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第四話 熱中。
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あの事件から二日後。本日は金曜日。晴れ晴れとした日であるために紫外線がよく届く日となった。おかげであたしは厚着を強要される。そのくせ若干の夏の色を見せ始めたためにじんわりと汗が浮くような暑さになってきた。虫の音もついに高鳴りだして耳の膜を刺激する。夏の季節を歓迎する気持ちとともに、勘弁してくれという嫌悪感も沸く次第となった。
時間は昼飯時。いつも通り昼飯を自席に広げた。教室内には微風も遊びに来ないんで、持参したハンディファンの風にかかっていると
「便利なもの持ってんじゃん、ワッキー」
といいながら額に湿りを生じさせたラニがやってきた。
あろうことかあたしと顔を並べて風のおこぼれにあやかろうとする。
「近寄ったら熱いだろ逆に」
「寄ってほしくなけりゃうちのために風を呼べ」
「バカ言うなし。つか汗かきすぎっしょ。まだ夏は本腰入れてねえべ」
「うちはキソタイシャがいーの。それだから汗もかくし体温だって高い。カワイソウに思わないかいこんなうちを」
「微塵もカワイソーにうつらねーわ」
「つかさ」ラニは話の腰を折ってこう言う。
「ワッキー、寝不足っしょ」
「えあ?」急に的を射抜くような言葉をかけられたもんだから変な声が出た。
事実、あたしは最近地味に寝不足気味だった。
「なんでわかんの」
するとラニは自分の瞼を人差し指で差した。
「一重になってる」
「え?」
「ワッキーは元々二重なんだよ。それが一重になってるときってのは、大体あんま寝てないときのサインになってんだよね」
とラニは言う。
ケータイのインカムで顔を確認すると確かに一重になっていた。……てか、なんでそんな体調の変化をこの娘は気づいているのだろうか。
「……こわ」
洞察力という言葉では片づけらんない恐怖を感じた。
さて、ここであたしはちょいとばかりこの睡眠不足のことについて補足を入れたい。一重にこれは、今から二日前の『例の現場』を見てしまったその弊害である。あの現場に居合わせてしまったがために、そのことばかりがちょうど陽が東から出って西に落ちるよろしく、ぐるぐると思考を回ってやがるのだ。ふとした時にあの現場を思い出し、かすれて消えたかと思うと、時を置いてまた脳漿の片隅に出現する。そうしてそのたびに、あたしにヒントの一切ない哲学的な問いのような無理難題を押しかけてくる。このまま見過ごすべきか。あるいは助けるためにあたしに何ができるか、そういう問いかけだ。寝る前の意識的暗黒下にあってはこのめぐりが特に頻繁で、ゆえに著しくあたしの睡眠というものを阻害するわけである。結果が、このざまだ。
入海、何某。正直下の名前なんて覚えちゃいない。そのくらい、あたしと彼は関係性のない人間だった。一方がギャルで一方が真面目君、という表現をすれば如何にあたしら二人が混じらない関係性なのか伝わるんじゃなかろうか。
入海君は、目立たないくクソ真面目な人である。常に一人で、水に落とされた油の如くに浮いている。同じクラスのくくりだが、視界には入りはすれど肉声を耳にしたためしがない。だからつねるとどんな悲鳴を上げるのか、あるいは怒声を叫ぶのかすらわからない相手である。声を知らないなら、素性を把握できるわけがない。
