vaccana。

三石一枚

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第十六話 異変者。

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 「ワッキー。もう風邪は大丈夫なん?」
 そうつぶやくと彼女は、首をかしげて惜しげなく二振りの尻尾を揺らした。
 長く、つやのあるきれいな黒髪で作られた、尻尾をである。
 あたしはそんな髪の毛の光沢をぼんやりと眺めながら、紙パックの牛乳をすすった。口内いっぱいにバブみを感じつつ、同時にこいつの顔はこんなにかわいかったっけとほのかな疑問に苛む。
 なんだか久々な感じの、学校だった。


 時間は正午過ぎ。教室内でクラスメイトがめいめいに机の上に風呂敷を広げて弁当を使っていた。あたしはどうせ腹が減らんという見通しを持ってたので結局弁当も持たず、申し訳程度に紙パックの牛乳を無造作に腹に詰めた次第である。
 しかしラニとくるとあたしが飯を抜いている理由を体調の不良のためととったらしい。体調不良と風邪がどうして結びついてくるのかだけは理解できなかったが
 「風邪ぇ?」と聞き返すと同時に、あたしの無断欠席の都合合わせが風邪療養に落ち着いたものとみえ、
 「ああ、もう全然平気。まだ本調子じゃないけどさ、悪くはないよ」
 とは反射的に履き捨てた。我ながらあっぱれなアドリブだった。
 「ワッキーが風邪で休むとか珍しいじゃん。滅多にないことだからうちは結構心配したんだぜ」
 「心配するほどでもねーしょ。あたしだって風邪くらいひくわ」
 実態は風邪ごときでなかったことはあえて言わないことにした。
 「うちはてっきりズル休みコいてんじゃねーかなって思ってたんだけど」
 「ズルじゃねーし」と、すこし腹に据えかねながら反論した。
 「実際学校どころじゃなかったからね」
 生死の境をさまよった三日間だった、と言ってもこの妖怪クソ爪こだわりツインテールお化けは困惑するだけだろう。他者に話すべき話題でもない。
 「なんか言いにくい事でもあったんじゃね? うちでいいーならソーダンのったげるけど。勿論ナイショで」
 とラニは、彼女の性格に合わない至極まじめな顔をしていう。
 「……言いにくい事?」
 訊かれてすぐにはピンとこなかったのだけれど、思い返せば心当たりのあるものはいくつもある。例えば入海君関連の話とか。
 それがために、背筋にぞわりとした感触が這った。
 「……って、どーいうこと? ラニちゃん」
 「どういうことも何も……」とラニはちょいとバツの悪そうなかおをして
 「……言っていいのかわかんねーけどさ。数日まえにワッキーと入海君が言い争ってるところ見たって言ってる奴いてさ。あの二人の間になんかあったんじゃねーのって噂になってたから」
 とあまりにも恐ろしい噂を暴露し始めた。
 「……それガチ?」
 「ガチガチ。そっからドンピシャで風邪休みだってなったから、まあなにかしらあったんじゃねーのって空気になってたけど」
 「ああ……」
 途端、薄い頭痛が走る。
 「いや、別に風邪ひいたのはガチだし、全然関係ないよそれ」
 否定しながら頭を抱えた。
 見られていたのか、誰かに。
 あたしと入海君の会合を。


 秘密裏にこなそうとしていた分だけ、後ろめたさはあるものだ。みなに知られてどうというものでもないのだけれど(話した内容がばれるとさすがにまずいが)ともかく何やら頬が熱くなる感覚がした。
 あたしは視線をのみ、ある席の方角へと向けた。あたしとともにクラスにホットな話題を提供したであろう入海君の席である。
 今、彼の席は空席になっている。これは欠席しているというわけではなく、あたしが学校に登校したときに彼が出席していることは認知済みだ。それで今いないというのは、おそらくは売店か自販機かに用でもあったのだろう。その他、彼が席を空かす事由はないはずである。
 少し心配なのはそうした噂が立った今、気弱な彼が妙ないじられ方をしていないかどうかである。あたしはたぶんいじられる側の立場にはいないから、そうしたお小事とは無縁だけれど、彼のように叩かれても鳴き声を上げず蹴られてもなお表情を変えなさそうなハシビロコウみたいな人間というのはなにかとお小事と密接的関係を持っている。何しても騒がないと思わせると他の者どもは調子に乗るのだ。するとどれだけの悪戯が彼に音を上げさせられるかというチキンレースが始まり、同時にそれに耐える側もまた意地が発生して余計に騒がなくなる。いよいよこれが拮抗し続け拡大していくと、他の人間が異常に感じ始めるお小事になる。さすがに気付かれるまでいけば大事と言わざるを得ないが、かくして小事がばれた時、仕掛け人はこぞって「そんなつもりはなかった」「遊びのつもりだった」という。本人ともども遊びの範疇で小事を行っていたつもりの言葉だからそれらに嘘はない。無いがヒートアップしていた自覚がないだけに質が悪い。
 入海君に友達がいないというのは察するところだけれども、その環境もまた狙われやすい点である。もし仮にあたしと入海君との接触が、例えば入海君を用いて憂さ晴らししている悪党どもの知るところになり、そのことが彼を責める矛となっていたとしたならあたしとしては受け入れがたいものだ。


