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二十二話
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例えば私が、立花家の人間として生まれず、どこにでもいる無名の家の一人娘として在ったなら、どうなっていただろうとたまに思う。
質素な家と豊かとは言えない食事。服はきっと今着てる豪奢なものはきっと着れはしない。目に映すとしてもそれは、いつだって高級な店の硝子越しで、質感すら問えない手に届かぬ場所にある。いつか着ることが出来たらいいなと思いを馳せるだけ。無地で二調整の色合いの服装と、似合うか似合わぬか悩ましい安い簪。外国の服は高いという理由で母からは断られ、それでも娘に弱い父は頭を抱えながら、「母さんには内緒だぞ」とか言いながら、これまたあまり高くはない一着を買ってくれたり、それを母にバレないようにしながら、だけれど嬉しくてそれをこっそりと着て外出したり。
たまにいただけるお小遣いで、どんな服を買って、どんな体験をしよう。お小遣いに余裕があるのなら大衆劇場に寄って楽しむのもいいし、余裕がなければ駄菓子屋で買い食いをするのもいい。健康にも金銭にもよくない、変な味がする飴玉を買って頬張るのだ。不味いと愚痴を開きながらも、だけれどもちろん最後まで舐め尽くす。食品はタダじゃないし、お粗末な扱いをしていいものではない。なんとか家計をやりくりする父母から、その背中で語られて理解したその文言のとおりに。
左右には気の置けない友人の一人や二人。學校の日は常に一緒にあって、登下校も口裏合わせもしてないのに何故か集合してて一緒に向かう。休みの日には断りもなく我が家に立ち寄っては、私の所在を確認し、半ば強引に街に連れてく。
その日の用事は小遣いの内容で左右はするけれど、大体は街をぶらついて、服屋を巡ればこれがいいだのあれはだめだの。気が召せば購入するし、しなければ素知らぬ顔で退店する。
流行りのものには実に過敏で、高額と着くか安価と着くかで一喜一憂をする。化粧品だって然りだ。たまに個々で使っている銘柄が違うことで口論をして、少し空気が悪くなるのも良い。目に止まった飯屋で一服して、大変満喫すればお互いのいざこざも忘れて、いつも通り。
気が済むまで街を散策すれば、あとは家路にそれぞれが着く。家では母が既にご飯を作って待ってるし、父は娘の帰りに相槌を打つ。自室にこもれば購入した物を品定めするように眺めてみたり。
翌日は朝から買ったものの討論会だ。思ったことや気に入った点、本当にしょうもない感想を羅列する。例えあまり満足いかなかったとしても、結局は楽しかったと思い返す。そんな日々。
完璧ではないだろうか。私の欲しかったものがきっといくらでも手に入る。今ほど豊かな暮らしは出来はしないし、部屋だって小さくなる。今ほど安定されるであろうと約束された未来もなければ、今みたいに思い悩むことだって無くなる。
人並みの自由、立花家だからと裏で口を叩かれることもなければ、それによる忖度じみたものもなくなる。成金と揶揄されることも無くなってしまえば、きっと私にも気を許せる友達のひとりやふたりは出来たはず。私に近づこうとすると、成金に媚びを売ろうとしていると勘ぐられるとか、そもそも嫌われ者に近づこうともしないその雰囲気こそが、きっと私に友人がいない最大の起因なはずだった。
どれだけ努力しようと報われず、どれだけ頑張ろうと空回りをする。私個人の力ではどうしようもならない壁。うち果たさねば、このままの生活で終えてしまうと知っているのに、どうとしようにもどうともならない壁。それが立花の看板だった。
たとえ立花の家に生まれずに平凡な娘として生まれていたとしても、どこかしらでこんな物思いにふける時が来るだろう。普通な家庭に生まれずに、裕福な家庭に生まれていたならばどれだけ良かったか、なんて事を思う娘が、きっとこの世の中のどこかにいる。
誰だってそうだ。皆が皆、あるべき生き方に不満を抱けば、直ぐに逃避思考に差しかかる。今が納得行かぬなら、納得いける人生はどうなっていたかと、自分ではない自分っぽい何かに思いを馳せるわけだ。
