vaccana。

三石一枚

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第十四話 血縁者。

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 「眷属つくりとは、人でいうところの子作りだ」とは、再恋寺さんの言葉である。そんな言葉を聞いた直後、あたしは舌の上でその言葉をよく咀嚼し、噛み潰して意味をよく吟味した。
 そうして、やはり少しばかり、納得のいかないものである。あたしの思う眷属と言えば、明瞭すぎる主従関係があり、主人に対しての忠誠は絶対。ゆえに眷属自らの自由や人権性はほぼ皆無で、その体は末端の爪先までもが主人の『物』であるというような扱いである気がするのだ。勿論、昨今はびこる娯楽の中での設定でしかないのかもしれないし、実際の眷属とは全体、どんなものだったか、というのは想像だにしなかったのだが。本職の彼女が言うのだから、それにケチをつけるというのは専門家に対し、ずぶの素人が口をはさむまったくもって無謀な光景でしかないにしろ、とかく先入観が彼女の説得の邪魔をする。
 その先入観が先んじて、眷属を作る、という行為を、人でいう子作りであると呼び変えるというところが、なんとも的を外しているような気がした。人のその行為には、いかにせよ愛情であったり特別的な感情が入り混じってしかるべきだろう。眷属という名の奴隷を作るにあたるのが、そうまで特別な事とは呼べまいに。
 「……眷属って、しもべとかの意味じゃないんですか?」
 眷属という言葉の味わいに飽き、専門家としての見解は如何なものかとそう問えば、再恋寺さんは
 「端的に言うとそうだけど、吸血鬼にとっちゃ、そんな言葉じゃ表せないくらい特別なものだ」という。
 「下僕であり、従事者であり、伴侶であり、恋人であり、兄妹姉弟であり、家族であり、子供でもある」彼女はそう言い切り、終として
 「血のつながりが生じるもの、それが奴らでいう眷属だ」としめた。
 愈々もって理解のしようがない。どうして入海君とあの吸血鬼が血縁関係になれるのだろう。
 仲睦まじい夫婦ですらがもとより血のつながりのない赤の他人同士である。況やいわん化け物と人間は混じりようもない。精神的な絆は認められるとしても、肉体に準ずる絆など、異種同士の関係から結べるはずもないじゃないか。


 「吸血鬼が人を眷属に迎え入れるとき、大きく二つほどの採点基準がある」というなり再恋寺さんは人差し指を立てた。
 「まず一つに吸血鬼自身がその人間を気に入ったとき。傲慢で狡猾な吸血鬼が下等な人間を認めること自体、かなり珍しい話だが、気に召した場合、冷徹な吸血鬼にも情愛が芽生えるそうだ」
 再恋寺さんは次いで中指をピッとおったてた。
 「二つ目に、人間が眷属になることを了承した場合。吸血鬼も、この眷属という特別な存在を作るにあたって相手の感情を重く見るものとされている。人間も婚約を想定していない相手に対し、入籍の強要はしないだろう。同様に、吸血鬼も認めた相手が為に、強要をしない。勿論、無理くり作ろうとする野蛮な奴もいるだろうけれど、吸血鬼は共通して、やはりこの眷属というものを特別視している。気に召した人間が、自分の血族によろしく入りたいとしたとき、はじめて眷属作りが始まるとされているね」
 立てた二本の指を、再恋寺さんは片方の手でぐっと握りしめた。抱擁をも思わせるその手つきには、だがしかし、彼女の心根を苗床とする、仄暗い闇が擦ってまとわりつくようにも見えた。
 「以上二点を抑えたら眷属つくりは本格的に始まる。吸血鬼でいう眷属とは、血のつながった己の分身のことだ。自分の血液を、被眷属者に輸血する。己の体液を愛玩にそそぎ、その温もりを与え、相手の体に己の因子を産み付ける。必要以上に愛し、必要以上にかわいがり、人が動物を愛でるときよろしく、あるいは、劣情を抱いた対象を激しく求めるのと同じように、相手が己のことだけを意識するように愛撫するわけだ。輸血時は勿論、人間は血を吸う生き物じゃあないから拒否反応が激しく出るだろうが、順応が高まるとやがて吸血鬼よろしく、血を吸うことをためらわなくなる。やがて自ら吸血鬼の肌に牙をたて、主の血をせがみ始めたらそれで眷属の完成だ」
 「かくて人を棄てるのだ」彼女はそう吐き捨てたのちに、固めた両手を解放した。そののちに、瞳に悲哀の光をともし、次いでいたわるようにこうも話す。
 「吸血鬼ってのは孤独な存在だ。同種同士ではテリトリーの関係上絶対に相容れないし、人間を相手取っても餌としか見れない。眷属という身内を作らない限りは、世には己と己以外という、至極サビシイ世の中で生きねばならん。であるからして、唯一の身内の眷属というのはかわいいに決まっている。後天的であるとは言え、疑似的にも自分と同じ血を体内に流している。それも、自分の気に入った相手が、だ。こんな素敵な相手を、伴侶、あるいは子供であるといわずしてなんというよ」
 再恋寺さんは若干の憐憫を含んだ物言いで結をとった。
 吸血鬼は孤独。同種とは相容れない。ゆえに脆弱な種を愛するしかない。ある意味で、吸血鬼が眷属を作る目的の一つは、孤独を晴らすためである、というのを彼女は言いたいのだろう。
 褒められたものではない行為。それでも、そうでしか救えない存在、なのだろう。
 あの吸血鬼もきっと、孤独を厭い、その中で入海君と出会い、彼の何かしらに惹かれたから眷属にしようとしていたのかもしれない。
 仮初とはいえ、それでも彼が、自分の身内になってくれるなら、と。
 そうなってくれるなら、きっともう、こどくではないと。


