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第十八話 敵対者
しおりを挟むどうして、入海君が家に訪問してきたのだろうか。
その一点を、あたしは部屋着に袖を通しながら、様々に考えた。
心配して見舞いに来たのだろうか。或いは、彼は、もしかすると自分の相方、いわゆる吸血鬼に何かそそのかされてこちらに来たのではないだろうか。
相方、つまりあたしを襲った吸血鬼が、入海君に事の顛末を伝えていて、そのうえであたしの方に使いをよこしたという考えもできる。――そう考えるのが普通だろう、だって入海君とあの吸血鬼はただならない関係なのだ。双方であたしを敵認定しているに決まっている。
消しに来た? またも襲いに来た? それとも忠告をしに? ……不安は尽きない。あの少年に何ができるとも思わないが、『何もできない』とも思えない。少なくとも、この家の中で起こされるあらゆる珍事は、あたし、はたまた大葉さんに対してよからぬ影響を及ぼすのはもはや言うまでもないことだろう。
あたしはシャツの首口を鼻に引っ掛けてスゥと空気を吸い込んだ。柔軟剤の香りが脳に響く。肺中を柑橘の芳香で満たした後、深く息を吐いた。
「……怖い」
慣れない人間が訪ねてくる時ほど、恐ろしいものはない。
特にその筋に不安があるのならなおさらに。
「ごめん。待たせたね」
普段の部屋着に着替えてリビングに戻ると、入海君は待ちわびていたかのように、あたしの方に顔を向けた。
「い、いえ、待たせたなんてそんな」
一瞬あたしの姿をその目でおさめたかどうか、その瞬間に彼は磁力ではじかれたかという具合で顔をそむけた。
動きが生体ぽくない。
「……若菜。いくら友達っつっても客人だぞ。あんな格好で出てくるんじゃないよ」
「だってラニが来たんだって思ったし。てか大葉さんだってラニじゃないなら一声言ってくれりゃよかったじゃん」
「す、すいません。僕こそその、連絡もよこさずに来ちゃって……」
ふにゃふにゃの吹き出しみたいな返答が来る。
「いや、入海君は全然悪くないから。完全あたしの不注意だし」
連絡云々、というかあたしらは連絡先すら交換してないわけで。
そんな彼にこんな言葉を吐かせるのはまことに酷な話ではある。
「あの、出里さんに、学校においてた荷物を届けるっていう話になって」
と、入海君はどもりながら要件を述べてきた。彼の視線の先に、手荷物が――スクールバッグや日傘といったものが整然と並んでいた。
「……へえ。わざわざあたしの荷物持ってきてくれたんだ。優しいじゃん。ありがと」
「いや、その。学校でも、なんだかまだ体調が優れてないように見えたので……心配だし見舞いも兼ねてと思いまして」
体調が優れないように見えた、ね。
どこで君はあたしのそうした姿を見ていたのか。
そしてどこからあたしのそんな姿を窺ったのか。
「大体、そういうのってラニが持ってきてくれるんだよね。家、近いし。でも」
でも、いや、だからこそ。だからこその不審感。一重にそれが高まる。
「入海君が持ってきてくれるなんて、意外だ」
さて、どうなんだ、君は。
本当に心配で見舞いに来てくれたのか、それとも懐に一物隠しているのか。
どちらにせよ大葉さんの前では深い話はできやしない。
「大葉さん。居間じゃなんだし、部屋に連れてくわ。行くよ、入海君」
あたしは、入海君の膝の上で強張っている手の指先一本をつまみ上げた。マリオネットが操作者の糸に引かれて吊られることよろしく、彼もまた力無げにあたしのリードに屈した。
「適当なところに掛けなよ。来客来るとは思わなかったから、あんま片づけてなくてアレだけど」
あたしは部屋に案内すると、まあ誰しもが言いそうなセリフを吐き出しながら、適当な場所――本当に適当で、部屋のど真ん中辺りにドカッと腰を下ろした。
「……いえ、十分、きれいだと」
入海君は部屋の、気持ち隅寄りに体育すわりをする。
「そ? 褒めても何も出ないよ」