存外、声とはその人の体裁を語る素材になる。猫を撫でた声を出すか、剣で突くような張りを見せるか、微少な危害を加えることで根底から覗く素性を嗅ぎ分けることが出来る。あたしが思うに、聖書に出てくる「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」という文句は、一度で声を上げなかった相手にもう一度手を上げるための方便ではなかったかと思う。さても魔物が出るか毛物が出るかは声の出方で判別をするというわけだ。この手合いは人付き合いにうまい者であれば大体は体得しているように思う。極めればひよこの雌雄を決して分ける作業よりはるかに楽なものだろう。
彼は、休み時間になっても大半は持ち場の窓際の席から動くことなく、視界に映りこんだ時には大体書物を広げて懸命に読んでいる。あたしゃ文字には疎い。疎いがこうまで脳内で有象無象の空想を並べ語句をまとめて語っているのは一重に妄想力のたまものである。この卓越した妄想力に権を握らせ、かつ彼の素性の一切を知り得ぬ状態で都合をよく解釈するとするなら、おそらくだが彼には友達という類がいない。
いやさこの表現は軽い中傷に足を突っ込んでいるように思えるけれど、しかし実際、彼が親しみを持った学友の存在と言葉を交えた瞬間をこの目で見たことがない。
もちろんあたしは彼の委細を零点以下の間隙すら見逃さずに監視しているわけではないから、目の届かぬところでそれなりに交友関係を愉しんでいる可能性もあるわけだが、その可能性が微塵でもあれば休憩時間等に彼が教室を退出するかあるいは学友の方から来訪するに決まっている。
だが決まっているのは彼がどんな休憩時間に際しても動じないことである。彼を訪ねる人影もなく、自身も訪れようと動く気配もなく、ただ座したまま王の墓を護る埴輪のように動かないのである。動かぬという現実からは交友関係の可能性というのを微塵も感じ得ない。
他人は己を映す鏡であるという哲学的論理を以て明かせば、彼にとっての他人であるあたしが、彼を友達を持たぬ人と評価するとその通りになる。つまるところこの友達を持たぬという評価は事実で、事実であればこれは根も葉もない中傷とは呼ばずに根拠を元手にした誹謗となるわけだ。この誹謗の出所が妄想である点に目を閉じれば、なかなかに筋の入った考察とあたしは考える。
しかしあたしの独断のみで彼の根底に関わる話しを断るのはいささか恐縮なところだ。
なので近辺の者にも聞いてみることにした。入海君をどう思うか。
あたしの最高の親友にしてもっとも爪に関してはうるさいコギャル曰く
「いや、正直うちも素性わかんねーよ。つか聞く相手間違えてるっしょ。ワッキーがわかんねー相手のことうちが分かるわけなくね? うち学年でワーストの脳みそ持ってんだよ?」
と宣った。後頭部に生えた二股の尻尾をフリフリしながら彼女は懸命に爪を研いでいる。額に浮く熱も爪への熱に対すればまだ涼しいものらしい。
「人付き合いに関しては地頭関係無ぇっつの。ラニはあたしと比べて人脈広いんじゃん。なんとかしてあの子の身近な関係性ってのを割り出せないかね」
「ワッキーにそういわれちゃあ尽力するに吝かじゃありませんよ、うちは。だけれどしかし」
と言いながらズイと顔を寄せてきた。涙ほくろのある左目を眇めている。野郎がこの頓狂な面を作る時は大方不満があるときと相場が決まっていた。
「……なんで急に入海君の入れ込もうとしてんのさ」
彼女は鼻息も触れるほどの近さで囁くように言った。香り付きのリップ塗ってんな。
彼女の流し目の先には入海君がいる。例に漏れず、型にも漏れず、窓際の端の席でブックカバーが施された何かしらの書籍に目を通している。遠望して眼福の限りのようだ。優雅そうに見えて、だが先だっての妄想が手伝って若干憐れみを覚えてしまう。これはあたしの妄想が悪いだけの話だが、独りでいる口実が、もはや本が好き、というだけでは免れない気すらする。
「なんか、入海君って友達いんのかなって思っただけ。ずっとあんな感じじゃんね」
「そういや中学時代のワッキーもあんな感じではあったわな」
