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十三話
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私は存外、雨は好きだった。じめじめとした温さと肌にひりつくじわじわした湿気。こればかりは好めないが。
庭に咲く紫陽花は根元に何びきもなめくじを飼っている。おぞろおぞろしい絖のような軌跡を作りながら歩く、翠雨たる眉目な風景に似つかわしくない茶色の軟体動物も、殻を拵えた類似動物もこの際ひっくるめて、雨はすきだと私は言いたい。
香る青草も花緑青の色合いも草木を愛でるように這う水の軌跡も、目に訴えかける風情は私の心を緩やかにする。
時期はもう梅雨間近。夏の進行は留まることを知らず、灰色の絨毯が上空に敷かれた中、まるで蒸すかのような暑さが身を焦がす。肌にベタリと着物がくっつく感触は好きになれない。周囲の熱気と言い、まるででかい焙炉に置かれたような感じがする。蒸しまんじゅうになってしまうのか私は。麗か饅頭である。
黒猫の下を訪問して、一週間が経過した今、私は一人で燦々と降る雨の中を歩いていた。片手には淡い紫の傘。立花家から拝借してきた傘だ。水滴が傘に弾ける度に伝う振動が堪らない。少しばかり機嫌がよくなる。
私が足を進めた先は、凡そ一週間前、かの許嫁と共に歩いた街の一片である。
あの日と同じく、各人各様、三者三様、十人十色に百人百態、同じ容姿のものはいないとばかりの人々の波がそこにあった。
和風は勿論西洋を象った服装や、奇抜な人相、見ているだけで飽きのこない、そんな世界が眼前にすわる。あえて似通うところを挙げるなら、そのほとんどが手に彩色な雨具を咲かせている点だ。
さすがに色までは揃ってないが、鮮やかな花々が水滴を弾く様は梅雨の名にもってこいな風情ではなかろうか。
さて、私が再度街を歩くことになったきっかけは、化粧道具の白粉が残り少ない事に気がついたからだった。
通常なら、それを報告すると父が勝手に注文をし、後に手に入る寸法だったのだが、今回は何故か自分で買ってこいとの事だった。
理由を聞けば、「社会勉強だ。立花家を代表とするお前が常識知らずじゃ話にならん」との事。誰が今まで縛り付けてきたのか問いただしたくなる言葉だった。どの口が言うのだ。その口か。ふんぞり返った態度は実に気に食わない。私はまたも飛び出る形で街まで繰り出したのだった。
家のあの騒動はさすがに温和な私も心底腹が立ったが、こうして一人だけでのんびりとできる時間があるのは実にいい気分だった。
例外を除いて常に家に身を置く事を絶対とされる私からすれば十分に新鮮である。複雑怪奇極まる街の情報は、週一程度で収めるのならば疲れは来ない。
梅雨時期なこともあり、陰鬱な気分に浸りっぱなしだった鳥籠の中から脱し、ある種の気分転換になれる。陰鬱じゃない雨は好きだ。そこだけは訂正しておこう。陰鬱な雨は大嫌いだから。
あの一週間も前の話、勿論デート後によった相葉家の訪問で得た、心の底にある一つの変化。私は許嫁という存在に対して少しは前向きに考えようと考え始めていた。
立花家のためにその生涯を賭す事はさすがに度し難いのだが、それでも相手方には罪はない。
籍を納めることを認める訳では無いけれど、私の一存のみで相手方を冷たくあしらうのは、さすがに酷だと思ったからだ。
あの人は少なくとも、同伴については前向きに考えてくれていた。私だけ後ろめたく構えてめそめそするのもさすがに悪い。悪すぎる。
あくまで私の怨敵は実家の立花家である。そこを履き違えちゃならないと心底思う。
頑なに突っぱねても延々と変わらぬ状況であるならば、変化を起こすには確実のどちらかが折れねばなるまい。両親はもう決定したこととしてどう取り繕うともしないだろうなので、私が少しばかり弛んで見るしかなさそうである。
徒然と思いの丈を想像しながらぼうっと歩みを進めていたら、丁度私の目の前にいた対向者が何かをぽとんと落した。
不意に視界を下にすると、そこには花柄の巾着袋が落ちていた。恐らくは財布だろう。年季が入っているようで、ところどころが淡く変色してしまっている。
雨に濡れてしまうのもよいものでは無い。思案するより身体が先に動き、そろりと落し物を拾い上げる。
対向者は気づいていないようで、私とすれ違ったまま離れていく。はたっとした私はその様子に慌てて後ろから追いついて声をかけた。
後ろ姿は、濃い緑色をした傘を差した女性だった。
「あ、あの! これ、落としましたよ」
「あら、これはこれは。ありがとうございます」
傘から覗くその女性は、シワが入っていながらもまだ若さを見いだせる掌で巾着袋を受け取り、丁寧に一礼をした。
顔を上げた彼女を後目に跡を経とうとした所、私はふと立ち止まる。
「あれ? あなたは・・・」
視線の先でとらえた、柔らかそうな表情を持つ彼女は、どこか見たことのある顔だった。
「あ・・・おばさん」
「あらあら、べっぴんさんなお嬢さんだと思ったら、麗かちゃんじゃないの」
花道の兄さんの母親、私において最も信頼出来る大人の一人、相葉のおばさんだった。
