猫と嫁入り

三石一枚

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二十三話

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「単刀直入に言おう。立花電工の事務所に盗みが入った。昨日の夜の話だ」

 つらつらと、静かながらに我が父は語り始める。声色はとても穏やかだけれど、果たして心底が如何なる感情で埋め尽くされているかなどというのは、今に考えるべきことでも無い。もはや、考えるまでもないことであった。
 私も内心、その雰囲気に気圧されていた。父のここまで憔悴しきった顔など見た事がなかった。母の頬に水の走った道ができているところも見たことがなかったし、両親ともにしおらしくなった今ほど、不吉な事など体感したことがない。
 語られるまでもなく、その空気は私に唯ならぬ不安を感じさせた。自然とたまった生唾を嚥下する。

「盗まれたのは、件の企画書。それから、参画するはずだった店の名簿。金銭のおろかは手付かずだった。被害にあったのはこの二つ程度だ」

「件の企画書・・・というのは、あちら方と共同で開発を進めようとしていたもの・・・ですか?」

 私の問いに父はゆっくりと頭を縦に振る。言うまでもなく、その企画書と言うのは、立花家と私の許嫁の本家側と進めていた事業の事だろう。
 さて、しかし気になるのが、父は今、被害にあったものを『程度』と称したことだ。
 顔の色すら忘れてしまうほどのこの問題事を程度と呈するには些か不審な点がある。
 かく言う私も、話を聞けばその程度なのかとも思ってしまった。もう少し、事務所が再起できない程度に破壊されたとか、そもそも火事を起こされたなんて類の話かと思われたからだ。

「正直、物が物なだけに取り返しがつかんのだ。してやられたのはたかが紙切れ二枚であると言うのに、そんなもの程度で立花電工の存続すむつかしくなる兆しがある」

「なんでそう潰れることばかり前のめりに考えるんです?・・・盗みに入られたことは確かに不肖ですが、しかしそこまで負い目を受けることは無いでしょう」

「いや、ある。企画書自体は特秘事項だったのだ。あれが漏れ出た時点で、立花電工の信用は無くなる。元より、立花電工がこの事業の組合長を張れてあったのも、地主の懇意があったからに過ぎない。もし組合に入った工場の各々の企業に総好かんを喰らえば、それこそ地主も代わりを考え直す事になる」

 と、父は言う。

「可笑しいとは思わないか?  事務所に転がり込んでまで盗んだものがこういった書類のみだったなどと。その中には、なぜだか参加する企業の名簿のほどまで綺麗に盗んであった。ともすれば考えられるのは、この組合中に立花電工の地位を陥落させようと考える不届き者が在るということに相違ない。企画書を失うのは事業にとっては痛手になり得るし、参加する企業の名簿を失う事は、総ての会社から爪弾きにされる種火に充分なのだ。ここまで完璧な、立花電工への悪意が込まれた犯行を許してしまった時点で、弁明を施す余地もなかろう・・・」

「し・・・しかし、そう悲観にならずとも、まだこういった被害に遭われましたと釈明すれば容赦頂けるのでは・・・?」

「そのような簡単に許されることではないのだ。これは・・・」

 父はまるで何かを思い出したかのように項垂れながらそう垂れる。

「・・・元より、立花電工よりも優れた電飾会社はあったのだ。我らは地主の方に好かれ、その顔と恩恵を譲り受けて、技術や機械、開発の幅を広げてもらっていたに過ぎん。手助けをしてもらっていた会社の殆ども、今回の事業に参加していただく方針で固めてあった。もしこの件で立場が変われば、今までのように恩恵も技術の支援すらも来なくなるであろう。とのすれば、立花電工の代わりとなる会社はそこらにまだある。見捨てられれば、はたまた我らが返り咲ける日はもはや来ないと言っていい」

「そんな・・・」

 言い返す言葉はない。事業における知識に欠ける私が、その元綱を引いていた父に対して、一体なんと申すことが出来るだろうか。家族内で、というか事業主としての当主である父が無理だと嘆くなら、私などという子供程度の知識など、なんの参考にもなりやしないし、役にも立たないだろう。
 父とて、ようやっと握りしめた出世への第一歩の中途に起きたこの事件に対して、全霊を尽くさないわけが無い。彼の血の気の引いた顔や、それこそ母のやつれた顔を見るに、どうにかこうにか、事態を収束すべる術を、その希望を、思案していたはずなのだ。
 それこそ、きっとその過程で父も母もぶつかり合っていたはずである。それでも、どうにもこうにもならないのだからこうやって日の消えてしまいそうなロウソクの如く、弱々しく在るのだろう。

 憎むべきは一つである。それこそ、盗みに入った不埒者ではあるけれど、手がかりもない状態ではどうしようもできない。こればかりは警察に用いるしかない案件であるし、例え犯人の存在を認知できたとしても、やはりそれは個人間のみでこなすべきではない問題なのだ。ひいては街の開発に直結する問題なのだから、この事実は結局のところ、企画陣に持ち込まねばならぬ件である。
 結論として、立花家の、否、立花電工の失態、というかこの盗難事件は忽ち広まってしまうというわけだ。
 例え私達が被害者であるとしても、盗まれた中に第三者の秘匿情報すら存在するのなら、企業側からすれば責任という形で立花電工に詰め寄るだろう。あまつさえ好かんを食らう立花家の失態である。これによる世間からの態度は冷ややかであることはまず間違いはない。
 人望のある会社であるならば、まだ近隣住民の暖かな助けがあるかもしれないが、再三行ってきた日頃の態度を省みても、温情を受けることはまず無い。