あたしはベッドの上で給電していたケータイに手を伸ばす。点灯した画面のコントロールセンターには、電話の受信通知がない。つまり再恋寺さんからの返信はないらしい。
あたしはケータイを雑に放る。で、胡坐を組みなおし、半ば面接官になったような心持で入海君に向き合い、こう聞く。
「……てか、どうやって家わかったの?」
「時遠さんが教えてくれました」
ラニの差し金か。いよいよ意味が分からない。いったい何のために。
「学校の方は大騒ぎなってなかった? あたし勝手に帰っちゃったからさ」
「時遠さんが先生に言ってくれたみたいで、そこまで騒ぎにはなってなかったです。ただまあ、伝言なんですけど、早退するときくらいは俺に言えと先生が」
「ああ、まあそりゃそうか」
次会ったら小言言われるべ。
「出里さん。体調は大丈夫なんですか」
「んー? まあ、今のところは平気かな。ああ、言っとくけどサボりじゃないよ。ガチで体調悪かったし」
嘘だった。身体に異変は起きてはいれど、それによる体調不良なんてものは一切ない。しかし早退した手前、悪かった、と言っていた方がよりスムーズだろう。
会話が途切れ少しの間が空く。……入海君は、あたしの部屋の中を見るのに臆しているのか伏し目気味だった。常にあたしと目線が合わず、自身の膝とばかりにらめっこをしている。
あたしはしげしげと、入海君を観察した。こうして彼の姿見を熱心に見るのは恐らくは初めてだろう。肋骨のあたりにあるホクロ、意外にも二重、幼げな面容、手入れして無さげな髪質、云々。
そしてそのまま流れるように、入海君の首筋を見た。二点、奇妙な穿傷が、赤々と照っている。かさぶたになりかけの、比較的新しい傷。……反応するかのようにして、あたしの首元の傷がウズウズする。
「……首、傷が新しくなってる」
入海君の肩が一瞬揺れる。
部屋に入って初めて目と目が合った。
「あたしが休んでいた時にでも会ったの?」
あたしはそれとなく聞いた。……もしそうであれば、あたしに対してなにかしらを、入海君の小耳に入れた可能性が高いから。
「……そうですね。ちょうど一昨日にあったばかりで」
どことなく、申し訳なさげである。
「また、なんかヘンな事とかされたんじゃないの?」
あたしは吸血鬼のしうる加害行為を想像しながら――特にあの日の夜を思い出しながらそう聞いた。
会う、というのは、必然的にそういう行為が含まれているだろう。……多分。
「い、いや。特には」
「偏見でしかないんだけどさ。入海君って、ヤな事とか断れなさそうだし。例え嫌がってても要望聞いちゃってそうだよね。そんな気がする」
「……否定できません。出里さんのおっしゃる通りで……」
「当たりかよ。……てか、断れない性格なんだろうけどさ、自分が嫌だなと思う事とか、流されてんな~って思うことされたら、ちゃんとイヤって言わなきゃだめだよ。……大きなお世話だろうけど」
「ぜ、善処します」
善処するといって実際に善処した奴を見たことないがあたしは。
「で、でも。本当に、ヘンな事とかはされないんですよ。僕らは一応、関係は良好なはず、ですから」
と入海君は取り繕うような事を言う。
……あたしは、ちょっとばかり脳天に冷たいものが走った。
「……関係が良好?」
随分呑気そうに、入海君は言うもんだ。
「身体に傷入れられるのに?」
そんな態度に少しばかり、心がざわついた。
「良好なはずないじゃんか。DVと同じでしょ。怪我負わされて、でも受け手側が大丈夫だからそれでいいとか、正直どうかしてると思う」
「あはは。辛辣ですね」
彼は空笑いでごまかす。……あたしは煮え切らず歯をきしませた。
辛辣。そうもなる。どうして彼はそうまでして吸血鬼に肩入れするのだろうか。結局ああした化け物っていうのはあたし達人間なんて食料の他に見えやしないだろう。伴侶? 親友? 家族? 馬鹿を云え、家畜を愛し且つ親し気に接する人間が、ではその家畜を必ず食わないとどうしていえる?