「うるせえ」
高校デビューで悪いか。ああそうさ、一年前まではあたしも入海君と変わりなかったよ。
「んー」とラニは鳴き声を発しながら持参のジャガスティックを一本咥える。
「同じ中学だったダチ公はいるけどさぁ。まああんまり変わんない子らしいね。中学でもあんな感じだったらしいし、なんか目立って仲のいー子がいたわけでもねえってさ。そーいう初歩的な話は聞いたことあるわ」
「なんだ、何も知らないっつってたのに情報持ってんじゃんか」
「ラニちゃん舐めんなよ。ゴシップの臭いをわずかにでも嗅げば寄って集めるのが渡世の生き方ってやつよ。これ、爺ちゃん談ね。金が目に見える最も型にはまった力だとするならば、情報はそれにツイを成す目に見えず型にもはまらない力だってさ。金なんてもんに無縁なあたしら貧困女子高生にとっちゃ情報だけが力よ。つまりラニちゃんは最強で超カワイーってこと。おけ?」
「すごいですね」
こそっとジャガスティック一本抜いてやろうかと指を延ばしたらラニの手に阻まれた。
「しかし校内で指折りの美人と名高い出里若菜様ともあろうものが、遂に青春を思う身になったか。しかも狙いが意外な人だねえ。大穴場じゃん」
「変な探りはやめな。あたしにそんな気はねーよ」
あたしは髪をいじくりながら断じた。脳内が花畑になると単純な気掛かりさえも妙に恋愛表現と結び付けてくるもんだから手のつけようがない。
「相手の身辺が気になるってのは恋の第一ステップですぜ、姉御」
「冷やかしてんだろ」
「冷やかしてんよ」
「あたしがそんなのに現を抜かすと思ってんの?」というとラニはすっと真顔になり
「……ありえんな」とつぶやいた。
ありえんは言い過ぎである。あたしだって人を愛する心くらい持ってるわ。
あたしが彼に抱いているのは懸想、ではない。懸念である。この二つは思想と思念ほどの違いがある。
あたしの脳内に彼を思う隙間があるのも、この懸念の所為だ。この懸念の出所は、言わずもがなあの夜に直結する。
あの夜にみた光景が、何かの間違いであったならそれはそれで結構なのだ。彼が事件の渦中にはないということになる。
だが、もしあの夜のことが、モノホンの出来事であったとするなら。昨今の度重なる事件の、連枝に由来するものであったなら。いつか、彼の座るあの座席に、だれも着かない日がやってくるかもしれない。二度と、あの姿をみれなくなるかもしれない。そう思うだけで、いてもたってもいられなくなる。
確かに話すらしたことの相手だけれども、見捨てるという選択肢をあたしは選べない。なんせ見てしまったのだから。百聞は一見に如かずという。風聞を頼って得た情報ならいざ知らず、網膜に焼き付かせた光景ともなれば、あたしはこの事実を認めねばなるまい。そしてこの事実を認めながら、そ知らぬふりをして生きるというのは、つまるところ彼の死を、あるいは彼への傷害を、容認しつづけることになる。
この状況は、後味の悪いものを残す。苦々しいものが味蕾に引っ掛かり続ける。この風味は、将来八十年の間、舌根に残り続けるものだろうから、それを感じながら生き続けるなんて真似はしたくはなかった。
できるなら、救いの手を差し伸べてやりたい。彼の場合、助けを呼びたくても呼べないという状況すら考えれる。内気とはそういうものだろう。過去にあたしも踏んでいた轍だからよくわかる。
だからこそ、彼のことを捨て置けんのかもしれない。親近感ともいえる。彼にもきっと、損得勘定なしに手を差し伸べてくれる相手が必要なのだ。
……あたしにとっての、ラニのような。
ラニから視線をそらし、彼のほうをちらりと見た。
一瞬、風がカーテンをあおる。その薄い布が開いたとき、彼の、どん欲に文字を食む黒い目が、こちらを向いていることを認めた。