それでも、そんな理想は常に理解から最も遠い位置にあるのだから、実際に裕福な私からすれば平凡極まる家庭に生まれた娘のそんな裕福な妄想など、理解に苦しむ。反吐が出るほど酷い現状を味わってきた私にしてみれば、砂糖に浮いたような想像を膨らます娘がいたならば、引っぱたいてでも止めてやりたいくらいだろう。
だけれどそれは逆も然りだ。私の考えを甘いとし、胸ぐらを掴んでくる平凡な家庭の娘もあるかも知れない。それこそが、互いが理想に近い位置にありながら、理解ができずにある距離感なのだ。詭弁を億さずに言うなら理解をしようとはしない部分なのだ。相容れないというのも正しいかもしれない。
現実は甘くはない。結局いずれの人生をとっても、ひりつくような刺激に会いながら生きていくことになるのだろうから、いつかはきっと、必ずと言っていいほど逃避思考は起こす。そしてその度にこう思う。
「何故私は、こうなのだろう」
人が偶像崇拝を行う理由の最たる要因は、自らの意思じゃどうにもならないからだ。現実逃避に近いその行為すら美化されるのは、同じく、評するものもどうにもならない事を抱えてることに他ならない。
理想、空想、頼るものがなければ、ついには仏に追い縋る。人とはなんとも浅ましいもので、いままで現に我こそが選ばれし物であると傲慢な態度に興じた人間が、まさにそんな状況に陥れば、毛を刈られた羊のように妙に弱々しく、あれほど仰々しかったものも途端にしおらしく成る。
例えばあの黒猫だって、私の見た幻覚、もとい存在のしないものであったのなら、私も偶像崇拝信者だったという事だろう。
どうにもならないことから逃げる為に、在るものでないものに縋っていたということなのだから。
考え出せば体調の悪さが際立つ。気にしすぎなのだろうか。
酷い悪寒と言いようのない震えを我慢しながら私はただただ歩く。
「ただいま帰りました」
戸を開ければ、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが玄関にまで及んでいた。今宵は焼き魚か。恐らくは私の帰りを待っていた両親が飯台で待機しているはずである。なんとも言えない空腹を携えてのこの香りは耐え難い。私は革靴をそそくさと脱ぎ捨てて台所へ向かおうとした。
急く私を止めたのは、両親の姿だった。止めたというか、私が勝手に行動を止めただけだが。二人は特に何もしていない。ただ、飯台では待たず、玄関と各部屋を繋ぐ廊下で、あたかも私の通せん坊をするかのように肩を並べて立っていた。その光景は充分私が動きを止める理由にもなるし、実際に両親も私のことを止める気だったのだろうけれど。
異様な光景だった。父も母も、斯様な形で私の帰宅を迎えたことは未だかつて一度だってない。不穏な空気を私は瞬時に察した。途端に胃がきゅうっと締まりだし、身体が拒否反応に近いものを起こし始める。
母の目の周りは赤く腫れぼったようになっており、眼は潤いを保っていた。父はいつもの威厳じみた顔つきでなく、らしくないくらいに眉を下げて、もの憂いでいる表情をとっていた。少しばかり、顔色も悪い気がする。
私は、もしかしたら私がなにかしてしまったのではないか、と薄らと強ばる。帰りもいつもより遅かったのを怒っていて、帰ってきたからそれを安堵する意味で迎えてくれたのか、もしくは結納相手から何かしら不服の連絡が来て、私に叱責するように言われたのか。定かじゃないが、私が瞬間に危惧したのはざっとそのことくらいだった。
だとしても、母の顔や父の表情を伺う限り、そこまで疲弊することなのだろうか、とそう思う。母の泣きはらしたような姿を見る限り、私の浮かんだ想像程度の事じゃここまで成りが変わることは無いだろう。
「麗か。よく聞け」
父は、思考をめぐらせる私にゆっくりと口を開いた。いつもの高圧的な物言いではない。転んで怪我をした子供に慰めを言うように、優しく、しかしどこか芯を持ったような声だった。いつもの、鼻につくような言い草でない。
「・・・如何致しましたか?父上」
おずおずと父に伺う。実際はこの雰囲気にして、聞きたくもなかったが、だがここまで神妙な父の態度も物珍しい限りだ。大半は恐怖で彩られた私の感情に、少しばかりの興味も咲く。
父は再び口を開け、言葉を考えるようにしながら、ちょっとずつ、言葉を小出しにしながらこう言う。