 つと、思い返すのはあの少年。入海君のことである。少年と呼ぶとあたしがまるで年増で、偉ぶった風が靡いてしまうのだけれども、とかく同年代のあの少年は、では吸血鬼のことをどう思っているのか。
 再恋寺さんという本職の方の見解を察してみれば、なるほど吸血鬼の行う眷属の作り方というのは嫌に熱の入ったものであるらしい。イヤらしく、熱のこもった情愛的なものである。それこそ、暴力的なものでなく、もっと形が柔らかいものだったなら、純愛そのものだろう。感動的なものである。
 そう、これはまるで純愛的なものなのだ。人が人を愛するように、あるいは人が愛猫を愛でるように、のみならず姿勢の違いに差はあまりないにせよ、異種が互いに心を寄せ合っているという、実に稀有な状況が成り立っているわけである。尊ぶべき信頼が、吸血鬼と人との間で引かれているということになる。再恋寺さんの言葉に寄らば、例えば人が吸血鬼とのつながりを願えば、やはりそれで眷属になれる。吸血鬼も勿論、人を愛せば、そのものを眷属として、愛でると誓する。互いの合意の元でこの関係性が成り立っているのであれば、ここには相愛の関係しかないのである。
 そうだ、ここに、被害者や加害者という、事件性の密度はない。
 あたしの危惧していた、そもそもの、事件性を孕む関係性というものはないのだ。
 彼は、吸血鬼のことをどうおもっているのか、など。
 考えるまでもなかったじゃないか。
 「入海君は、吸血鬼の眷属になりたがっている」
 ……としたら。
 「……あたしは、本当に正しいことをやれていたのだろうか」
 自己の我儘、それこそ、これが正しいものであると信じて疑わぬ自信を、疑わぬままに入海君に押し付けていた、だけ。
 自分は良いことをしている、入海君を助けることができる、その足掛かりを作っている、というのを、自己完結して思い込み、そのあまりにも利己的な自慰行為を彼にぶっきらぼうに押し付けていた、それだけ。
 その踏み込みなど、合意によって寄り添った二人にとっての邪魔でしかないはずなのに。
 綿密になりつつある二人の関係に差し込まれたお邪魔虫。今になって二つの声が耳朶に重なった。

 『出里さんのソレはエゴじゃないですか』
 『……浅はかな考えが生み出した壮大なエゴ。唾棄すべき小さな自尊心が……』

 「……あたし。」
 全て、入海君のため?
 苦しんでいる、クラスメイトのため?
 彼がこれ以上、吸血鬼にいいようにされないため?
 いや違う。
 自分の為だ。
 自分がただ、傍観者に回りたくなかっただけだ。
 回りたくなかったから、勝手に手を出した。
 自分が気持ち悪くなりたくないから、状況を一切鑑みずに手を出した。
 どうにも、自分のことしか考えていなかった。