ラニは言っていた。情報は金と肩を並べる力だと。金という有形の力を持たぬ以上、あたしら貧弱女子高生が唯一力として恃むことができるのは情報だと。
言いえて妙だと思った。確かにあたしには情報が足りない。金も権力も持たぬ一介の学生が何か事をなそうと動く場合、やはりそこに情報という無形の力を恃んで事を動かすのが最もだ。無形有形問わず力とは行動のガソリン。なくては自動車も車輪を積んだただの鉄くず同然である。
だからあたしは、まずもって情報を集めることを目的にした。あの現場を探索すれば何かしらの痕跡が残っているかもしれない。そこで手に入れた証拠を、然るべき使い方をすれば入海君の救出に本腰を入れてくれるかもしれない。
今日日、警察だって証拠がなければ縄を用意しない。力を借りたいなら、証拠をまず提示するところからだろう。
放課後。バイトもなかったけれど、ラニには用事があると嘘をついて先に帰らせた。時間をずらして帰宅の途に添い、その足で例の現場に足を踏み入れた。
相も変わらず、人の気の一切を感じさせない環境である。日は高くにあるのに、暗さがある。
どうにも、この場所を目の当たりにすると妙な胸の高鳴りがする。トラウマとはこういうものを指すのだろうか。あたしは日傘を揺らした。
「誰もいないよな」
恐る恐るあたしは公共トイレに近づく。……あの時の女が、ぐわりと飛び出してくるかもしれない。そう思うと肩が縮こまる思いがする。
タイルに足を踏み入れる、その時だった。
「ああ、ちょっとそこのお嬢ちゃん」
と背後から声が聞こえた。背筋がゾワリとした。
「ごめんねェ。怪しいものじゃないよ、ワタシは」
と声は続く。店長のそれに似た、間延びするような声だ。だがどこか、刃物のような鋭さを隠しきれていない声色だった。
あたしは蛇ににらまれたネズミのように、体が固まってしまった。背後の気配はだんだん近づいてくる、
「その制服。君、付近の高校の子だよね。ちょっと聞きたいことがあるんだけれど」
あたしは油の切れたロボットのように、がちがちになった首を無理くり振り向かせた。
「今からちょっと、時間もらってよろしいか?」
髪の真っ赤な長身の女性が、貫くような視線でこちらを睥睨していた。
地上が、雲のカーテンに光をさえぎられて、瞬く間に暗くなる。
時間は昼飯時。いつも通り昼飯を自席に広げた。教室内には微風も遊びに来ないんで、持参したハンディファンの風にかかっていると
「便利なもの持ってんじゃん、ワッキー」
といいながら額に湿りを生じさせたラニがやってきた。
あろうことかあたしと顔を並べて風のおこぼれにあやかろうとする。
「近寄ったら熱いだろ逆に」
「寄ってほしくなけりゃうちのために風を呼べ」
「バカ言うなし。つか汗かきすぎっしょ。まだ夏は本腰入れてねえべ」
「うちはキソタイシャがいーの。それだから汗もかくし体温だって高い。カワイソウに思わないかいこんなうちを」
「微塵もカワイソーにうつらねーわ」
「つかさ」ラニは話の腰を折ってこう言う。
「ワッキー、寝不足っしょ」
「えあ?」急に的を射抜くような言葉をかけられたもんだから変な声が出た。
事実、あたしは最近地味に寝不足気味だった。
「なんでわかんの」
するとラニは自分の瞼を人差し指で差した。
「一重になってる」
「え?」
「ワッキーは元々二重なんだよ。それが一重になってるときってのは、大体あんま寝てないときのサインになってんだよね」
とラニは言う。
ケータイのインカムで顔を確認すると確かに一重になっていた。……てか、なんでそんな体調の変化をこの娘は気づいているのだろうか。
「……こわ」
洞察力という言葉では片づけらんない恐怖を感じた。