「まことに、言いづらいことなのだが。この家は。立花家は、もうだめかもしれん」
父の言った文言を私は大して理解はしてなかった。
その場の雰囲気だけが、事の重大さをかきたたせる。
「えっ?」
質素な家と豊かとは言えない食事。服はきっと今着てる豪奢なものはきっと着れはしない。目に映すとしてもそれは、いつだって高級な店の硝子越しで、質感すら問えない手に届かぬ場所にある。いつか着ることが出来たらいいなと思いを馳せるだけ。無地で二調整の色合いの服装と、似合うか似合わぬか悩ましい安い簪。外国の服は高いという理由で母からは断られ、それでも娘に弱い父は頭を抱えながら、「母さんには内緒だぞ」とか言いながら、これまたあまり高くはない一着を買ってくれたり、それを母にバレないようにしながら、だけれど嬉しくてそれをこっそりと着て外出したり。
たまにいただけるお小遣いで、どんな服を買って、どんな体験をしよう。お小遣いに余裕があるのなら大衆劇場に寄って楽しむのもいいし、余裕がなければ駄菓子屋で買い食いをするのもいい。健康にも金銭にもよくない、変な味がする飴玉を買って頬張るのだ。不味いと愚痴を開きながらも、だけれどもちろん最後まで舐め尽くす。食品はタダじゃないし、お粗末な扱いをしていいものではない。なんとか家計をやりくりする父母から、その背中で語られて理解したその文言のとおりに。
左右には気の置けない友人の一人や二人。學校の日は常に一緒にあって、登下校も口裏合わせもしてないのに何故か集合してて一緒に向かう。休みの日には断りもなく我が家に立ち寄っては、私の所在を確認し、半ば強引に街に連れてく。
その日の用事は小遣いの内容で左右はするけれど、大体は街をぶらついて、服屋を巡ればこれがいいだのあれはだめだの。気が召せば購入するし、しなければ素知らぬ顔で退店する。
流行りのものには実に過敏で、高額と着くか安価と着くかで一喜一憂をする。化粧品だって然りだ。たまに個々で使っている銘柄が違うことで口論をして、少し空気が悪くなるのも良い。目に止まった飯屋で一服して、大変満喫すればお互いのいざこざも忘れて、いつも通り。
気が済むまで街を散策すれば、あとは家路にそれぞれが着く。家では母が既にご飯を作って待ってるし、父は娘の帰りに相槌を打つ。自室にこもれば購入した物を品定めするように眺めてみたり。
翌日は朝から買ったものの討論会だ。思ったことや気に入った点、本当にしょうもない感想を羅列する。例えあまり満足いかなかったとしても、結局は楽しかったと思い返す。そんな日々。
完璧ではないだろうか。私の欲しかったものがきっといくらでも手に入る。今ほど豊かな暮らしは出来はしないし、部屋だって小さくなる。今ほど安定されるであろうと約束された未来もなければ、今みたいに思い悩むことだって無くなる。
人並みの自由、立花家だからと裏で口を叩かれることもなければ、それによる忖度じみたものもなくなる。成金と揶揄されることも無くなってしまえば、きっと私にも気を許せる友達のひとりやふたりは出来たはず。私に近づこうとすると、成金に媚びを売ろうとしていると勘ぐられるとか、そもそも嫌われ者に近づこうともしないその雰囲気こそが、きっと私に友人がいない最大の起因なはずだった。
どれだけ努力しようと報われず、どれだけ頑張ろうと空回りをする。私個人の力ではどうしようもならない壁。うち果たさねば、このままの生活で終えてしまうと知っているのに、どうとしようにもどうともならない壁。それが立花の看板だった。
たとえ立花の家に生まれずに平凡な娘として生まれていたとしても、どこかしらでこんな物思いにふける時が来るだろう。普通な家庭に生まれずに、裕福な家庭に生まれていたならばどれだけ良かったか、なんて事を思う娘が、きっとこの世の中のどこかにいる。
誰だってそうだ。皆が皆、あるべき生き方に不満を抱けば、直ぐに逃避思考に差しかかる。今が納得行かぬなら、納得いける人生はどうなっていたかと、自分ではない自分っぽい何かに思いを馳せるわけだ。
それでも、そんな理想は常に理解から最も遠い位置にあるのだから、実際に裕福な私からすれば平凡極まる家庭に生まれた娘のそんな裕福な妄想など、理解に苦しむ。反吐が出るほど酷い現状を味わってきた私にしてみれば、砂糖に浮いたような想像を膨らます娘がいたならば、引っぱたいてでも止めてやりたいくらいだろう。