 「おーい。大丈夫若菜ちゃん? 具合悪くなったかい?」
 声を聞いて、うつむき加減だった顔を上げると、心配そうに眉を弓なりにした再恋寺さんがあたしを覗き込んでいる。あたしは無理くり、表情を明るくしようと務めたが、強張る表情筋が笑顔を拒む。
 動揺がある。彼女の話を聞き、その深度を伺うほど、己の行っていたことが、畢竟ひっきょう自分の為でしかなかった、という、あまりにも受け入れがたい現実がうかんできた。自分勝手に盛り上がって、いい気になって、それが必ず誰かのためになるものと思い上がり、事に当たっていた。だが助けるべき相手にも、あるいは、憎むべき相手にも、その行為が『エゴ』であると、早々に見抜かれていた。それでもあたしは舞い上がっていた。一度浮かんだ羽毛は簡単に地には落ちない。経過を待つか、何らかの衝撃が働いてようやっと地に接するものである。再恋寺さんはあたしにとっての衝撃である。深く、耐え難く、受け入れ難い真実をもってあたしを現実に、地面にたたきつけてくれた。
 地に足ついた。ついたなら二度も浮足立たない。
 救われない考えを掬い取ってくれたのだ。
 「……迷いが生まれたって顔してるぜ、若菜ちゃん」
 なるほど迷いである。あたしは「迷い……」とつぶやくなり、両膝を抱え込んだ。そうして、再恋寺さんの瞳を、きれいな茶色をした瞳をじっと見つめた。彼女はあたしの直進的な視線を受けて、前髪を揺らして首をひねった。
 「情熱的な視線だね。なんか言いたいことでもあるのかな? 告白はやめろよ。まだそんな付き合いじゃないし」
 「違うので安心してください」
 寄る波のごとく荒れたかと思えば、寒風に飄々と乗る雪んこのようにおどける、大変な性格だなと呆れつつ、ともかく思うところは確かにある。
 「あたし、このままでいいんでしょうか」と切り出し
 「このまま、あたしのエゴを貫くだけでよいのでしょうか」と問いかけ
 「入海君がこのまま眷属になりたがっているのだとしたら、それを尊重してやるべきなんじゃないでしょうか」と是非を聞く。
 しばらくは、蝉の鳴き声と、ベッドのスプリングがきしむ音、その二点のみが、少しむしばむガラクタ倉庫の空間で音を上げていた。そのほか、誰もいないほどに、寂しく無音となった。寂しい中に、でもやはり、あたしと、再恋寺さんはいる。あたしは次の言葉に悩んでいる。彼女は、答えは決まっちゃいるが、その言うべき答えの、言うべきタイミングを読んでいる様子だった。長い間、沈黙しているようでもあるけれど、それは体感で、おそらくは発情した蝉が鳴く、二クールにも満たぬ間の沈黙だったろう。
 汗水が頬を滑り顎から落ちる、あるいは、疲弊した蝉が黙ったその瞬間、再恋寺さんは口を開く。
 「……君がどう決断をしようと、ワタシは入海君を助けるための行動をやめないよ」
 という。
 「例えば君が、この場でワタシにもう協力できない、って言ったとしてもね」
 「……何が何でも、続行するってことですか?」
 「おん。続行する。それがワタシの仕事なわけだし」
 彼女は事も無げという雰囲気だった。
 「若菜ちゃんからの密告がなかったとしても、あるいは、君という友達の、顔見知りが被害に遭ってるから、という理由がなかったとしても、一男子の入海君があわや吸血鬼に目をつけられて、至らんことをされている、と知ったなら、どうにせよ今のように助けるために動くね」
 「でも、その行動は彼らの意思を尊重してないんじゃ」
 尊重されるべきは、二人の意見。そう思ったればこそのあたしの迷いである。あるけれどしっかりとした口調で彼女はこうバッサリと斬った。
 「関係ないよ。ピンチだもの」
 「でも、それってエゴでしかないじゃないですか」
 「エゴの何が悪いんだよ」
 たはは、と彼女は笑う。
 「なるほどエゴだ」と彼女は神妙に頷き
 「だが本来、エゴは悪い事じゃあない」と付け加える。
 「スーパーヒーローは最初からスーパーヒーローだったわけじゃない。これまでの実績が認められてそう呼ばれるようになった。生まれてすでにスーパーヒーローだったわけじゃない。そうに至るまでに、誰かを助け出したい、そんなエゴがあったはずだ。そうしてそれは、矢張りヒーローのみならず、あらゆる人間が同様の思いを持ち合わせている。小説を書く、ものを描く、曲を作る。なんでもよい、機械技師になる、デザイナーになる、プログラマになる、あらゆる、人の夢や欲求、こうありたいとする自軸は、根底にエゴイズムがある。私はそう思っている。だから今日日きょうび、吸血鬼を狩る。これも世の中の被害者を減らしたいという欲求に対しての利己主義だ。君の入海君を助けたい、というのも、おそらくきっと、入海君がひどい目に遭っているという状況を何とかしてやりたい、という、それこそ自分がそうなってほしいというエゴイズム、利己主義によるものだろう。ワタシが君のエゴを否定したら、それはワタシ自信を否定することになる。君のエゴイズム否定すると、ワタシ達吸血鬼狩りは並びならんで、極悪人ばかりになってしまう」
 再度、再恋寺さんは、触診の時にそうしたように、両手であたしの頬を包み込んで、高価なツボでも覗くかのように、曇りのない瞳であたしを見つめる。あたしは、なんだかくすぐったくなって、視線をそらさざるを得ない。その熱は、あまりにも、先般程よりこもりこもった意識の感触があったからである。
 「若菜ちゃんはクソまじめだから、自分の行動が果たして入海君にとって正解かどうかで悩んじゃってるんだろう? 勿論、この件の進退を決めるのは君自身だから、無理にワタシに協力してくれなんて言うつもりはない。君が、これ以上の肩入れは無意味だと思うなら、あとはワタシに任せていればいい。付いてくるなら、それもよし。だけれど、君には是か非、それ以外の、何か明確な答えが要りそうだね。正しいか正しくないか、そうじゃない。君は、他人からの肯定に飢えている。飢えているけれど、それを満たしてくれる答えがそうそうないから、是非で無理やり採算をつけようとしているんだ。君に必要なのは君自身を信じ抜けるようになる、そのあと押しだ」
 再恋寺さんに腕に抱かれる。彼女の、女性らしい潤しさが、あたしの肌に混ざるようだった。
 「エゴは悪い事じゃあないよ。それは人を動かす原動力だ。並びに、そうでしか助からないものもいる。やったことの良し悪しなんて後からついてくる。今、判然とするわけじゃない。入海君に恨まれるかもしれないし、逆に感謝される可能性もある。どちらとも言えないけれど、今の君は絶対に間違いなんかを侵してない。ワタシが保証する」
 あたしは間違っていない。その判定は、第三者からすれば、疑惑の判定だろう。裁判官が在れば、白黒どちらの判決であるかわかったものではない。それでも、である。
 「……ありがと。再恋寺さん」
 その一言をかけられればこそ、あたしもまだ彼のことをあきらめなくてもよい、という思いに突き動かされるのだ。
 純愛が何だ。あたしだってあの子を救いたい。
 彼をみすみす被害者にさせてたまるものか。