さて、ここであたしはちょいとばかりこの睡眠不足のことについて補足を入れたい。一重にこれは、今から二日前の『例の現場』を見てしまったその弊害である。あの現場に居合わせてしまったがために、そのことばかりがちょうど陽が東から出って西に落ちるよろしく、ぐるぐると思考を回ってやがるのだ。ふとした時にあの現場を思い出し、かすれて消えたかと思うと、時を置いてまた脳漿の片隅に出現する。そうしてそのたびに、あたしにヒントの一切ない哲学的な問いのような無理難題を押しかけてくる。このまま見過ごすべきか。あるいは助けるためにあたしに何ができるか、そういう問いかけだ。寝る前の意識的暗黒下にあってはこのめぐりが特に頻繁で、ゆえに著しくあたしの睡眠というものを阻害するわけである。結果が、このざまだ。
入海、何某。正直下の名前なんて覚えちゃいない。そのくらい、あたしと彼は関係性のない人間だった。一方がギャルで一方が真面目君、という表現をすれば如何にあたしら二人が混じらない関係性なのか伝わるんじゃなかろうか。
入海君は、目立たないくクソ真面目な人である。常に一人で、水に落とされた油の如くに浮いている。同じクラスのくくりだが、視界には入りはすれど肉声を耳にしたためしがない。だからつねるとどんな悲鳴を上げるのか、あるいは怒声を叫ぶのかすらわからない相手である。声を知らないなら、素性を把握できるわけがない。
存外、声とはその人の体裁を語る素材になる。猫を撫でた声を出すか、剣で突くような張りを見せるか、微少な危害を加えることで根底から覗く素性を嗅ぎ分けることが出来る。あたしが思うに、聖書に出てくる「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」という文句は、一度で声を上げなかった相手にもう一度手を上げるための方便ではなかったかと思う。さても魔物が出るか毛物が出るかは声の出方で判別をするというわけだ。この手合いは人付き合いにうまい者であれば大体は体得しているように思う。極めればひよこの雌雄を決して分ける作業よりはるかに楽なものだろう。
彼は、休み時間になっても大半は持ち場の窓際の席から動くことなく、視界に映りこんだ時には大体書物を広げて懸命に読んでいる。あたしゃ文字には疎い。疎いがこうまで脳内で有象無象の空想を並べ語句をまとめて語っているのは一重に妄想力のたまものである。この卓越した妄想力に権を握らせ、かつ彼の素性の一切を知り得ぬ状態で都合をよく解釈するとするなら、おそらくだが彼には友達という類がいない。
いやさこの表現は軽い中傷に足を突っ込んでいるように思えるけれど、しかし実際、彼が親しみを持った学友の存在と言葉を交えた瞬間をこの目で見たことがない。
もちろんあたしは彼の委細を零点以下の間隙すら見逃さずに監視しているわけではないから、目の届かぬところでそれなりに交友関係を愉しんでいる可能性もあるわけだが、その可能性が微塵でもあれば休憩時間等に彼が教室を退出するかあるいは学友の方から来訪するに決まっている。
だが決まっているのは彼がどんな休憩時間に際しても動じないことである。彼を訪ねる人影もなく、自身も訪れようと動く気配もなく、ただ座したまま王の墓を護る埴輪のように動かないのである。動かぬという現実からは交友関係の可能性というのを微塵も感じ得ない。
他人は己を映す鏡であるという哲学的論理を以て明かせば、彼にとっての他人であるあたしが、彼を友達を持たぬ人と評価するとその通りになる。つまるところこの友達を持たぬという評価は事実で、事実であればこれは根も葉もない中傷とは呼ばずに根拠を元手にした誹謗となるわけだ。この誹謗の出所が妄想である点に目を閉じれば、なかなかに筋の入った考察とあたしは考える。
しかしあたしの独断のみで彼の根底に関わる話しを断るのはいささか恐縮なところだ。
なので近辺の者にも聞いてみることにした。入海君をどう思うか。