「・・・今からでも遅くはありません。私が行って、先方にこの事を知らせて、何とか取り次いでいただけるように頼むのはどうでしょうか」

 いつもの私なら渋い顔をする場面だろうけれど、状況が違う。恐らく、父と地主との会合では、堅苦しい話になってしまって破綻するような気がしてきた私は、自らそう言ってでる。
 許嫁、もとい、息子の嫁となる私の話であるなら、もっと穏便に聞き入ってもらえるのではないか、そう思ったのだ。何よりこの婚約の話が立花家と地主一家の関係を強く結ぶためのものなのだから、こういう時こそ私が動くべきなのだとも思った。
 私の申立に父はぐっと堪えるような表情をして、私にこう告げる。

「麗か。一つお前に大事を背負ってもらおうと私は思っている」

「大事・・・?」

 父の静かな進言に、私は背に嫌な汗を感じた。
 徐ろに背中を舐められるような、ぞわりとした感触。嫌な気配というのは、いつだって突発に生じる。
 そしてその気配は、必ずと言っていいほどに的中する。よくいえば虫の知らせであり、悪くいえばそれは悪風の前兆とも言えるものだった。
 何が言いたいかといえば、私がふらりと感じたこの悪寒から、父の次の言葉が私にとっては酷い選択肢となり得ることであるという事だ。事が事なのだから、父だって今更に善し悪しを判断している余裕はないはずである。文字通り闇雲、本気で彼は立花家と栄華の元である立花電工が損害を受けずにこの先生きていくための活路を探している途中であるだろう。
 結局両親揃って目処のたつ案すら浮かばぬというのに、そこで私に普段なら使うこともあるはずのない謙った申し方で私に頼むとするなら、勿論だが現状では私にしか頼めぬものであることは確かだろう。最も手応えが残せそうな思案がそうだったと言うべきか。
 窮地に立たされて尚も託されるとなると、それこそなにか嫌な予感がするのは明らかだ。ここまで困窮極まる状態から巻き返せる物事など、父のことであるから娘のことなど何ら考えてないかなり突拍子な考えであることに相違はない。

「なにをすれば良いのでしょう」

 おそるおそる、私は父に問う。
 普段なら大概人を下に見下すような横暴を振る舞う彼が、ここまで口篭るのも気味が悪い。
 しかし、面と向かってそう言われれば、聞かざるを、その考えに報わざるを得ないだろう。癪ではあるが立花家の示す道に沿うように誓ったのは他でもない私自身なのだから。

「・・・現状、もし参画する予定であった企業が遠のくとなれば、資金繰りの観点から確実に街の開発は白紙になる。地主方からすれば、それは最も最悪な事態とも考えれる。ともすれば、企業にとって目の上のコブとなった立花家との縁を切り、代わりを参入させた方が良いという考えになろう。当然、婚約も破棄。立花家も正式に地主から見放されるわけだ」

 と、父は言う。言わんとすることは分かる。接触が著しく悪くなった部品は取って代えるように、何事も円滑に回るように間引きと注油がされるのは今に始まったことじゃない。
 それより、サラリと放たれた婚約の破棄というのが耳に残る。ああまでして身体を張っていたというのに、なぜに今になってそんな事になるのだ。

「だが、婚約破棄さえ免れれば、これを脱却する可能性も見えてくる。要は、如何なることになろうとも破棄できぬ状況を作り出してやればいい。そうすれば、立花家の立ち位置は、夫婦で繋がってあるのだから、たしかに今回の件でかなりの傷を追おうと、地主と繋がった関係は保たれるはずだ。この繋がりがあれば、まだ自ずと今まで通りの周囲の関係を行っていけると思うのだ」

「つまり、どうしろと?」

  回りくどく逃げるような話口に少し呆れを覚え始めた私が結論を急ぐと、父は

「お前が、子を宿せばいい」

  とだけ言う。

「既成事実。相手方の息子が、お前との間に子を作ってしまったなら、相手もこれを捨ておけん。人道に外れるような行動を取れば、いくら地主といえど近隣の目に晒されよう。相手方に責任を取らさねばならぬ状況に立たせてやれば全ては収束する」

 言い切った父を、私は遠い景色を望むような目で見つめていた。実際、少しだけ、視覚がおかしくも感じていた。気が動転してるせいか、酷く興奮してしまっているせいか、胃に走るキリキリとした傷みのせいかは分からないが、ともかく、この一瞬だけは、私は私でないという感覚、もっと言うなら、立花麗かという人物に酷く同情と不憫を感じたのだ。漏れなく、それは私なのだが、父の言葉にそれほどに衝撃を受けたという事なのだろう。
 固まってしまい、上手く息すら吸えない。母は、どんな顔をしているのだろう。確認したくとも、目も顔も、そして感情の矛先すらが父に絞られるように固定されてしまい、上手く動けない。

 今更だが、やはり父は父だ。娘の身体を、ここまでぞんざいに扱えるものが果たしてどこにあるだろうか。
 婚約するのだから、勿論夫婦間でそういった事になるということは母からも教わったけれど、これはまるで状況が違う。
 作れと言われて作り、そしてそれを人質のようにして扱うというのか。
 私を、娘をなんだと思っているんだ。
 いつもなら呼吸を整えれば和らぐはずの感情が、今日に限って引くことは無かった。
 途端に腹が冷え、顔から血の気が引く感触を覚え、しかし胸部が発熱している矛盾を感じた。

  私は。

「今からでもきっと遅くはない。あの方の家へ出向いて、夜這いをかけるのだ」

  この日初めて、大人に手を出した。
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