 唐突に、どこからか電子音が鳴り響いた。再恋寺さんはジーンズの後ろポケットからスマートフォンを取り出すなり、「電話、出るね」とあたしに告げた。ゆっくりとあたしから離れた彼女は、すっと立ち上がり、わずかに甲高い声量で応答をする。
 「もしもし。お世話になっております、再恋寺です。……ああ、着きましたか。ご足労おかけしまして申し訳ない。……ええ、容体は無事です。おそらくは、もう問題はないかと。……いえいえ、こちらこそ。駐車場は、空いてるところどこでもいいので、適当に止めてもらって大丈夫です。はい、それでは玄関でお待ちしてます」
 電話が切れると彼女は、ぐぐいと背伸びをしてかすかに息を漏らす。
 「お客さんですか?」と聞くと、彼女は体を脱力させながら
 「まあ、ワタシにとってはお客さんかな」という。腰をぐりぐりと回している。つづけて
 「出里大葉さんだよ。つまり君の叔母さん」
 とした。
 「大葉さん!? なんで!?」
 再恋寺さんのその口から身内の名前が飛び出るとは思わなかった。なんせ彼女には一度たりとも家庭環境の話をしていない。
 両親の話も、あたしの保護者が叔母であることも、である。しかし彼女は、ちっとも不思議でない様子で
 「なんでも何も、未成年を勝手に保護するわけにゃいかないだろう。保護者にはちゃんと許可をもらわなくちゃね。さもなくば誘拐犯になっちゃうよワタシ」という。
 「なんで大葉さんが再恋寺さんの連絡先知ってるんですか……。てかいつの間につながってたの?」と問えば
 「ワタシは吸血鬼狩り。常人と化け物を探る役目を持つ。探偵業ほどじゃあないけれど、人の足を辿るのなんかは造作もない。大したことはないのさ。若菜ちゃんの事情を、その口から聞かずともね」と華やかにウインクをする。
 「……こっわ」
 吸血鬼ほどではないにせよ、この女性も何やら化け物紛いな恐ろしさを演出する傑物であると思った。