 あたしは彼の名誉のために
 「それ以外でなんか噂とかたってないわけ?」
 と、余計な火種の可能性の是非を問うと
 「それ以外はなんもたってない感じ。噂がそれ以上悪化してねーだけ、まだましかもね」
 と呑気げである。
 「まじでそのほかないんだろーな。あったら嫌だぞあたしは」
 「ねえってば。それ以上騒いだって仕方がねーじゃん。当人同士の問題だろうし、首突っ込んだり、ありもしねー話をするのは野暮ってもんでしょ」
 「それは……」あたしに突き刺さる言葉である。
 「ありがたい」
 「まあでも、ワッキー、入海君になんかされたんならうちに相談しろよな。報復手伝っちゃるから」
 「報復て」
 それをしてしまっちゃ、本末転倒だ。
 「別に何かされたってわけじゃないよ。大層なこともない」
 「そんならいーんだけどさ」
 得心のいった表情をしたラニは、次にあたしの手をとり、もちもちとつねりながら、
 「あんま一人で抱えすぎんなよ。若菜」
 という。
 「……そりゃどういう意味?」
 「若菜って根がまじめじゃん。ウチとかはさ、どうにもなんねーって時は泣きつくっていう最終奥義を持ってるけど、若菜ってそういうの絶対しないじゃん」
 ラニはそう言いながらあたしの指と自身の指を絡めさせて遊んでいる。
 あたしも手持ち無沙汰に飽いて彼女の手を握り返す。
 「そんな感じじゃあいつかパンクしちゃうぜ」
 「あたしが抱え込む性格って言いたいのか」
 とつぶやけば、彼女は小さく「そ」と返した。
 「風邪かどうかは別として、なんかあった時くらい周り頼んなよ。ぶっちゃけて若菜のいないガッコーめっちゃ暇だったからな」
 「んなこと言ったって、ありゃ風邪でしょうがなかったって……」
 取り繕うようにそういうけれども、だがすぐさまに、このラニという親友はあたしのことを何でも知っているきらいがあることを思い出す。あたしを取り巻く様々な異変に気付く嗅覚を持つ彼女の、今しがたした提言は、総てを知ったうえでの忠告なんじゃあないか。知りつつ、しかし余計な詮索をしまいとする、そんな意志の表れではないかとみることもできた。
 「……あんがと」
 あたしはラニの真っすぐした目を見つめ返しきれず、少々気分の晴れないご様子の窓の外を流し見して、ふぅと一服溜息を吐いた。


 「話変わるけどさ」とラニは言う。
 「……若菜ニキビできてるよ」
 「うっそ、まじ???」
 激烈な衝撃とともにラニを見つめた。
 あたしは肌に対しては並みならん気合いをもってして向き合っている。折角の無垢の肌に荒れが浮かぶのが気に食わないからだ。
 三日間、満足に肌を手入れする余裕がなかったせいだろう。気を抜きゃ直ちに荒れが生じる。この歳頃の最大の悩みである。
 「どこ?」
 「鼻の頭。目立ち過ぎだし、マジウケる」
 「わらえねっつの」
 触ってみると確かにぷっくりとした感触があった。大きくはないが確かな存在感が指の腹に伝わった。
 「最悪。まじあるし。手鏡持ってねえ? あたし今朝バタバタしちゃってたから化粧道具一式忘れてきたわ。なんもしてきてない」
 「まー優しいラニちゃんは貸してやるに吝かじゃあないねわねえ。……てかワッキーその顔ですっぴんてマ? なめてる?」
 「情緒どうなってんのよお前」
 ラニは、もったいぶった手つきで手鏡を取り出すなりその鏡面をあたしに向けてきた。
 鼻ッ頭、ど真ん中に生じるとはイケ好かん炎症である。顔のセンターに居座るなんぞどこぞのアイドルじゃああるまいし、炎症如きにあたしの面のセンターは荷が重すぎるだろうに。
 眉をひそめて、鏡を見つめた。
 「ん?」
 あたしの視線は空回った。丸い手鏡の縁を視線で沿い、そうして中央を見すくめ、次にラニの顔を一瞥、幼げな微笑を残すその表情を、あたしは困り切った顔で見つめ、もう一度鏡に視線を返す。
 ない。そんなもの。
 「……えっ……」
 息が詰まる。これは一体……。
 ……どういう、ことだ?