旧い言葉だが、狡兎死して走狗煮らる、というものがある。野山を跳ねる兎が枯れたなら次に食われるのは猟犬であるとした内容だが、これが古事になるあたり昔からあたしら人間やそれに似る者どもの考えは変わっちゃいないということだ。つまりいくら吸血鬼とやらが餌を親戚に見立ててもいつその歯牙が表皮や血管のみならず肉や骨に咬み入れられるかわかったもんじゃない。
腹が減れば何か食う。喉が渇けば何かを呑む。当然の生理現象だ。近場に水飲み場がなくて極限に至れば己の尿をすら飲み、腹を満たす材料がないなら爪を噛んで飢えをしのぐ。飢饉にあえいでいた過去の日本だって同じことだ。死体の肉をかじり命をつなごうと試みる者はごまんといた。……親族の肉をだ。その折に食肉に用いられる愛玩動物が近くにあったなら人は何を選ぶか……想像に難くないだろう。
その懸念を放棄して今を良好というのなどあまりにも無謀が過ぎる。
君のそばにある『ソレ』は化け物だぞ。
あたしたち人間を餌と公言する化け物だ。
……ああ、違うか。一つ訂正しなくちゃいけない。
『あたし』たち人間というのは少し間違ってる。
正しくは『君』達人間だ。
あたしはもはや人間と呼べる代物じゃないかもしれないから。
「……出里さん? どうしたんですか? 顔がその、怖いんですけど」
「君に言ったってわかりゃしないよ」
なぜ本人がこの調子なのにあたしが案じてやらねばならんのか。馬鹿らしい。
「出里さんこそ」
と、入海君。
「ご自身の身体のことを案じたほうがいいでしょ」
それまでの自信のなさとは打って変わった、まるで挑戦的な言い草だった。
「あたしの身体ぁ? 大丈夫だって。明日になれば治るよ。風邪がぶり返しただけだから」
「治らないでしょう」
と彼は断言する。
「治らないんですよ。多分、あなたは」
次いで、徐に彼は手元に置いた自分のバッグから、真四角の――一昔前のケータイにも見えるものを取り出して、二つ折りのそれを躊躇いなくあたしの前に展開した。
一瞬、あたしにはソレが何なのかわからなかった。だが折り畳みがほどけたとたんに閃光のように光が飛び、その様であたしはその物体の正体を理解した。
鏡である。
「わっ! ちょっと!」
叫んだ。しかし、声を上げてどうとなるわけでもない。すでに遅かった。目の前に鏡面が張り出されている。空間がある。あたしの部屋着越しに、背後の壁が透けて見えていた。……勿論、その光景にあたしの姿は微塵もない。無人の空間が映し出されていた。
「……出里さん。その身体、本当に明日になれば治るんですか?」
入海君は、震えた声でそういう。
「……知ってたんだ」
軽いめまいと、薄い頭痛がなる。
薄目で彼を睨みつけて、反吐が出そうな心持を何とか沈めた。
「あたしの、身体のこと」
やはり。そりゃそうか。まあ知っていたのだろうな。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。……あたしが欠席してるうちに会っていたといっていた。ならそのうちに、あたしの話を聞いているに決まっているじゃないか。あたしは入海君と吸血鬼のペアにとっちゃ不倶戴天の敵なはずなのだから。
そうだ。入海君はあくまで吸血鬼の肩を持つ。怪我をして欠席した――校内処理では風邪なんだけれども――あたしの心配や見舞というのは、おそらく表向きの理由。
彼はあたしの身体の異常を知りながらここに来た。
その意味はもはや言うまでもない。吸血鬼のやつの使いで、あたしの様子見にでも来たのだろう。
「……だはは。ウケるっしょ。ミイラ取りがミイラになるっていうかさ。あたしの方が先に吸血鬼紛いみたいになっちゃった。どーなってんだろうねこれ。情けなさすぎ」
……実のところ、ちょっとは期待をしていた。入海君が欠席したあたしの見舞いに来てくれた、という点について、純粋に彼のやさしさの行動なんだろうと。その裏に何の意図もなく、ただ純粋に、本当の心配の意味でよく分からん相手の家を訪ねてくれたんじゃないかと、そうした期待をしていた。
けどこれじゃ様子が違う。やはり彼は、きっと吸血鬼の奴にほだされ切って居る。だからやさしさに寄ってきたわけじゃなく、あたしのことをあざ笑うために、あるいはおかしなことを目論んでないかを観察するために、彼は来た。
敵だ。やはり、疑いようもなく。
「情けなくなんかないです」
入海君はそういう。
