はありがとうございました。詳細がお知らせできるようになったら、ご連絡しますね」

「うん。お仕事頑張ってね」

 そう言って、笑顔でわかれる。

 亜嵐の姿が見えなくなって、俺はホゥと息を吐いた。なんだか、どっと疲れが出てしまった。

(ふぅー……。何か、変に疲れちゃったな)

 亜嵐の話しは、なんだかモヤモヤして、聞いていられなかったし。

「……帰ろ」

 どこかに寄って帰ろうかと思ったが、そんな気分にもなれずに、俺は真っ直ぐ寮へと帰ることにした。



   ◆   ◆   ◆



 部屋の前に帰り、扉に手を掛けながら溜め息を吐き出す。どうにも、疲れてしまった。

「ふぁ……」

 欠伸をしながら部屋に入り、鞄を放り投げた。帰りにどこかに寄って、飯でも食って帰ろうと思っていたが、思ったより早く済んでしまった。

「あー、晩飯どうしよう」

 夕飯までまだまだ時間があるが、また出掛けるのも億劫だ。出前でも頼んでしまおうかと考えながら、スマートフォンを開く。

「そういや、栗原どうしてるかな。用事がないなら飯でも誘おうかな」

 メールをするか部屋に行くか考えて、行った方が速そうだと立ち上がる。

 隣の部屋に来るのは久し振りな気がする。ここのところ、栗原が来る方が多かった。

 いつものように扉に手を掛け、声をかけながら扉を開く。

「栗原、いるー?」

 ヒョコっと部屋を覗き込み、「あ」と声が漏れた。

「っ、先輩……」

 上気した頬に、ドクンと心臓が鳴る。いつかと全く逆の状況で、栗原が自慰しているところに、出くわしてしまった。

「あっ、ごめ」

 顔を真っ赤にして退室しようとする俺に、栗原が腕を伸ばして引き留める。

 ぐい、腕の中に捕らわれ、心臓がピクンと跳ねた。

 亜嵐とは違う。やはり、栗原は栗原で。

 ネクタリンの甘い香りが鼻腔を擽った。

(ん――、スマホ……?)

 栗原のスマートフォンの画面が、開きっぱなしで床に置かれていた。何を見ていたのかとチラリと覗き込めば、いつの間に撮っていたのか、俺の寝顔だった。

「は――?」

 え。ちょっと、どういうこと。

 戸惑いながら顔を上げると、栗原が怖い顔で俺を見下ろしていた。

「え?」

 見たことがない表情に、ビクッと身体が震える。

「栗原……?」

「先輩」

 栗原の両手が、頬を掴んだ。至近距離で詰められ、思わず腰が引ける。

「先輩、誰と逢ってたの?」

「――」

 浮気を問い詰める恋人みたいな顔をして、俺にそう問い掛けた栗原の表情は。

 俺から聞くまでもなく、誰と逢っていたのか知っているように見えた。







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