おばさんはいつものようにふわりと微笑みながら私に問掛ける。
「こんな所で会うなんて、きっと何かの縁ね」
庭に咲く紫陽花は根元に何びきもなめくじを飼っている。おぞろおぞろしい絖のような軌跡を作りながら歩く、翠雨たる眉目な風景に似つかわしくない茶色の軟体動物も、殻を拵えた類似動物もこの際ひっくるめて、雨はすきだと私は言いたい。
香る青草も花緑青の色合いも草木を愛でるように這う水の軌跡も、目に訴えかける風情は私の心を緩やかにする。
時期はもう梅雨間近。夏の進行は留まることを知らず、灰色の絨毯が上空に敷かれた中、まるで蒸すかのような暑さが身を焦がす。肌にベタリと着物がくっつく感触は好きになれない。周囲の熱気と言い、まるででかい焙炉に置かれたような感じがする。蒸しまんじゅうになってしまうのか私は。麗か饅頭である。
黒猫の下を訪問して、一週間が経過した今、私は一人で燦々と降る雨の中を歩いていた。片手には淡い紫の傘。立花家から拝借してきた傘だ。水滴が傘に弾ける度に伝う振動が堪らない。少しばかり機嫌がよくなる。
私が足を進めた先は、凡そ一週間前、かの許嫁と共に歩いた街の一片である。
あの日と同じく、各人各様、三者三様、十人十色に百人百態、同じ容姿のものはいないとばかりの人々の波がそこにあった。
和風は勿論西洋を象った服装や、奇抜な人相、見ているだけで飽きのこない、そんな世界が眼前にすわる。あえて似通うところを挙げるなら、そのほとんどが手に彩色な雨具を咲かせている点だ。
さすがに色までは揃ってないが、鮮やかな花々が水滴を弾く様は梅雨の名にもってこいな風情ではなかろうか。
さて、私が再度街を歩くことになったきっかけは、化粧道具の白粉が残り少ない事に気がついたからだった。
通常なら、それを報告すると父が勝手に注文をし、後に手に入る寸法だったのだが、今回は何故か自分で買ってこいとの事だった。
理由を聞けば、「社会勉強だ。立花家を代表とするお前が常識知らずじゃ話にならん」との事。誰が今まで縛り付けてきたのか問いただしたくなる言葉だった。どの口が言うのだ。その口か。ふんぞり返った態度は実に気に食わない。私はまたも飛び出る形で街まで繰り出したのだった。
家のあの騒動はさすがに温和な私も心底腹が立ったが、こうして一人だけでのんびりとできる時間があるのは実にいい気分だった。
例外を除いて常に家に身を置く事を絶対とされる私からすれば十分に新鮮である。複雑怪奇極まる街の情報は、週一程度で収めるのならば疲れは来ない。
梅雨時期なこともあり、陰鬱な気分に浸りっぱなしだった鳥籠の中から脱し、ある種の気分転換になれる。陰鬱じゃない雨は好きだ。そこだけは訂正しておこう。陰鬱な雨は大嫌いだから。
あの一週間も前の話、勿論デート後によった相葉家の訪問で得た、心の底にある一つの変化。私は許嫁という存在に対して少しは前向きに考えようと考え始めていた。
立花家のためにその生涯を賭す事はさすがに度し難いのだが、それでも相手方には罪はない。
籍を納めることを認める訳では無いけれど、私の一存のみで相手方を冷たくあしらうのは、さすがに酷だと思ったからだ。
あの人は少なくとも、同伴については前向きに考えてくれていた。私だけ後ろめたく構えてめそめそするのもさすがに悪い。悪すぎる。
あくまで私の怨敵は実家の立花家である。そこを履き違えちゃならないと心底思う。
頑なに突っぱねても延々と変わらぬ状況であるならば、変化を起こすには確実のどちらかが折れねばなるまい。両親はもう決定したこととしてどう取り繕うともしないだろうなので、私が少しばかり弛んで見るしかなさそうである。
徒然と思いの丈を想像しながらぼうっと歩みを進めていたら、丁度私の目の前にいた対向者が何かをぽとんと落した。
不意に視界を下にすると、そこには花柄の巾着袋が落ちていた。恐らくは財布だろう。年季が入っているようで、ところどころが淡く変色してしまっている。
雨に濡れてしまうのもよいものでは無い。思案するより身体が先に動き、そろりと落し物を拾い上げる。
対向者は気づいていないようで、私とすれ違ったまま離れていく。はたっとした私はその様子に慌てて後ろから追いついて声をかけた。
後ろ姿は、濃い緑色をした傘を差した女性だった。
「あ、あの! これ、落としましたよ」
「あら、これはこれは。ありがとうございます」
傘から覗くその女性は、シワが入っていながらもまだ若さを見いだせる掌で巾着袋を受け取り、丁寧に一礼をした。
顔を上げた彼女を後目に跡を経とうとした所、私はふと立ち止まる。
「あれ? あなたは・・・」
視線の先でとらえた、柔らかそうな表情を持つ彼女は、どこか見たことのある顔だった。
「あ・・・おばさん」
「あらあら、べっぴんさんなお嬢さんだと思ったら、麗かちゃんじゃないの」
花道の兄さんの母親、私において最も信頼出来る大人の一人、相葉のおばさんだった。
おばさんはいつものようにふわりと微笑みながら私に問掛ける。
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