「同情のふりはいいって。笑いなよこれ。鏡に映らんとか爆笑もんだし。あんだけ啖呵切っといてこれかよって感じ」
「出里さん聞いてください。僕は」
「入海君にゃあんなでかいこと言っといて先に化け物になるんだ。……喜劇でしょ。笑わせにいってるよ。……あたしも実に不本意なんだけどさ、マジどーしようって感じ。外に出るものもままならないからさ。えっ引きこもるしかなくね? てさ」
「違います。僕は笑いに来たわけじゃない。本当に心配で」
「心配とかどーだっていい!」
あたしは叫んだ。
言葉だけの同情にはもうたくさんだった。
どうせ裏じゃ笑いに来たくせに。吸血鬼の手先のくせに。
人にやさしく思われたいからか知らないが、言葉だけで取り繕って。
「……心配とかどうだっていんだよ、入海君。そんな心にもない言葉吐くくらいなら笑って。笑ってくれた方がまだ幾分か気がマシになる……。入海君は知ってるんでしょ? あたしの身体に何が起きてるのかとか。どうせ吸血鬼の奴から深く聞いてきたに決まってる……どうしてこうなったかの理由だって知ってんだ。その癖にわざわざ見舞いに来たふりして鏡見せて治るか治らないか? 馬鹿にしてんじゃんそんなの。あたしの反応を見てどうしょぼくれてるかを見張りに来たんだ! 違う? でなければどうしてあんたがここに来たの!?」
「……出里さん。僕のことがそんなに卑屈に見えるんですか」
「わかんないね。なんせあたしは君のことなんかてんで知りやしないんだから。……あたしの気持ちを入海君が全然理解してくれないように。君がどんな目論見でここに来たのかとか知る由もない。……んじゃ逆に聞くけど何しに来たの? 心配してきたとかそんなの表面上のりゆうでしょ? 裏は何? 殺しにでも来た? トドメってやつ? あの吸血鬼の奴からどんな使い頼まれてきたんだよ。あたしの様子を見に行けって指示でもされてきたんじゃないの?」
「違う! そんなんじゃない!」
入海君はかぶりを振った。
「出里さんの様子を見に行けとか、そんなこと言われやなかった! 僕は自分の意思できたんです! 他人の意思とか関係ない。……少なくとも僕はあなたと『ナツ』さんとの間にある因縁みたいなのは深くは知らない。ただ、何か良くないことをされたんだってことは、僕は察しています。そしてそれに責任も感じている。……出里さんが数日休んだことだって、僕は何も教えてもらえなかったけど、きっと『ナツさん』が出里さんに対して何か良くないことをしたんだ。実際にあなたに起きているその、身体の症状だって、僕はうまく説明できないし、どうしてそうなってしまっているかもわからない。でももし、出里さんと彼女の間の確執の延長で、今の状況があるのなら……彼女の暴走を止められなかった、責任の所在は、僕の方にもあります」
「……だから、それをあやまりたくて。それと、少しでも不安を取り除ける手伝いをしたくて」
『ナツさん』……と入海君は言った。……知り合いの内にそんな名前の人はいない。それが、吸血鬼の名前か。
あたしはでかくため息を吐いた。ついで落ち着くために髪を掻き乱してみる。
「んじゃ入海君は結局どっちの味方なの」
「……今は、どちらの味方でもない、ではダメですか……?」
「空気読んで。今は『あたしの味方』だって言うべき」
「……そんな無責任なことは言えません。僕は」
「わかってる」
あたしは小さく息を吸う。
「君がなんで吸血鬼の肩もつかは知らないけど。そんな内はあたしとは分かり合えない」
「……出里さん」
入海君は心痛な面持ちでうつむいてしまった。
……心が痛いのはこっちも同じだ。
あたしだって何を信じればいいのかわかんなくなってるのだから。
「入海君。さっきあたしの不安を取り除く手伝いがしたいっていったじゃん」
「言いました」
「ならちょっとその手伝いをしてくれない? あたしのさ。目下の不安を取り除いてほしいんだけど」
「不安?」
あたしはうなづいた。
「あたしが『吸血鬼』なのか、『そうじゃない』のか」
あたしの、直近の最大の不安。それは、あたしが果たして何者になってしまったのか、明るみでないことだ。
別に再恋寺さんに電話しなくとも、ある方法で自分が人であるか吸血鬼であるかくらいは明白になる。……実際に入海君にかみついて、血を吸ってみるのだ。これまで同様血が恐ろしく思えるなら人のままである訳で、逆であるなら吸血鬼になってしまったということになるだろう。