 大葉さんは倉庫の出入り口で姿を見せるなり、あたしのもとに飛んできてすさまじい勢いで抱きしめてきた。懐かしいにおいが鼻腔に届く。高校生になってからは一度も嗅いでない、大葉さんの匂いだ。表皮を重ねるほどに密着したことなんぞは高校、いやさ中学半ばごろから一切したことがない。春思う時節、特にこっぱずかしさが勝つためである。
 けれども状況が状況のために、あたしはその深すぎる愛情を甘んじて受け止めた。そうして、にじむ彼女の心配を打ち消すがためにあたしも抱きしめ返した。ここ数年で、あたしの背は大葉さんを越しつつある。少し小さくなった、というと老いたことを強調させるかもしれないが、とかくあたしの身体的な成長が彼女をほんのちょっぴし頼りなさげに思わせる。
 大粒の涙を流す彼女は、どこまでいっても一人の人間である。今まで保護者として見てきたから彼女のことを頼りがいのある人であると見てきたのだけれど、それはやはり彼女の、気負いがあったればこそだろう。ふたを開ければ、彼女も人並みのタフさしかない。その心許のなさが、人たる所以であるし、何分あたしとミリも変わらぬ人であることへの証左だと思った。
 あたしも、少し泣いた。こんなにか弱げな人に、擦りきれんばかりの心配をかけさせて、あまつさえ、平然と愛情を受け続けている自分の情けなさが、心を剃刀で削るような鋭利的な痛みを生むのである。そうしてそれ以上に、彼女のあたしを思ってくれているという温さが、限りなく、体内の血潮をめぐって体の全部を温めてくれるのだった。
 失った血液は多かったけれど、それがなければ、この久方ぶりの温かさは感じられなかったかもしれない。そう思えばここ数日の親不孝も、孝行を思い出させる布石出なかったかと、少しばかり思う。
 吉日凶兆、大難取和、禍福は糾える縄のごとく、なべて世は事もなし、と。


 再恋寺さんに別れを告げた後、あたしはまだ眩暈がやまないので大葉さんの車の後部座席に寝転んだ。車のサスペンションが跳ねるたびに、身体が上下にゆすられる。
 微睡が少しあった。車の芳香と、久々に見れた大葉さんの顔と、その匂いが、これまでの過負荷的なストレスを取り除き、真の意味での安心に導くのである。
 「大葉さん」あたしは、路面を走行する音以外、無音の車の中で声をかけた。
 「心配かけさせて、ごめん」
 叱られてしかるべきだろう。どんな冷たく詰られても、そういわれるだけの不安を彼女に植え付けさせたのは事実である。けれども大葉さんは
 「……若菜。今日のご飯何がいい?」と聞くのだった。
 「おなかすいたろ。何日も食ってないって聞いたよ」ルームミラー越しに視線が交わる。
 「……さっき食べた」
 「へえ。何を」
 「……おかゆ」
 「作ってくれたの? あの人が」
 「……うん。おいしかった」
 「優しい人だな」
 「うん。……悪い人じゃない」
 ガタリ、と車が揺れる。
 「……それでも、おおばさんほどじゃないよ」
 「ん? なんて?」
 「なんも」


 愈々、睡魔があたしの脳を支配するその狭間、あたしは悪夢のことを思いだした。いつもなら、目覚めるたびにその内容をさっぱり忘れてしまうはずの、生々しいあの光景は、しかしいまでも、鮮明に脳みそに焼き付いている。覚えているのだ、あの光景を。
 大葉さんが初めてあたしを家族として受け入れてくれた、あの情景も。
 「ねえ、大葉さん」
 「……どうした?」
 「昔と変わらず、あたしのことって好き?」
 暗闇の外側から、はにかんだ笑い声が聞こえる。
 「恥ずかしいことをいわせんじゃねーよ」


 「変わるわけないだろ。そんなこと」
 「……あたしも」
 「大葉さんのこと、好き」
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