あたしの最高の親友にしてもっとも爪に関してはうるさいコギャル曰く
「いや、正直うちも素性わかんねーよ。つか聞く相手間違えてるっしょ。ワッキーがわかんねー相手のことうちが分かるわけなくね? うち学年でワーストの脳みそ持ってんだよ?」
と宣った。後頭部に生えた二股の尻尾をフリフリしながら彼女は懸命に爪を研いでいる。額に浮く熱も爪への熱に対すればまだ涼しいものらしい。
「人付き合いに関しては地頭関係無ぇっつの。ラニはあたしと比べて人脈広いんじゃん。なんとかしてあの子の身近な関係性ってのを割り出せないかね」
「ワッキーにそういわれちゃあ尽力するに吝かじゃありませんよ、うちは。だけれどしかし」
と言いながらズイと顔を寄せてきた。涙ほくろのある左目を眇めている。野郎がこの頓狂な面を作る時は大方不満があるときと相場が決まっていた。
「……なんで急に入海君の入れ込もうとしてんのさ」
彼女は鼻息も触れるほどの近さで囁くように言った。香り付きのリップ塗ってんな。
彼女の流し目の先には入海君がいる。例に漏れず、型にも漏れず、窓際の端の席でブックカバーが施された何かしらの書籍に目を通している。遠望して眼福の限りのようだ。優雅そうに見えて、だが先だっての妄想が手伝って若干憐れみを覚えてしまう。これはあたしの妄想が悪いだけの話だが、独りでいる口実が、もはや本が好き、というだけでは免れない気すらする。
「なんか、入海君って友達いんのかなって思っただけ。ずっとあんな感じじゃんね」
「そういや中学時代のワッキーもあんな感じではあったわな」
「うるせえ」
高校デビューで悪いか。ああそうさ、一年前まではあたしも入海君と変わりなかったよ。
「んー」とラニは鳴き声を発しながら持参のジャガスティックを一本咥える。
「同じ中学だったダチ公はいるけどさぁ。まああんまり変わんない子らしいね。中学でもあんな感じだったらしいし、なんか目立って仲のいー子がいたわけでもねえってさ。そーいう初歩的な話は聞いたことあるわ」
「なんだ、何も知らないっつってたのに情報持ってんじゃんか」
「ラニちゃん舐めんなよ。ゴシップの臭いをわずかにでも嗅げば寄って集めるのが渡世の生き方ってやつよ。これ、爺ちゃん談ね。金が目に見える最も型にはまった力だとするならば、情報はそれにツイを成す目に見えず型にもはまらない力だってさ。金なんてもんに無縁なあたしら貧困女子高生にとっちゃ情報だけが力よ。つまりラニちゃんは最強で超カワイーってこと。おけ?」
「すごいですね」
こそっとジャガスティック一本抜いてやろうかと指を延ばしたらラニの手に阻まれた。
「しかし校内で指折りの美人と名高い出里若菜様ともあろうものが、遂に青春を思う身になったか。しかも狙いが意外な人だねえ。大穴場じゃん」
「変な探りはやめな。あたしにそんな気はねーよ」
あたしは髪をいじくりながら断じた。脳内が花畑になると単純な気掛かりさえも妙に恋愛表現と結び付けてくるもんだから手のつけようがない。
「相手の身辺が気になるってのは恋の第一ステップですぜ、姉御」
「冷やかしてんだろ」
「冷やかしてんよ」
「あたしがそんなのに現を抜かすと思ってんの?」というとラニはすっと真顔になり
「……ありえんな」とつぶやいた。
ありえんは言い過ぎである。あたしだって人を愛する心くらい持ってるわ。
あたしが彼に抱いているのは懸想、ではない。懸念である。この二つは思想と思念ほどの違いがある。
あたしの脳内に彼を思う隙間があるのも、この懸念の所為だ。この懸念の出所は、言わずもがなあの夜に直結する。
あの夜にみた光景が、何かの間違いであったならそれはそれで結構なのだ。彼が事件の渦中にはないということになる。