あたしが知りたいのは、自分が何者になってしまったのかだけだ。あたしが不安に思っているのは何者かになってしまっていないかだけだ。何物にもなっておらず、ただあたしがあたしのままであったなら、それだけで不安も恐怖も消える。再恋寺さんの返信を煩わしく思いながら待つ必要もない。
もし実際に化け物だったのなら……その時はその時だ。再恋寺さんに自己申告して、殺してもらうなりなんなりすればいい。その時はもうあきらめるしかない。あたしは人を傷つけてまで生きていたいとは思わない。だから、自分の意思で人を傷つけてみるのは、これぎりで最後。
知りたい、ただあたしは、吸血鬼になってしまったのか、それともなっていないのか。
膝を摺りながら彼ににじり寄る。対し入海君は、明らか怪訝そうな表情をしていたのだけれども、行儀のよい姿勢は崩さぬままにあたしの接近を許した。
「……かじるんですか」
「うん。かじる」
あたしは彼の首筋にずいと顔を近づけた。
「いやなら言って。さすがに無理強いはしないから」
そう耳元で囁いた。すると彼はむっつりと口を閉じ、瞼にしわが寄るほど硬く目をつむった。
震えている。……しかし、彼は、まるで抵抗の意思を見せない。あきらめのついた兎のように、跳ねも身じろぎもしないのだ。
「……抵抗とかしないの?」
「……しません」
「なんで? 吸っちゃうよ? 本気で」
「大丈夫です」
「大丈夫ってなんだよ。イヤならイヤっていいなよ。流れに任せてハイハイ言うのマジでよくないから。別に拒まれたって入海君を責めたりしない。むしろその反応が正しいし」
「自分で決めてるんですよこれでも。出里さんから吸われてもいいと思ってる」
入海君はあたしを遠ざけるどころか遠慮気味にだがあたしの背に腕を回した。
受け入れる気。そういうことだろうか。……軽く入海君の内側へ抱え込まれる。
「それでもし、出里さんの不安が消えるのなら、ぜひともしてください」
そういって彼はごく至近距離からあたしの目を見つめた。
太い、一本の意思のある瞳をしていた。
……この子。
「僕は、かまいませんから」
……本気だ。
胸のあたりがウズり、とした。途端、今まで感じたことのない、強かなもの――例えると暴力性と呼ぶべき妙なものが心中に現れて、今に彼を押し倒し、ほしいままにしろと、そう命じてくるようだった。生唾を呑む。逡巡、葛藤をする。そして結局、あたしはその暴力性に屈した。
ゆっくりと、そう、実にゆっくりと彼の背中に腕を回し、両肩を抱くようにして固定した。身体を硬直した彼の鼻息がちょうどあたしの胸元にかかる。……服の擦れる音がうるさくすら思う距離。あたしは彼の鼓膜を意識して
「……なら、がまんしてて」
とだけ言った。彼は吐息で答える。
あたしは、彼の首筋に唇をあてがった。例の傷がある場所と、真逆のところ。当たり前だけれど、こんな粗相を他の人間にやったためしがない。組み敷いて、抱え込み、体を押し付け合うなど、まるで覚えのないことだ。まして異性と。
男の子の首筋の感触というのも存外不思議なものだった。どこまでも筋張っていて柔らかさがない。先まで全然頼りない印象だったのだけれど、直に皮膚に触れて初めて分かる、肉体の造の違い。いわゆる、男の子らしさ。輪郭が薄く体格も優れていない彼だけれども、そんな彼でも皮膚の直下にしっかりとした筋肉がある。……あたしにはない、硬さ。
匂いも女の子とは違うものだった。もっと人らしい実直な匂いがする。シャンプーのきつい甘い匂いとか、そういうのでなく、人間という動物の、生の匂い。――鼻腔に満たされたとき、脳みそをくぅと絞られるような眩暈が襲った。動悸もする。この行為が、あまり推奨されるものではないと、理解したが故の、抗いがたいまでの背徳感。その罪の意識が、頭頂から刺激として生じ、全身に粟をたたせるとともに下腹部に奇特な熱を生ませた。怒りのような、逆に雨模様の冷静さのような。
彼の肉に歯を咬ませた。少しの塩味がする。舌の先でぞりりとなぞると、彼もまた皮膚を粟立てていることが分かった。
噴き出るだろう血がこぼれないように舌の面を肉に押し当てる。息を吸いながら、あとはぐっと顎の力を込めるだけ。
あたしは、目を閉じた。
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