 「絶句じゃん。そんなに衝撃的だったかよ」
 けらけら笑う彼女の様子に、一瞬どっきりか何かを疑った。そういうことを楽しんでやっているものだと、一瞬勘繰った。
 だがもし、今あたしが認めた『鏡の中の内容』が、もう全くその通り、事実通りであり、彼女が悪戯の類の一切を企ててなかったものだとしたら。……それはそれでまた、面倒なことになる。
 手鏡が傾いた。おそらくラニは、その鏡を覗いてあたしのその『ニキビ』とやらをあらためるつもりだろう。
 「ら、ラニ!」
 瞬時にその危惧を予感したあたしは、とっさに彼女の手をつかむ。ラニは、驚いた表情で固まった。後ろ手に生える二本のテールが乱雑に動く。
 瞳は動揺の色をたたえて輝く。彼女は、しきりに何度も瞼を瞬かせて、明らか意表を突かれた様子をしていた。
 「……ちょっと、待って」
 どもりながら制した。
 「……? ちょ、ちょっとマジでどうしたん若菜。なんか具合悪い?」
 上ずった彼女の声に頷き、
 「……今しがた、悪くなった」
 と返した。
 「うちなんか気にすること言っちった感じ? 顔すごい怖いけど」
 かぶりを振って、
 「いや、違う。怒ってるわけじゃなくて」
 と返ずる。
 「……風邪、ぶり返してきたかも。ちと気分が晴れんから、保健室行ってくるわ……」
 机を支えに立ち上がると、つられてラニも立ち上がり
 「おいおい、ウチがついてってやるよ」と言ってくれた。
 だけれどもあたしは
 「大丈夫」と片手で払い、
 「悪いけど、一人で行かして」
 と断った。
 独りで行くっきゃない。
 あたしの目的地は端から保険室なんかじゃあないのだ。


 駆け足で、廊下を進む。保健室は一階にある。現在は校舎二階の渡り廊下。目指すべきは階段なのだろうけれど、あたしにとっての目的地はそこじゃなかった。
 階段でも、まして保険室でもない。お目当ては、階段のすぐ側、隣接してある女子トイレ。
 歩行中に窓を観る。苦虫をかみつぶしたような表情になる。
 続いて、廊下に面している手洗い場の、銀色に照る蛇口に視線を移す。丸みに宿るゆがんだ小さな景色には、やはりどこか異常があるようだった。
 自然、足は速くなる。眉間に力が入る。他から見れば怒気を発しながら猛然と進んでいるのだから、当然、人の波は勝手に割れる。
 とかく急ぎ足で女子トイレに駆け込み、戸を開けると、内部の芳香の匂いが鼻膜に達する。排泄物のにおいをごまかすための無理付けの匂いは好みじゃなかった。一瞬ムッとくる。
 あたしは誰もいないことを一目確かめるなり鏡の前にでかでかと陣取り、大きく息を吸って、そのまま覗き込んだ。
 そうして、二度目の絶句をする。


 「……うそ。嘘だよ。こんな」
 あたしは自らの手で頬に触れる。
 感触はある。だけれど、その手は鏡に映っていない。
 手、のみならず。
 頬も手も、目も鼻も口も髪も自慢の肌も合切総ても。
 そこには、なかった。
 鏡には、壁を背景に見慣れた制服が浮いている。
 見慣れた制服以外、鏡の中に登場人物はいないのだ。
 そこには誰もいないと、言いたげな様子で。
 きれいさっぱり、あたしの細胞はこの世に存在していなかった。
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