だけれどそれは逆も然りだ。私の考えを甘いとし、胸ぐらを掴んでくる平凡な家庭の娘もあるかも知れない。それこそが、互いが理想に近い位置にありながら、理解ができずにある距離感なのだ。詭弁を億さずに言うなら理解をしようとはしない部分なのだ。相容れないというのも正しいかもしれない。
現実は甘くはない。結局いずれの人生をとっても、ひりつくような刺激に会いながら生きていくことになるのだろうから、いつかはきっと、必ずと言っていいほど逃避思考は起こす。そしてその度にこう思う。
「何故私は、こうなのだろう」
人が偶像崇拝を行う理由の最たる要因は、自らの意思じゃどうにもならないからだ。現実逃避に近いその行為すら美化されるのは、同じく、評するものもどうにもならない事を抱えてることに他ならない。
理想、空想、頼るものがなければ、ついには仏に追い縋る。人とはなんとも浅ましいもので、いままで現に我こそが選ばれし物であると傲慢な態度に興じた人間が、まさにそんな状況に陥れば、毛を刈られた羊のように妙に弱々しく、あれほど仰々しかったものも途端にしおらしく成る。
例えばあの黒猫だって、私の見た幻覚、もとい存在のしないものであったのなら、私も偶像崇拝信者だったという事だろう。
どうにもならないことから逃げる為に、在るものでないものに縋っていたということなのだから。
考え出せば体調の悪さが際立つ。気にしすぎなのだろうか。
酷い悪寒と言いようのない震えを我慢しながら私はただただ歩く。
「ただいま帰りました」
戸を開ければ、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが玄関にまで及んでいた。今宵は焼き魚か。恐らくは私の帰りを待っていた両親が飯台で待機しているはずである。なんとも言えない空腹を携えてのこの香りは耐え難い。私は革靴をそそくさと脱ぎ捨てて台所へ向かおうとした。
急く私を止めたのは、両親の姿だった。止めたというか、私が勝手に行動を止めただけだが。二人は特に何もしていない。ただ、飯台では待たず、玄関と各部屋を繋ぐ廊下で、あたかも私の通せん坊をするかのように肩を並べて立っていた。その光景は充分私が動きを止める理由にもなるし、実際に両親も私のことを止める気だったのだろうけれど。
異様な光景だった。父も母も、斯様な形で私の帰宅を迎えたことは未だかつて一度だってない。不穏な空気を私は瞬時に察した。途端に胃がきゅうっと締まりだし、身体が拒否反応に近いものを起こし始める。
母の目の周りは赤く腫れぼったようになっており、眼は潤いを保っていた。父はいつもの威厳じみた顔つきでなく、らしくないくらいに眉を下げて、もの憂いでいる表情をとっていた。少しばかり、顔色も悪い気がする。
私は、もしかしたら私がなにかしてしまったのではないか、と薄らと強ばる。帰りもいつもより遅かったのを怒っていて、帰ってきたからそれを安堵する意味で迎えてくれたのか、もしくは結納相手から何かしら不服の連絡が来て、私に叱責するように言われたのか。定かじゃないが、私が瞬間に危惧したのはざっとそのことくらいだった。
だとしても、母の顔や父の表情を伺う限り、そこまで疲弊することなのだろうか、とそう思う。母の泣きはらしたような姿を見る限り、私の浮かんだ想像程度の事じゃここまで成りが変わることは無いだろう。
「麗か。よく聞け」
父は、思考をめぐらせる私にゆっくりと口を開いた。いつもの高圧的な物言いではない。転んで怪我をした子供に慰めを言うように、優しく、しかしどこか芯を持ったような声だった。いつもの、鼻につくような言い草でない。
「・・・如何致しましたか?父上」
おずおずと父に伺う。実際はこの雰囲気にして、聞きたくもなかったが、だがここまで神妙な父の態度も物珍しい限りだ。大半は恐怖で彩られた私の感情に、少しばかりの興味も咲く。
父は再び口を開け、言葉を考えるようにしながら、ちょっとずつ、言葉を小出しにしながらこう言う。
「まことに、言いづらいことなのだが。この家は。立花家は、もうだめかもしれん」
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