だが、もしあの夜のことが、モノホンの出来事であったとするなら。昨今の度重なる事件の、連枝に由来するものであったなら。いつか、彼の座るあの座席に、だれも着かない日がやってくるかもしれない。二度と、あの姿をみれなくなるかもしれない。そう思うだけで、いてもたってもいられなくなる。
確かに話すらしたことの相手だけれども、見捨てるという選択肢をあたしは選べない。なんせ見てしまったのだから。百聞は一見に如かずという。風聞を頼って得た情報ならいざ知らず、網膜に焼き付かせた光景ともなれば、あたしはこの事実を認めねばなるまい。そしてこの事実を認めながら、そ知らぬふりをして生きるというのは、つまるところ彼の死を、あるいは彼への傷害を、容認しつづけることになる。
この状況は、後味の悪いものを残す。苦々しいものが味蕾に引っ掛かり続ける。この風味は、将来八十年の間、舌根に残り続けるものだろうから、それを感じながら生き続けるなんて真似はしたくはなかった。
できるなら、救いの手を差し伸べてやりたい。彼の場合、助けを呼びたくても呼べないという状況すら考えれる。内気とはそういうものだろう。過去にあたしも踏んでいた轍だからよくわかる。
だからこそ、彼のことを捨て置けんのかもしれない。親近感ともいえる。彼にもきっと、損得勘定なしに手を差し伸べてくれる相手が必要なのだ。
……あたしにとっての、ラニのような。
ラニから視線をそらし、彼のほうをちらりと見た。
一瞬、風がカーテンをあおる。その薄い布が開いたとき、彼の、どん欲に文字を食む黒い目が、こちらを向いていることを認めた。
ラニは言っていた。情報は金と肩を並べる力だと。金という有形の力を持たぬ以上、あたしら貧弱女子高生が唯一力として恃むことができるのは情報だと。
言いえて妙だと思った。確かにあたしには情報が足りない。金も権力も持たぬ一介の学生が何か事をなそうと動く場合、やはりそこに情報という無形の力を恃んで事を動かすのが最もだ。無形有形問わず力とは行動のガソリン。なくては自動車も車輪を積んだただの鉄くず同然である。
だからあたしは、まずもって情報を集めることを目的にした。あの現場を探索すれば何かしらの痕跡が残っているかもしれない。そこで手に入れた証拠を、然るべき使い方をすれば入海君の救出に本腰を入れてくれるかもしれない。
今日日、警察だって証拠がなければ縄を用意しない。力を借りたいなら、証拠をまず提示するところからだろう。
放課後。バイトもなかったけれど、ラニには用事があると嘘をついて先に帰らせた。時間をずらして帰宅の途に添い、その足で例の現場に足を踏み入れた。
相も変わらず、人の気の一切を感じさせない環境である。日は高くにあるのに、暗さがある。
どうにも、この場所を目の当たりにすると妙な胸の高鳴りがする。トラウマとはこういうものを指すのだろうか。あたしは日傘を揺らした。
「誰もいないよな」
恐る恐るあたしは公共トイレに近づく。……あの時の女が、ぐわりと飛び出してくるかもしれない。そう思うと肩が縮こまる思いがする。
タイルに足を踏み入れる、その時だった。
「ああ、ちょっとそこのお嬢ちゃん」
と背後から声が聞こえた。背筋がゾワリとした。
「ごめんねェ。怪しいものじゃないよ、ワタシは」
と声は続く。店長のそれに似た、間延びするような声だ。だがどこか、刃物のような鋭さを隠しきれていない声色だった。
あたしは蛇ににらまれたネズミのように、体が固まってしまった。背後の気配はだんだん近づいてくる、
「その制服。君、付近の高校の子だよね。ちょっと聞きたいことがあるんだけれど」
あたしは油の切れたロボットのように、がちがちになった首を無理くり振り向かせた。
「今からちょっと、時間もらってよろしいか?」
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